私は人間ではありません
本を開いていた。
中原中也『サーカス』。
ゆあ
ん
ゆよ
ん
ゆやゆよん
僅かに揺れる紫色のその影が瞼の裏ではっきりと浮かび上がる。その度に私は無性に胸が痒くなり、掻きむしった。冷たい爪でも血は流れたが、あの紫色ではなかった。
事情聴取の後に待っていたのは世間だった。
パトロンの自殺を目撃した悲劇の作家。
新聞記事にはそんな風に書かれ、
雑誌には私が殺したのではないかと疑っているような低俗な文章が楽しげに書かれていた。私は買った新聞と雑誌とコンドームをコンビニのゴミ箱に捨てた。
雪がちらつく道を早足で抜けて、鼻先と耳の冷たさにほんの少しだけ涙を流しながら帰宅。家の前にいたのは記者だろうか。
私は、こんな風に名が売れたかったわけではない。違うんです、夏油さん。
夏油さん。優しくて、怖くて、変な人。
笑うとかわいい人。情事には妙に勝気になる。私にお金を渡す時、ほんの少しだけ苦しそうにしていたのを知っていました。
イーゼル近くに立てかけてある木枠を蹴る。
もう二度と夏油さんには見て貰えない。
私を“私”として見て、愛してくれる人はいない。インテリアなんて上等だ。何だって良かった。
悲劇の作家、なんてよく言ったものだ。
ああ、夏油さん。夏油さん。
夏油さんの顔がぐにゃぐにゃと曲がり、ミキサーに掛けられたようにぐるぐる回る。
そして最終的にはあのてるてる坊主が私に残るのだ。私の魂にまで刻まれるそのシルエット。思わず部屋の照明を見上げれば、いつでもその後を追える気さえする。
なんて事を、とは思う。
でも私はそれを否定するわけにはいかなかった。
なぜ?
そんなの、彼が私に見せた誠実であるからに他ならない。
しかし、私は彼を不誠実だと思ったことはなかった。何が、といえばもしかしたら彼の仕事に関することかもしれないが、彼は自分のその深い深い溝を傷だと認識していなかった。やはり本当に彼は私に自分の誠実さを見せたかったのだろうか。それだけなのだろうか。思考がてるてる坊主の影と重なり、混ざり、交差する。
思わずふらついた手でテレビのリモコンを押すと、流れてくる報道。
死亡者として紹介される夏油傑の名前。
そうだ。そう。彼はてるてる坊主になったわけではない。死んだのだ。死んだ。死んだ。
彼が愛した私の作品に囲まれ、その半身の胎の中で命を絶った。
私は、
初めて胃酸の味を口から零した。
あの足の温度が忘れられず、しかしどれだけ自分の手を擦っても再現出来ない温度。
彼はいない。もういない。いない。
私のせいで。
そう、私と出会っていなければ彼は死ななかった。あんな、汚い死に方をしなくて良かった。私の名がこんな売れ方をしなかった。
でも出会ってしまった。
ぼろぼろと苦しいのか悲しいのか、身体が発熱する度に涙は音を立てて零れて、口からは何度も思い出と胃酸がごちゃ混ぜになって溢れた。
異臭で多少意識が戻る。
ゲロまみれのブラウスとスカートが滑稽で仕方ない。
ハウスクリーニングを呼んでから風呂に入り、服を捨てた。必要ない。もう要らない。
電話が鳴ったのは髪を乾かすのが面倒で腕を上げるのも躊躇われたその時だった。
知らないその番号に、いつもなら出ないのにその時は出ないといけない気がして通話ボタンを押した。がやがやと人混みの音。そして女の声が聞こえた。
「もしもし、夏油傑の母ですが」
夏油さんの母親からだった。
1月23日、身体がまともに動かない私に気を使って夏油さんの母親は顔を出した。
中学生くらいの男の子を連れた女性は嫌味なくらい夏油傑を彷彿とさせる顔をしていた。紫色のしていない、綺麗な顔。綺麗な長い黒髪に、切れ長の目。確かに化粧をしていても分かる、夏油さんの血族だ。
「傑がお世話になりました」
「いえ……自宅まで来て頂き申し訳ありません」
「いいの。あなたはそのままで」
私がどう足掻いてもカチャカチャと煩く鳴るお茶を出すと、母親はなんとも言えない顔で笑った。その顔は初めて出会った画廊での夏油さんを思い出す顔だった。母親の隣に座る少年は特に何も言わずに会釈だけした。
「傑の遺書は確認しました。あなたはこの部屋で絵を描き続けてください」
「え」
「傑は全財産をあなたに譲るそうです」
そんな話になっていたのか……。
私が警察に拘束されている間に葬儀は終わっていた。仮に、葬儀に参列出来たとして、私が参列出来たかどうかは分からない。
母親が生きているということは、私に話した身の上話は嘘なのだ。
その嘘と彼の誠実さのちぐはぐさに上辺だけの「ご冥福をお祈り」することは出来なかっただろう。
私がいつまでも俯いていると、トン、と音がした。女性らしく整えられた綺麗な爪。怒っているような様子ではない。ただ、話を聞いて欲しそうにしている。
トン、トン
親が小さな子どもをなだめるような、
そんな音。その音には覚えがあった。
「月島さん、傑にパトロンになるよう言ったのは私なんです」
父親を亡くしてから抜け殻のようになり、引きこもりがちになった夏油さんはそのまま大人になった。特にやりたいこともないが、金はある。その夏油さんに何かに投資することを提案したのは母親だったという。
「絵はいいって言うでしょう?だから言ったのは私なの、だからあなたは自分を責める必要ないの」
落ち着いた優しい声音。
私の手が思わず顔を覆う。遠慮なく濡れていく顔面、垂れて落ちていく雫を、母親と少年は黙って見つめていた。
「ごめんなさい」
私は嗚咽が少し落ち着いてから言った。
出したお茶はとっくに冷えていたが、母親は笑った。
「暖房が暑いくらいだから平気」
左手で軽く扇ぎながらウィンクで答える。
よく似ている。
とてもよく似た親子だ。母親は脱いだコートを膝掛けのようにしながら冷えたお茶に口をつけた。
ふと、何故少年は上着を脱がないのか気になった。
「じゃあ何かあったら連絡してね」
暫く他愛もない話をしてから、夕飯は鍋を2人でするのだと言ってソファーから立ち上がった。合わせて立ち上がると、座っている少年を上から見る形になる。まだあどけない細い首筋がちらりとのぞいた。
その後すぐに立ち上がった少年は黙って母親について行く。
真っ直ぐ玄関に向かう2人を追い掛ける。
そして、掴んだ。
少年の上着を掴んでその勢いのまま捲る。
よく見知った情事の痕跡が、
はっきりとあった。
私がインテリアであったように、
彼もまた人間ではなかった。
夏油さん。そして、この少年も。
「どうかした?」
少年を掴む私の手を細い手がギチギチと掴んだ。丸くて綺麗な爪が私に刺さる。
「ああ、あなたもこの子を買いたいの?」
私、
私は
。
作家のかなたさん(本名────さん)(─)が1月23日、東京都内のマンションで転落し死亡した事故で25日、死因は外傷性ショックで、事件性はないとみられることがわかりました。
これは23日午後3時ごろ、都内のマンションで作家の────さん(─)が倒れているのが見つかったもので、──さんは搬送先の病院で死亡が確認されました。
警察の司法解剖で、死因は強い衝撃を受けたことによる外傷性ショックと判明しました。
警察によりますと23日午後3時ごろ、関係者から「話をしに親子で会いに行くと言ったのに反応がない」などと
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