薬指の条件





寒いな、と思って身体を起こすと大きなベッドには私1人だった。
悟の部屋のベッドは大きな悟もすっぽり収まるように特注で作られていて、それはそれは大きい。そんなベッドに私だけご丁寧に毛布が掛けられていて、隣はもぬけの殻。
確か今日は非番のはず。
緊急の任務でも入ったんだろうか。
それとも、なんて思考を巡らせる。

ふと目に付いた鏡には彼の跡がそこら中に私を覆っているのが見えた。
深いため息を吐いて、気だるげな頭と腰に鞭を打ってリビングに向かった。

時期は梅雨で、今日も細かい雨粒が窓ガラスを叩いている。面倒臭そうに部屋干しされた黒い服たちは後で乾燥機で回そう、と決めてキッチンに立つ。
食欲がない。
仕方ないので食パンを1枚手に取ってふかふかのソファーに身を沈めた。
悟が部屋を引っ越す際に2人で決めたソファー。その時まだ私は悟に片思い中で、付き合うなんて夢のまた夢だと思いながらよく枕を濡らしたものだった。
ズキン、と頭なのか胸なのかが痛む。

わかる。わかるよ。
最近非番になると私を置いていなくなること。半休だけの時は報告さえしてくれないこと。何を聞いてもはぐらかしてくること。
わかってるよ。

これが、浮気か。
少し湿って歯に張り付く食パンを口に運ぶ。
1口食べただけで吐きそうだ。
大きなソファーの上で両膝を抱える。
何もかもが悟サイズのこの部屋に私は浮いて見える。目を閉じれば、嬉しそうに私に印を付ける悟の顔が浮かぶ。
自己中。最低。
その印は浮気に気付かない馬鹿女の印ですか。さようですか。

無性に悔しくて、口から出る声は言葉にならない。とにかく近くにあったクッションを壁掛けの大きなテレビに投げ付けてみても何も解決しない。静かな空間に私の嗚咽だけが響く。

付き合う?って聞いてきたのは悟の方だった。それは2年前の9月で、日付だって時間だってハッキリ思い出せるのがまた胸を締め付けた。君が泣きたい時は必ず駆けつけてあげるよ。それが条件、ってのはどう?
なんて。1度だって守られたことのない条件を飲んだ私は本当に馬鹿だ。
頭が痛い。胸が苦しい。呼吸が、出来ない。

1人、ソファーの上で必死に呼吸をしようと足掻いていると聞きたくない声が聞こえてきた。ただいまーなんて、今のアンタの帰ってくる場所はここじゃないでしょ。と頭の片隅で思う。

「待って、どうしたの」

悟は持っていた何かを落としたのか何か音をさせてから私に触れる。
過呼吸の私の背中を擦りながら優しい声音で深呼吸して、ほら、ゆっくりと声をかける。それで余計に手元のクッションが濡れていくのに気が付いているのだろうか。

「ゆっくり息吐いて、ほら10秒掛けて。もしくは息止めてもいいから。とにかくゆっくりね」

10秒数えるように悟の大きな手が私の背中を叩く。その優しさでまた胸が苦しい。
他の女にはどんな印を付けてきたんですか。

悟の応急処置で不覚にも落ち着いてしまった私の頬に雫が伝う。流石にそれを見逃すほど鈍感な男ではなかったらしい。
どうしたの、なんて私を抱きしめる。
悟の呼吸が私の馬鹿な女の印に当たる。

分からなかった。
しがみつくのが正解なのか、
いい女気取って手放すのが正解なのか。

なんて、思いながら私は悟の首根っこを引っ掴んでいた。言うな。言わないで、私。

「捨てないでよ!!」


悟はきょとん、とした顔で私を見ている。
言ってしまった。
悟は縛られるのが嫌いだ。
付き合う前に言ってた。
君にならいいかも、なんて付き合ってから言っていたのは戯言に違いない。
それでも私は止まれない。

だって、どうしようもなく好きだから。

捨てないで、捨てないでと悟の首根っこを引っ掴んで顔を埋める私に悟が戸惑いながら手を伸ばしてきた。

「……僕が何かしたんだろうけどさ。意味分かんないんだけど。これどういう状況?」

何の裏も無さそうな声音。
悟はぎゅう、と私を抱きしめていつもするように私の首元にすり付いてきた。

「なにって、浮気してる、んでしょ」
「してないけど?」
「嘘」
「残念でした、本当でーす」

僕かなた一途なんで。と付け加える。
まぁ待ってよ、と言って悟を掴む私の手を優しく解かせる。悟の体温が離れた部分が寒い。蒸し暑い今日なのに、異常に寒い。私は自分の肩を抱きながら悟の様子を目で追う。

さっき落としたのは小さな紙袋だった。
私でも知ってるブランドの、小さな紙袋。

「本当はさ、色々考えてたんだけど……ま、いいよね」

そう言って紙袋から小さな箱を取り出した悟は再び私の隣でソファーに身を沈めた。

「ねぇ、覚えてる?僕が君と付き合ってもらう為の条件」
「……覚えてない」
「そっか。君が泣きたい時は必ず駆けつけてあげるよ、ってやつ。僕全然守れてないからさ。だから上書きしようと思って」
「上書き?」
「そう、上書き」

呼吸をするように当然のように私の左手を手に取って、それを薬指にはめた。
シンプルだけど個性のある木目調のプラチナリングは雨の日の暗い部屋でも輝きを放つ。

「ねぇ、絶対守るから。君を老衰で死なせてあげるよ」

そんなプロポーズありますか。
それは言葉にならず、私の頬は再び冷たくて温かい雫がどんどん流れていく。

「返事欲しいな。一応、これでも緊張してるんだよ」
「……嘘、吐き」
「残念、これも本当だよ」

強引に悟に引っ張られて悟の厚い胸板に耳を付けると、それは異常なほどに音を立てていた。

「最近忙しかったのは、リング選び。あとはジジイ共の説得」

お分かり?
僕大変だったんだよーなんて言葉を唇で飲み込んだ。
どんどん深くなって、水音がして、唾液が唇や顎を伝っていくのも構わずに私たちは唇を重ね続けた。
ぷは、と深い呼吸が出来るようになると悟は私の唇を舐めた。
私はねぇ、と悟に声を掛ける。

「いいよ、老衰で死んであげる。ただし、条件があるの」
「いいよ、なぁに」


必ず隣にいて。


悟は唇まわりの唾液を拭き取ることなく笑った。




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