1/3


 春の海に七海と灰原を連れて行ったことがある。四月に三人揃って入学した東京呪術高等専門学校は頻繁に学生を課外学習と称して外へ連れ出していた。その任務の移動中のことである。
 
 まだ一五歳だった私たちは海沿いを軽快に走る車から流れていく景色を見ていたが、ふと思い至ったように灰原が「あ!」と声を上げた。まだ知り合って間もなかった私たちは灰原雄という人物に詳しくなく、次にくる言葉を何となしに聞いていた。
「海寄ってこうよ! 二人とも!」
「え、でも移動中だよ」
「この後任務ですし、まだ海はこの時期早いと思いますよ」
「でも人が少なくて遊びやすいと思うよ!」
 移動中だというのに遊ぶことが前提の灰原の言葉に七海と私は思わず顔を見合せたが、「次の場所まで遠くないですし、少し降りましょうか」という補助監督の後押しによって私たちは砂浜へと足を踏み入れた。爪先が沈む感覚。灰原は靴の中に砂が入ることも厭わず、波の瀬戸際まで走っていく。軽やかに走る灰原の足元で舞った砂は風に乗って辺りに散っていった。私はそれが妙に眩しくて、引き寄せられるように足を進めていく。それは七海も同じだったようで、イメージでは「砂が入るなんて」と文句を言うかと思われたのに、どこかにこやかに砂浜を歩いていっていた。
「七海! かなた! 水凄く冷たいよ!」
 私たちを手招きする灰原は満面の笑みで大口を開いて笑っていた。春の海が冷たいのは当然のはずなのに、それら全てが祝福なように思える。すっかり私たちの緊張は解けていた。七海は靴と靴下を脱いで灰原へ続き、浅瀬を歩いている。灰原に腕を引かれ、せり上がる波が足元へ広がっていく様を二人で笑いながら見ていた。その波のひとつひとつに光が反射して、まるで絵画を切り取ったようだ。その様子に思わず携帯のカメラを向けた。録音ボタンを押すと小さな画面越しに光が拡散する。春の海も気持ちがいい、と二人で声を上げて青空を見上げた。切り取れた空は小さいけれど、その時の灰原と七海は突き抜ける青を見ていて、宇宙のその先の神秘にまで手が届きそうな青だった。夢中でカメラを向ける。すると、小さな画面越しによっつの眼差しがこちらを向き、目が合った。
「何してるんですか、あなたも来てください」
「かなただけ逃げるなんてナシだよ!」
 カメラが揺れる。一瞬七海の長い睫毛が映ったかのように見えたが、すぐにブレたカメラは砂浜を映し、砂まみれのローファーが歩いていく様子が映っていた。「ほら!」とどこからともなく声がして、水飛沫の音がする。それに対して私も可愛げのある悲鳴をあげていて、追い掛けるように灰原の声がする。
「またここで遊ぼうよ!」
「気早いよ! でも絶対、またね!」
 映像はそこで途切れていた。
 
 たった二分半程度の動画を小さな画面越しに見つめていた。軋む携帯はとっくにワンタッチで開かなくなっていたし、充電し続けていないと動画なんて見れなくなっている。その上画質が荒くて細かいところなんて見れたものではない。そこに日々の積み重ねと年月を感じさせられた。それでも毎年、灰原のお墓参りに行く日の朝にボロボロの携帯を開いていた。朝の八時から繰り返し繰り返し、その二分半を繰り返す。朝の一〇時になると決まって七海が迎えに来て、私たちは花屋で仏花を買わなければならない。だからそれまでは青い日々の欠片を寄せ集めていなければ息が出来ない。欠けた心が今も未だ軋み続けていた。それは七海も同じだろう。今年も私たちは灰原にカーネーションを買う。
 
 毎年七海は律儀に灰原の命日には休みを取り、一日を私と過ごしていた。いつからか思い出話が少なくなって、灰原がいなくなってからの話が増えてもそれは変わらない。ずっと身を寄せ合ってきて、三年目にキスをして五年目に身体を重ねても変わらない。私たちは二人並んで墓石を磨いてカーネーションを供えた。燻る線香を立てて、どちらともなく「灰原」と声を掛ける。
「私たちも二〇代後半になったよ」
「灰原が生きていたら結婚でもしていたんじゃないでしょうか」
「それ想像つくね」
「ええ。だから灰原は祝福してくれると思うんです」
「なにを?」
「私たちの結婚ですよ」
 風が吹いて、蝋燭の火が消えた。穏やかな霊園には私たちしかおらず、七海の口から出た言葉に違いない。背筋にじんわりと汗が滲み、頬が紅潮していくのがほんのりと分かる。私たちはずっと一緒にいたけれど、付き合おうとかそういう話をしたわけじゃない。でも互いにそういう人は互いしかいないだろうと分かってはいた。強い日差しが七海の金髪をきらきらと輝かせ、いつか夢に見た王子様が迎えに来たのだと柄にもなく思った。
「私と結婚してください」
「……はい。私でよければ」
「私にはあなたしかいません」
 言葉がじんわりと胸に染みる。灰原はどう思うのかな。笑ってくれるのかな。脳裏に過ぎるのは春の海、ずっと笑っている私たちの姿だ。嬉しいの言葉がつっかえて、代わりに涙の膜が瞳から剥がれて落ちた。そんな私を七海が大きな身体で覆い尽くす。ラフなカッターシャツが濡れていくのも厭わず、ただただ力強い抱擁だけが世界そのものだった。
 
 だった。
 
 ハロウィンのその日は任務が終わったら結納の予定だった。そこまで畏まったものではないが、両家揃って顔を合わせる貴重な機会だ。いつも私たちが休日に足を運ぶフレンチの入口で待ち合わせをしていた。しかし、そこに七海が来ることは終ぞなく、また、私が七海という苗字になることもなかった。
 
 
 二分半を回す。荒い輪郭を繰り返し思い出す。

 
 
 ねぇ、私生きるよ。
 私がお婆さんになって誰かのお世話になる時、こんな人たちがいたのってスッカラカンの頭で言い続けるから。
 あなたたちを生かし続けるから。
 七海建人を愛し続けるから。だから、どうかお願い神様。残酷なこの世にはいない神様が優しいあの世にはいますように。私の抱いたカーネーションが二人の頭上に散らす神様がいてくれますように。いつか私も死んだらまた待ち合わせをしよう。三人でもいいよ。天国に春の海を作ってまた三人で遊ぶの。
 ね、待ち合わせをしよう。
 
「……寂しいよ、」
 
 どうか、またねの言葉がもう息を止めてしまいませんように。




×
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -