君となら、いいよ


 毎朝、彼女が目を覚ます少し前に目が覚める。真っ先に枕元のリモコンで暖房を付けてから、すぐに彼女を見つめた。
 少し痺れた右腕の中には彼女が少し丸くなって収まっており、無防備に開いた口元には白い痕跡が残っていて可愛らしい。思わず綻ぶ頬をそのままにして、起こさないよう慎重に腕を重ねて抱き締めた。香るシャンプーと彼女自身の香りが胸に満ちる。吸い寄せられるように彼女の閉じた瞼にキスを落とすと、僅かに眉間が寄り、くぐもった声が小さく漏れた。
 毎日毎日、こんなことばかりを繰り返しているのに全く飽きるどころか深みに嵌っている気さえする。私の腕の中に収まっている彼女の肩がゆっくり、呼吸に合わせて上下しているだけで涙が出そうなほどに愛しく思える日が来るとは思っていなかった。解けた身体中の意識が緩みきって彼女と絡まる。何分も彼女のつむじにキスをしてみたり、額にしてみたり、頬をつついてみたりしているうちに彼女のスマホのアラームが振動した。それを勝手に止めると後から彼女に文句を言われるので、止めたい気持ちを目一杯我慢して彼女を揺らした。
 
「かなた、起きて。朝だよ」
「ん〜、んん」
「ふふ、相変わらず朝弱いね」
 
 腕の中でむにゃむにゃと口元を動かしてから、サバンナのライオンのようにゆっくりと、そして大きな欠伸をしてから彼女の目は開いた。が、すぐに閉じる。開いたり閉じたりを繰り返しているうち次第に閉じる時間が長くなっていくので、仕方なく彼女の横腹を擽る。すぐに彼女は「やだぁ」とまだ寝惚けて舌っ足らずな声でもぞもぞと動き始め、私から逃げようと蠢いた。結局朝は私がこうして起こしてやらないと起きられないのだ。もう一緒に住み始めて八年、結婚して六年になるというのに何も変わらない。
 彼女は追い掛けてくる手から逃げているうちに目を覚ましたのか、目を細めながらスマホのアラームをなんとか止める。画面を数秒見つめたかと思えば、「さむ」と呟いて再び私の腕の中に戻ってきた。
 
「おはよぉ……」
「おはよう、髪跳ねてる」
「ん。ね、寒くない?」
「今朝六度だって」
「冬じゃん。やだーもう」
「そろそろ暖房効いてくると思うよ」
 
「いつもありがとぉ」と彼女はまだ眠たげに目元を擦りながら私の胸に擦り寄った。朝はこうして過ごす為にアラームの時間は余裕があるように設定されている。もう八年も一緒に暮らしていればどの程度の時間くっついていたいかは分かってくるものだ。
 しかし時期が冬に到達してくると、なんとも人間というのは暖かいところから抜け出すのに苦労するものだ。案の定彼女は私の胸にくっついて離れる気配がない。仕方なく私は彼女から離れて暖かい布団の外へ滑り出た。表皮が冷やされる感覚に少し身震いするが、暖房のお陰ですぐに治まった。スリッパを引っ掛けて寝室を出ようとする私に背後から「行っちゃやだ」と声が掛けられる。腹の底が擽られるような感覚に思わず笑いながら彼女の元に戻り、布団を勢いよく剥がした。「ぎゃー!」と叫ぶ彼女の首裏と膝裏に手を突っ込み、そのままお姫様抱っこで持ち上げる。
 
「なら一緒に来てもらおうかな!」
「やだー! 布団戻るー!」
「だめだめ。ほら、顔洗いに行くよ」
 
 布団の上に乗せていたカーディガンを彼女に取らせ、羽織らせてから寝室を出ると、寝室よりも数度気温の低い廊下に二人で震えた。二人揃って奇声を上げながらリビングへ小走りし、暖房を慌てて付ける。今朝は六度とのことだったが、どうやらもっと寒いらしい。暖房を付けてからテレビの画面を付けると、左上には時刻と気温が表示されていた。四度。想定以上の寒さだ。とは言っても、朝は二人とも任務が入っている。
 暖房の前で手を広げている彼女を半ば引きずって洗面台に立たせると、流石に堪忍したのか彼女も顔を洗い始めた。彼女の分のタオルを用意し、手渡してから自分も顔を洗う。キンキンに冷えた水は目薬を差したあとのような爽快感があったが、手が悴む感覚があった。そろそろ水での洗顔は厳しいかもしれない。
 彼女が化粧をしに寝室に消えるのを見届けてからキッチンに立ち、昨日の夕飯を温める。小鍋に入れられた鶏団子の生姜スープが火をかけられて、ぐつぐつと泡立つのを見届けながら冷蔵庫から卵を取り出し、ボウルに三つ割る。すっかり慣れた手つきになったのはそれこそ八年間の同棲の功績であり、水曜日には汁物と卵焼きと漬物のご飯が朝食だと決められているからだ。
 初めは大変だと思っていたが、月曜と火曜、土曜と日曜は彼女が担当して作り置きを用意してくれたりということもあって、なんとかやり繰り出来ている。元々家事は苦手だったが、私に料理を仕込んだのは完全に彼女で、妻で、かなただ。彼女好みの味付けになった卵焼きを焼きながら思いを馳せていると、小鍋がぐつぐつと沸騰し始めるので慌てて火を止めた。
 食欲を唆る生姜と鶏の匂いがキッチンからたちこめて、ふんわりとアイランドキッチンからリビングへと匂いの手は伸びていく。この匂いに釣られて彼女も早々に顔を出すだろう。そう思って卵焼きを焼いていると、思った以上に早く彼女がひょっこりと顔を出した。不満げな顔で、その顔を指さしている。
 
「ねぇ、今日コンディション悪くない?」
「いつも通り可愛いけどね」
「えー? なんか化粧ノリ悪いんだよね」
「乾燥?」
「やだ!! 冬の乾燥やだ! ……ん?」
「どうしたの?」
 
 彼女はきょとんとした顔でキッチンに立つ私に近寄ってきた。私は一旦火を止めてその様子を見届けていると、目の前に立った彼女が私の頭に手を伸ばして、一本髪を強く引いた。ぷちっという音と小さな痛み。
 
「なに? 痛いよ」
「見て、白髪」
「嘘。白髪? 本当に?」
「あはは! 私たち白髪生えるくらい一緒にいるんだねぇ」
 
 けらけら笑う彼女に呆気に取られ、そしてやっぱり私も笑い出した。きっと昔の彼女だったら「年取るのやだね」とか言ったに違いないのに、笑いながら一緒にいる年月を愛おしく思えるようになったのだ、私たちは。毎日代わり映えのない日々が続いていくのかと思えば、ゆっくり私たちは変貌していく。
 きっと筋肉が落ちて贅肉がついたり、目元に皺が出来たり、背中が曲がったり。そんな風に一緒に変わっていける毎日なら、こんなに愛おしいことはないね。
 
「……やだ、泣いてるの?」
「……泣いてない」 
「泣いてるじゃん」
 
 そう言って笑う彼女の目元もうっすら光っていて、こんな日々が続いていくのなら何でもする、と改めて思って、彼女のまだ口紅の乗っていない甘そうな唇に噛み付いた。笑う鼻息が僅かに顔を擽る。
 
 年は取りたくない。
 でも君となら、いいよ。




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