知らない男


バイトを掛け持ちして貯めた貯金が通帳から綺麗さっぱり消えたのは、スーパーのもやしが2円値上げした10月頭、秋の出来事だった。

個展の入口に置いてある芳名帳は秋の雲のように僅かに色付いているだけで、ほぼ真っ白と言っても良かった。色を付けているのも私の友人知人の名前であって、各地に置いたDMの効果が見て取れるものではなかった。

僅か3日の日程である個展の最終日である今日。3日連続でバイトを休んだ私に訪れるものは何も無い。ただ消費されていく金。

金、金、金。

金の魅力に比べたら、私の作品たちは泥水を覗いているようなものなのだろう。


節約の為に汗を流し、遠くの画材屋まで走り、余りの木材を分けてもらい、キャンバスを張る。

私が手を掛けてきたもの全て。
全てが無駄になるのは学生時代から同じだった。


特別グロテスクなわけでもなく、
かといって美しいわけでもない私の絵で
なんとか入った美術大学はただの偶然の重なりだった。受かった時は嬉しかった。
しかし、常に天才たちと比べられる生活というのは吹き荒ぶ真冬の嵐のように私の視界を暗くさせていった。

それでも絵の具を限界まで絞り、鋏で切って中に筆を突っ込んでキャンバスにそれを走らせ続けた。
デッサン、クロッキー、デッサン、クロッキーを繰り返し、それをキャンバスに起こす。

色付いていく私の可哀想な作品たち。

数少ない友人たちから油やフィキサチーフを分けてもらって、頬を伝う涙など無視して描き続けた。

それでも、私は周りの才能に埋もれ続けた。

常に陰道を進む私は陽炎のようにゆらゆらと揺れ続けては、静かに消えていく。

消えてしまうくらいなら、
才能がないのなら。

絵を描くのを辞めてしまえばいい。

誰もがそう言う。

絵を描きたいのなら老後にでも趣味にすればいい。

誰もがそう言う。


それでも私が筆を握り続けたのは、今の私にしか描けないものがあると信じたいからだった。信じているのが自分だけだと分かっていても。


「すみません」

掛けられた声が私に向けられたものだと気付くのには少し時間が掛かった。
芳名帳からゆっくり顔を上げると、隣に背の高い男性が困ったような顔で笑っていた。

「こんにちは」
「……こんにちは」
「書いてもいいですか」

男性の大きいゴツゴツとした指が指差すのは芳名帳。

ギャラリーの関係者か?

私は急いでそこからどき、どうぞ、と頭を下げた。理由がどうであれ、見に来てくれた人は久しぶりだ。私は急いでギャラリーの奥に歩みを進める。無駄に作品数だけ多い為、私が作った一覧の紙を手に取り、再び芳名帳のところに戻る。

改めて見ると、男性は身長があるだけではない。とてもガタイがよく、ストライプのグレースーツがよく似合う。ストライプが筋肉の盛り上がりに合わせて上がったり下がったりしているのが美しい。艶のある長い黒髪はハーフアップにされていて、切れ長の瞳は伏せられ、睫毛がライトによって芳名帳に影を落としていた。大きなピアスが少し異質にも思える。

素直に、美しい人だと思った。


「あの、こちらどうぞ」
「はい。……作品のタイトル一覧ですか」
「はい。作品数だけは、無駄にあるので」

男性は見える範囲の壁に軽く目をやった後、
無駄ではないですよね。と言って私の横を通り過ぎて行った。


1つ1つの作品の前で足を止めて、隅々まで視線を走らせている。……なんとなく、走るというより、舐めるようにも見えるのは私の錯覚だろう。



私は奥にこっそりと置いてある水筒のお茶を1口含んだ。
それもそうだ。
黒髪長髪の男性はかれこれギャラリーに1時間半もいる。何かを話すわけでもなく、1つ1つの作品に目を通しているだけで。
ちらりと彼を見れば、まだ2割ほど作品が残っている。私の作品をこんなに真剣に見てくれる人なんていただろうか。
大学時代の教授たちでさえ、こんなに真剣な眼差しはしていなかっただろう。



30分が経った。
その間にギャラリーに来たのは友人1人。
と言っても、差し入れにお菓子を私に渡してすぐに帰っていった。

男性はと言えば、残り2割から進んでいない。つまり、1つの作品に30分掛けているということだ。
私からすれば、相当変わっている人なのだが、でもそれが嬉しくないと言ったら嘘になる。私はまたお茶に口をつけ、大きく飲み込んだ。
ごくん、という音と男性が私を見たのは同時だった。思わず背筋を伸ばすと、彼は来てすぐに見せた困ったような笑みを再度浮かべた。

「すみません」
「あ、はい」
「どうやったら、こんな絵が描けますか」

え、と思わず声が漏れると、彼はそれを見て声を出して笑った。
にこにこ笑いながら私に手招きをする。
そろそろと近付いて、彼の横に並んだ。

「こういう絵、お好きですか」
「どうかな。でもDMに載っていた絵ってこれですよね」

S50のキャンバスを彼がまじまじと見つめながら漏れるような声で呟いた。

「はい。新作なんです」
「新作……どこかにアトリエでも?」
「小さなワンルームですよ。自宅兼アトリエです」
「そうですか」

私を見たのは一瞬で、また彼が何度も眺めたキャンバスに視線を戻す。
まだ作品はあるしな、と思い私は頭を下げて戻ろうとすると後ろから声を掛けられた。

「タイトルは“ムサイキ”という読みで合ってますか」
「はい。無才季です」

私は変な姿勢のまま彼を振り返ると、彼は腕を組んで何かを考えている。
何事か。


「……決めた。私は君に投資をします」
「投資、ですか」

彼は来た時と同じように私に真っ直ぐ向き直って、少し跳ねるような声音で続けて言った。


「私は君のパトロンになる」


咄嗟にバイト先の店長とチーフの顔が頭を過ぎった。




「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -