逆夢


「逃げよう」と私は言ったけれど、彼女は泣いてばかりだった。震える身体を抱きしめる。小刻みに揺れる背を上から下へ撫で下ろしていくと、彼女はゆっくりと顔を上げた。潤み、揺れる瞳。そこにはただの男が映っていた。僅かな隙間にこの先を夢見るただの男が私だった。糸を通すような隙間である。本来であれば大海のような未来があるだろうに、その隙間を狭めているのは、彼女が殺してしまった非術師の死体だ。
 
 
 私はずっと、かなたのことを目で追っていたように思う。特別美人というタイプではなかったけれど、どこか愛嬌があって、同級生のことが大好きだと公言出来るようなかなたのことを私も大切に思っていた。
 大体の記憶は四人揃っているが、一度だけ、一年生の冬に二人きりで宿に立ち往生したことがある。大雪に道が塞がり、吹雪いてしまって私の術式で飛んでいくのも難しいとのことで、任務先から一番近い宿に逃げ込み、暫くそこで過ごしたのだった。その時、宿は一部屋しか空いていなくて、二人でせまっくるしい思いをしながら小部屋で身を寄せ合った。その時から既にかなたのことを意識していた私は、ここぞとばかりに身を寄せ、色んなことを聞き出した。趣味、好きな色、好きな花、最近やって楽しかったこと、好きなタイプ。私の怒涛の質問攻めにもかなたは笑って答えてくれていたが、最後の質問にだけはなかなか答えてくれない。言いよどみ、視線を外に向ける。二重になった窓の外では白い雪が世界に線を引いているような光景で、昔見た浮世絵なんかを思い出す。世界は真っ白だ。その純白にかなたの仄かに赤い顔が浮かんで見えた。
「……背が高くて、口が悪くて、でも優しい。サングラスの男の子」
 私はとうとう答えてくれないことを覚悟して外を見ていたら、ぽつりと彼女がそんなことを言った。すぐに理解する。かなたは悟のことが好きなのだ。息が出来なくなるかと思った。まさか自分の好きな人が、自分の親友を好きだと言ってくるとは思っていなかった。だって私たちは四人で仲が良かったから。なぜだか自然と仲良し四人組でやっていけると思っていたが、そこに恋愛感情を持ち出したのが私だけでは無かったという話だ。一瞬、自分を棚に上げて『悟のことなんか好きになるなよ』と脳内で誰かが言う。思わず握り締めた拳が鈍く痛んだ。私はかろうじて「そっか」とだけ言うことに成功したが、その後のことはあまり覚えていない。帰り際にかなたと少しだけ雪で遊んだことをほんのりと覚えているが、その時にはかなたは雪だるま! と言って私たち四人の雪だるまを作っていた。一回り悟の雪だるまが大きい。それはひとえに悟がデカいから、で済ませられるのに、私はと言えば『それだけかなたの中で悟が大きいのか』と重ねてショックを受けていた。
 
 それから夢を見る。繰り返し、冬が死に、春が芽吹き、夏が盛っても夢を見続けた。
 かなたが私の手を取って頬に寄せ、「温かいね」と笑い、そのまま私の顔に唇を寄せる。柔い肉の感触を口先に感じ、吐息がふんわりと顔に当たった。長い睫毛がぴくりぴくりと僅かに揺れて、それが擽ったい。決まって夢の中では春だった。青空に舞う桜の花弁がかなたの髪に絡んで指で何度も攫う。攫って、攫って、なのに次第に桜は雪に変わっていって、あの日の頬を染めた彼女が浮き出てきてしまう。やめてくれ。そんなかなたを見たかったわけではなかったんだ。ただ、私にも希望があるんじゃないかと思っただけだったんだ。春の芽吹く夢のほつれを繰り返し、見た。
 そうして息を切らせて目を覚ますと、いつも暗がりの中で一人だ。脂汗を拭う。今は冬でも春でもない、夏だ。また汗を拭う。とめどない汗を拭っても拭いきれず、布団に顔を埋めた。次の日、悟に目が赤いと言われたが、寝不足だと嘯いた。
 
 そんな夢に変化が訪れたのは、星漿体の護衛任務が失敗に終わったその日からだった。
 春の公園、ベンチに私とかなたが座っていて、いつものように言葉を交わして、唇を寄せ合う。しかし、背後には別の女の子が立っていた。
 《嘘つきの顔じゃ》
 その言葉に勢いよく振り返る。セーラー服の女の子は血に濡れ、今にも泣き出しそうな顔で立っていた。ガタリと立ち上がる。
 《妾と来たのが五条悟だったら、助かっていたかもしれないのに》
 そんなことを言われた記憶はない。これは夢だ。
 《お前が弱いから私は死んだ》
 これは夢だ。
 《帰ろうって言ったのに、嘘つき》
 これは夢だ。
 背中に温かい手が触れる。かなたが不安げに眉を下げて私を見下ろしていた。「どうしたの? 痛い?」と私を心配し、私の手を取って握ってくれた。これも夢だ。私を心配して、愛してくれるのも、理子ちゃんが私を責めるのも、全て全て全て。手を打つ音がする。パチパチと。
 
 ハッと目が覚めた。そのまま身体を勢いよく起こすと、心臓が早鐘を打っている。それでも耳障りなパチパチという音が意識に残っていた。汗はかいていない。気付けば季節はまた冬に足を突っ込み始めているからだ。巡る季節の中で私の夢だけが春に残されつつあった。ぐらりと意識が揺れる。しかし眠りたくない。少し服を着込んで外へ飛び出した。乾燥した冷たい空気が顔を冷やすが、全て忘れるために走り込みをする。速度調整なんてせずに、全力疾走でグラウンドを走り回る。真っ暗なグラウンドで走り回っていると意識が鋭いほどにハッキリしていくが、同時に脳内にはかなたがいて、会いたいと思ってしまっていた。そういえば、かなたとは暫く会っていない。私が夢のこともあって、少し避けているからだ。彼女にはそれが丁度いいだろう。そうすれば、悟と二人きりで過ごすことも増える。
「……あ、あああああ!!」
 叫ぶ。行き場のない、名前のない感情が次々に溢れて叫ぶ。どうしたらいいのか分からない。何を飲み込まなければならないのか分からない。私は、ただかなたと青い春に触れ合いたかっただけなのに。何も上手くいかない。パチパチと音がする。もう一度叫ぶ。音をかき消すことが出来なくて、何度も何度も叫んだ。夜は長く、暗い孤独が延々と続いた。
 孤独は嫌いだ。そして、それを縁取るかなたのことも、非術師のことも、何より弱い自分自身が、嫌いだ。
 
 
 糸のような光が差したのは、その次の年の春のことだった。陽光が桜に透けて乱反射している、真昼のこと。一本の電話が私を長い夜から連れ出した。かなただった。
「非術師殺しちゃった」
 その言葉に私はどう思ったことだろう。喜び? 悲しみ? 衝撃? どれもそうだったと思う。それら全てが光に見えた。だから私が真っ先に言ったことは「場所は?」という言葉で、その時久しぶりに手を打つ音が聞こえなかった。悟に相談するでもなく、私に真っ先に連絡したきたのは何故だろう、と少し考える。私が彼女のことを好きだと知っているから、助けてくれると思ったのだろうか。それとも私が非術師を嫌いだと見抜いていたのだろうか。ぐるぐると思考が巡ったが、死体の真ん中で震える彼女を見てどうでもよくなった。
 かなたを支えられるのは私しかいない。
 これが正夢でも、逆夢だとしても。




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