どろり




じわり。
焦りと罪悪感が汗となって噴き出す。
じわり。
しかし、それと同時に頭は妙に冷静だ。
噴き出した汗は玉のようになって男の腕に落ちた。かなたが恋をした男の肉体だ。

目が回る忙しさが何日何週間何ヶ月も続く。私にしか出来ないというものは責任感になり、おおよそ相応しくない量の仕事を引き受けてしまう。この道を選んだのは自分自身であるし、外で戦う道を選ばなかった自分のせめてもの償いみたいな私の戦い方だ。

いつもの通り朝7時に昨日の仕事が終わった。チカチカと眩しい陽光に目眩がする。
タフな人間にも限界はあり、このあと数時間の休養はどうしても必要になる。
ふらつく足で椅子に沈む。勢いよく沈むとぎしりと音がして、慣れたようにカップのある所へ椅子は滑った。溜め息をつきながら、じくりと痛む頭を抱える。

使い込んだカップにはコーヒーの跡がくっきりと残っていた。お気に入りのカップは高専時代にかなたがくれた物だ。確かゆっくり休みながらお茶を飲んで欲しいと言われて渡されたが、全く逆の用途に使用している。
インスタントコーヒーをこれでもかと投入し、ケトルのお湯を入れる。少し前に沸騰させたお湯の温度は低い。溶けきらないコーヒーはゴボゴボと音を立ててお湯の表面に浮き始めるので、それをスプーンで強引に溶かした。濃い真っ黒なコーヒーが喉を通る。
染みる水分に余計に目が眩む。

会いたい。
最後に会ったのはいつだろう。
好きな人が出来たと笑っていた時だろうか。アラサーにもなって少女のような彼女に私は何度も癒され、そして何度も地獄に突き落とされてきた。だとして、どうにもならない。私の性別も彼女の性別も女で、同じなのだ。
目を閉じれば彼女の笑顔が視神経を焼いていく。
『好きな人が出来たの、硝子』
私はお前の笑顔が大好きで、大嫌いだよ。

どろり、溶けきらない黒が喉を通って胃に収まっていく。その時、近くから走る足音が聞こえてきた。パタパタと軽い足音は誰のものだかすぐに分かった。

「硝子!」
「なに」
「助けて!」

身体の小さいかなたが抱えていたのは成人男性。だらりと垂れた腕からは血が零れている。必死に抱えられている腕の中で男の胸部はパックリと開いていた。出血量を考えても、余裕はない。早急に処置が必要だ。彼女からの願いだろうとなんだろうと医者としてすぐに動いた。

「こっちに寝かせて」
「うん」
「状況は後で聞くから」
「うん、硝子」
「なに」
「好きな人なの」

一瞬手が止まった。
かなたは絶対助けて、と言っているのだ。
水分で揺れる瞳は1秒もしないうちに海の波が押し寄せてきて、外へと流れ出る。
一刻を争う状況。
しかし、私は冷水を浴びたような気分だった。
すぐに私の動きは再開されて、寝かせた重体の男と向き合う。
彼女は泣きながら部屋を出て行った。
不安と心配、しかし、私の所に無事届けられたことに安堵していることも彼女の表情から読み取れる。

男の脈は弱い。かろうじて息をしているだけでも褒められたものだろう。
ヒューヒューと聞こえるのは肺の音だ。
青い手袋をはめ直した。
服にハサミを入れる。
顕になっていく身体は綺麗なものだ。
補助監督である男の身体に古傷はない。
かなたより綺麗なその身体を裂くように右腋窩から左側腹部にかけて鋭い刃物のような傷が入っている。傷は内部に達していた。肺が傷付いている。ギリギリの所で心臓を避けて胃にも大きな傷が見えた。
私はそれを青い手で覗きながらも、何もしていない。分からないのだ、この感情が。
元来私は嫉妬深いとか自己否定なんてものとは縁遠い。でもジリジリと身を焦がす、この気持ちは何なのだろう。
飲み込んだ泥のような黒が胃を過ぎて全身にまわったのだろうか。

治療をしなければ。
しなければ男は死んでしまう。
死んでしまったらどうなる。

「…………」

傷を塞いだ。
真皮は適当に、表皮だけ丁寧に。
じわり。
じわり。
こんな汗のかき方はした事がない。
ぽつりと垂れた玉のような汗が一滴。

男が死にきるまでもう一杯コーヒーを飲もう。きっと彼女は泣くから、慰める体力が私には必要だ。コーヒーを飲まなくては。

救えただろう命が消えたとき、熱い地獄のようなコーヒーはどろりと私の内臓を焼いた。




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