天国への切符


 雨が冷たい日だった。
 
「ねぇ、この『何でもいうこと聞く券』まだ有効?」
 
 しとしとと降る雨の糸は絶え間なく曇天から垂れ下がり、かなたの頭上に降り注いでいた。びしょ濡れのかなたは傘などは持たず、なされるがままだ。俯いた顔には髪のカーテンが閉ざされ、表情は分からない。一方、渡り廊下に立ち尽くしていた私は慌ててかなたの腕を引き、屋根の下に彼女を引き入れた。二、三歩ほどしか曇天の元に出なかった私ですら一瞬で髪が濡れ、前髪の束が額と目元に張り付いて鬱陶しい。
 
「風邪ひくよ。部屋に戻ろう。ほら、手冷たいじゃないか」
「いいよ」
「よくない」
「そんなことより、夏油が前にくれた『何でもいうこと聞く券』は有効?」
 
 腕を引く私に抵抗したかなたを振り向く。すると、濡れ髪から滴る雨の雫をつい目で追った。コンクリートに落ちる雫が円形に潰れると、それは赤が混ざっている。呪術師としての経験則でそれはすぐに血だと分かった。改めてかなたを見るが、雨に濡れていてよく分からない。
 
「怪我してる? 硝子いたかな」
「怪我してない。私の血じゃない」
「じゃあ、誰の」
「殺した。人を」
 
 目を見開く。ハッキリとした口調に縁取られた声は真っ直ぐ空間を貫いた。私は咄嗟に何て言ったらいいのか分からず、「そうか」と小さく呟いた。
 
 真っ先に思いついたのは、その殺した相手が呪術師なのか、非術師なのかというところだ。いやに冷静な自分に頭を振る。
 
 とりあえずは自分の上着を脱ぎ、かなたの肩に掛けた。今日は暖かい方だが、それでも一一月の雨は冷たく、堪えるものがあるだろう。
 
 かなたは私の上着に袖を通すと、「あったかい」と漏らす。やはり寒かったのだ。とりあえずいつ人が通るかも分からない場所で軽率な話は出来ない。今度は「部屋で話そう。人が来るかもしれないから」と前置きをすると、かなたはややあってから小さく頷く。
 その場所から女子寮に行くには廊下を超えなければならず、少しばかり遠く思えた私は自室にかなたを迎え入れた。外気に触れているより多少はマシだろう。
 私はすぐにタンスからバスタオルを取りだし、「洗ってあるから」と言ってかなたに差し出した。ふわふわの温かいタオル生地をかなたはやっと顔を上げて受け取った。よく見れば顔のあちこちに細かい鮮血の破片が見える。タオルで顔を擦れば、白いタオル生地がほんのり赤く染まった。大した量ではないから、浸け置き洗いでもすれば問題ないだろう。
 私もハンドタオルで湿気を拭いながら、何て話題を切り出せばいいのかずっと考えていた。
 
 誰を殺したのか。なぜ殺したのか。
 
 そんなことばかり考えてしまうのは、私がかなたを許してしまいたいからに違いがなかった。殺人はいけないことだ。そう、私の中の倫理が語る。しかし、そうだろうか? と私の恋心が反論を示した。かなたには何かしら理由があるはずだ。それを聞いてからにしよう。かなたに近付いて、私の上着を脱いだかなたの肩や背中を拭ってやると、どんどんタオルに色がついていく。
 
「……服貸そうか」
「うん。ところでさ」
「うん」
「さっきから聞いてるけど、『何でもいうこと聞く券』は有効なの?」
 
 私はタンスから長袖のTシャツとジャージの上下を取り出してかなたに渡した。かなたは黙って受け取り、おもむろに脱ぎ始めるため、慌てて背中を向ける。しかし、濡れそぼる窓にうっすらストリップ中の彼女の姿が映っていて目を伏せた。ブラは赤かった。
『何でもいうことを聞く券』は一年の頃に、まだ親しくなり始めのかなたの誕生日に冗談で渡したものだ。いつでもなんでもするよ、なんて笑いながら渡したルーズリーフの端切れには私の汚い文字が走っている。有効期限は永遠、なんて、ふざけた証拠である。
 
