ユスリカの蝋


 禪院家の広大な敷地内の片隅には忘れ去られたような離れがあった。使用人たちはそこに何が置かれていて、何が起ころうともただ黙々と掃除に勤しむだけだ。たった一人の家人が立ち寄る程度なのも理解した上で、埃ひとつ残すことは許されないのだ。
 その日も使用人の一人が冷たい冬の空気に悴んだ手を擦り合わせながら、床を水拭きしていた。ふと雑巾の色が薄く赤みがかっていることに気付き、板張りの床を凝視した。板同士の隙間が赤く染まっている。まただ。この部屋では大した量ではないのだろうが、日常的に――――ほぼ毎日、血が床に零れ落ちていた。使用人はそれに身を震わせる。使用人たちが危惧するのは我が身である。いつ何時禪院家の方から目を付けられ、肉体的にも精神的にも奴隷扱いされるか分からない。その恐怖に身を震わせながら、見なかったフリをして床を磨く。冷たい空気は痛みをもって指先に冬を知らせていた。突き刺すような痛みに手を引いた瞬間、すぱん、と小気味いい音が響いた。目の前には室内と外を隔てる障子があり、そこが勢いよく開いたのだ。すぐに額を床に付ける。視界には上等な足袋が見え、その脚が女性のものであると気付くと少しばかり気が楽になった。その女性は暫く立ち尽くした後に使用人に声を掛ける。優しい声音だった。
「すみません。桶で水を持ってきてくれませんか」
「かしこまりました」
 必要最低限の会話を交わし、顔を上げる。すると、開いた襖の奥、女性の脚越しに何かが見えた。肉の塊だ。黒髪の乗った頭はあれど、その首の下は手足のないただの肉の塊。ぞわりと全身に鳥肌が立つ。使用人は今にも泣き出してしまいそうになりながら、「今持って参ります」とかろうじて口にして、その場を去った。先程見たアレはなんなのだろう。分からない。分かってはいけないのだ。
 
 
「見られちゃったかもしれないね、甚爾」
 上等な着物に身を包んだ女がそう言いながら、桶の水にタオルを浸した。何かを察した使用人はわざわざ水にお湯を混ぜ、触りやすい温度にしてくれた為、女の手は使用人のように悴むことはなかった。水に浸し、それを柔く絞る。それから目の前で壁にもたれかかった肉の塊を見た。本来であれば美丈夫かと思われる顔面の口元には傷があり、その下には太ましい筋肉質な首がついていた。その首にタオルを当て、優しく擦りあげる。
「気持ちいい? 甚爾」
「……ねえ、さん」
「うん。姉さんはここにいるよ。今身体拭いてあげるからね」
 甚爾と呼ばれた肉塊は蠢く気配を出したが、手足が欠けていればそんなことも出来ない。そんな状況を甚爾は舌打ちをするでもなく、ただぼんやりと姉を見ていた。姉は見る目を持ち、術式を持っていたが、禪院家の男に気に入られただの肉便器と化していた女だ。昼夜問わず、あらゆる男に掻き抱かれる。しかし、その代わりに忘れ去られたような離れと立派なおべべだけは与えられていた。姉はそれ以外に何も持っていない。そこに転がり込んで来たのが、種違いの弟、禪院甚爾だった。転がり込んで来たというのも、姉がこっそりと助け出し、軋む離れでただ面倒を見ているに過ぎないのだが、甚爾は薄昏い面持ちでそれを受け入れていた。
「……姉さん」
「なに? ご飯いる?」
「いる」
 人間とは浅ましい生き物だと甚爾は思っていた。他を見下し、蹴落とし、自らをそうして上位に立たせようとする神経と思考が浅ましく、愚かしい。しかし、手足を失い、達磨となった俺が女に食事を求めることもまた、人間の浅ましさであった。死にたくないなどと宣うつもりは毛頭ないが、甚爾にとって姉の存在は大きかった。幼少期から唯一、禪院甚爾という少年を透明人間にしなかった人物だからだ。常に心配をし、常に声を掛けてくれる。だからこそ、今もこうして達磨になった俺に素人同然の治療を施し、膿を取り、身体を拭き、排泄物を処理してくれるのだ。女の手が柔らかいことを姉を通して知った。
「ねえ、甚爾。いつか外に出ようね」
「……無理だろ」
「でも姉さんが甚爾の手足になるから。そうしたらさ、甚爾なんて名前も捨てちゃおうよ。私が名前付けてあげる」
 姉は決して賢いとは言えなかった。希望を捨てず、どこかに天国があるんだとでも言い出しそうな馬鹿な女だった。しかし、それが甚爾にとって嬉しいことだった。馬鹿な女の馬鹿な妄想を聞いている時だけ、痛みを忘れられる。だからこうして、冷たい壁に凭れながら話を黙々と聞いている。時折、熱を持て余した姉に甚爾の己をしゃぶられることはあったが、気になるようなことでもなかった。こんな棒ひとつで姉を癒せるのなら、甚爾はそれで良かった。
こんな日常が続けばいいと思った矢先のことだった。
 
 その日の朝は騒がしかった。ドタドタと複数人の男の足音が廊下から響き、姉はその音で飛び起きた。そして慌てて甚爾に着物の一枚を上に被せて隠すと、部屋を飛び出した。すぐに足音の主たちと遭遇したのか、姉は「どうかされたのですか」と動揺した声で言う。しかし男たちはお前に言動など求めていないのだと。穴を差し出せ、今むしゃくしゃしているんだと、そう喚き散らして姉の肩を突き飛ばし、転んだ姉の服を剥ぎ始めた。姉は僅かに抵抗したのか、痛ましくぶつける音が離れに響き渡る。そして襖が外れ、ばたんと大きな音を立て、姉の身体が半分部屋に入り込んだ。しかしその時には既に襦袢も脱がされている状態で、男たちは穴のことしか考えずに群がっていた。夜光に集るユスリカ以下だ。甚爾は掛けられた着物の隙間からそれを見ていた。姉が犯される。自分の唯一の尊厳を確固たるものにしてくれる最後の砦が壊される。次の瞬間、甚爾は身体を揺すり、姉の前に飛び出していた。そして男たちが懐に入れている呪具を歯で噛んで奪い去り、刃の切っ先を男に向ける。
「なんだこいつ」
「いや、こいつ甚爾か」
「生きてたのか」
 口々に男たちが動揺し始めたが、やがて笑いだした。
「手足のないお前に何が出来るんだよ!」
 嘲笑は刹那、悲鳴へと変わった。甚爾は身体のバネを使い、手足がなくとも男の首を掻き切ってみせたのだ。血飛沫が舞う。その血の一線が男たちの顔に掛かると、慄く者と逆上する者に別れた。慄く者はすぐに甚爾に背を向けたが、その背を切り開かれる。逆上した者は甚爾に襲い掛かったが、その瞬間に目を抉られ、痛みで悶絶しているうちにトドメを刺された。一面血の赤に染まっている。ふとそこで、綿のような雪が外でちらついているのが分かった。男たちの悲鳴は雪が吸い取ったのである。真っ白な雪と対照的な赤に染まった甚爾は姉を見る。姉はただ真っ直ぐ甚爾を見ていた。
「甚爾、出よう」
「ああ」
「姉さんと生きよう」
「……姉さんと生きる」
 小さな子どものように言葉を反芻させた甚爾は、姉の唇に血の紅を落とした。
 その後、二人の姿を見た者はいない。




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