 そんなもの無くても既に私はかなたの味方だ。今年の夏には星漿体護衛任務があり、それ以降多忙から彼女とは口数が減っていたが、それは揺るぎない。
 寧ろ、と思う。寧ろ、私はかなたの殺した相手が非術師であってほしいとすら思っていた。そうしたら私は、もう私の道を決することが出来るかもしれない。他の誰でもない自分の道をかなたの犯行に委ねているのを自嘲する。くだらない思想だ。しかし、彼女にどうなのかと聞かれれば答えは簡単だった。答えを言おうとしたその時、冷たい腕が私の腹の横から生えてきた。え、と思わず声が漏れる。その細くて冷たい腕はそのまま私を抱き締めた。背中越しに柔らかいものが当たる。ひんやりとした何かが体内に満ちていくようだ。
 
「ね、これだよ」 
 
 手には一枚の端切れが握られていた。その端切れは少し濡れて、『何でも』の文字が少し滲んでいる。私はそんなものをいちいち健気に持ち歩いている彼女の可愛げに脳が刺激され、僅かに鼓動が跳ねた。それは背中の柔らかい感触も手伝ったのかもしれない。
 
「有効期限切れてないから有効だよ」
「じゃあ埋めるの手伝って」
「……いいよ」
 
 呪術師なのか非術師なのか聞きそびれた私は、それでもいいかと腹を括った。私が「いいよ」と言うと彼女はあっさりと身を引き、先程渡したジャージを着込んだ。私も制服を脱ぎ、黒のジャージを上下に着込むと意味もなく彼女とお揃いになる。まるで恋人同士みたいだ、なんて思ってよく分からない笑いでにやりと口端が上がった。それを見たらしいかなたの口端は強く一線を描いている。
 
 
 死体は高専を囲む森林の中にぞんざいに隠されていた。濡れた落ち葉が流され、死体の端に溜まっている。私はその死体をあらためると、見た事のある補助監督だった。名前は確か大塚という名前で、比較的若くて私たちとと近い年齢だったと記憶している。だから私たちと何だか親しげに接してくる、少し勘違いしている補助監督だった。よく言えば垣根なく、悪く言えば節操がなかった。
 
 そんな男の手足があらぬ方向に曲がり、首もねじ切れる寸前で小さい箱に無理矢理詰めようとしているような不定形になって転がっている。壮絶な死を迎えたらしい男のスラックスのベルトは外されており、チャックも下ろされているところを見て理由が分かった。いや、これは私の勝手な想像ではあったが、それならばかなたが理由を口にしたくない理由も分かる。
 
 私は死体から離れると、濡れたまま、同じくびしょ濡れのかなたを抱き締めた。「嫌だったね」「怖かったね」それはいつの日か、理子ちゃんにも掛けてやりたかった言葉のように思う。ゆっくりかなたの背中を撫でるとかなたは強く私の服の裾を掴み、雨で掻き消えるような肯定の声が落ちた。やはりそうなのだ。
 まさか身内側からこんなに穢らしい者が現れるとは思っていなかった。私の敵は非術師だと、傾きかけていたところだというのに、私は何を信じればいいのだろうか。そう思って固くなる私の身体を今度はかなたが撫でた。ゆっくりゆっくり下から上に向かって撫でる手は小さい。私は、私を頼って縋るかなたしか信じられない。
 
 シャベルがざくりと地面に刺さった。高専は学校ゆえに普通の学校にもあるような備品が備え付けられている。大きなシャベルもそのうちのひとつだ。ざくりと刺して、抉り、掘り返す。何度も頭にチラつくのはかなたの濡れた姿と濡れた『何でもいうこと聞く券』のことだ。何度も何度も、それだけを思って地面を堀り続けた。
 高専の周辺は時折学生が鍛錬で使うくらいで、大した整備はされていない。そのこともあって、そのまま掘って埋めてしまおうというかなたの意見に私も賛成だった。
 
 掘って、掘って、掘って。
 
 慣れない作業に手の平がむず痒くなってきた辺りで大穴が完成し、ぐにゃぐにゃと歪んだ死体を放り投げる。土を戻す作業はかなたと二人で行った。寒いはずなのに身体が火照り、汗が止まらない。向かいにいて必死に土を戻すかなたの顔は紅潮しており、雨なのか汗なのか分からない雫が滴っている。同じだ。同じ服装で、同じ犯罪を共有し、同じ状態に陥っている。そのことに、私は人生で初めて満ち足りた気分になっていた。冷たい雨がきらきらと輝いているのは幻覚だろうか。
 
 土を戻し、そこら辺の地面と同じように均した頃には雨は止み始めていた。曇天の隙間から夕陽が覗き、閃光となって周囲を照らす。私たちは辺りがすっかり暗くなるのを待ってから部屋に戻った。かなたは自分の部屋に戻り、ジャージは捨てると言った。私も同じようにする約束をしてから、私は自室の机で新たな『君のためなら何でもする券』を作り直した。




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