歪な糸


 築一二年のアパートでした。特別新しくも古くもないのですが、外観は先日大家さんが直したばかりで塗りたてのペンキが眩しいくらいです。私は毎日そのアパートに足を運んでいました。
 間取りは一LDKで、間取りをネットに掲載している不動産情報では家族三人ほどで住むのがオススメと書かれています。しかし、実際のところは一人暮らしのお爺さんやお婆さんが多く、家族が複数人で住んでいる様を見たことがありません。私は外に剥き出しの階段を上って、二階の一番隅の角部屋に用がありました。その部屋には傑さんという人物が住んでいます。
 傑さんは背が高くて、物腰柔らかで、切れ長の瞳が場の空気をがらりと変えてしまうような雰囲気を持った特別な男性です。
 ――――ピンポーン
 押すと軋むような音がするインターホンを押して少し待つことが決まりです。とは言っても、インターホンで傑さんは出てきてはくれないので結局は合鍵で開けて入ります。いつもの事です。ガチャリと鍵を回す音がしてから、まるで手入れのされていない扉は古い扉のように軋みながら開きました。
 玄関とリビングの間には扉があり、閉じられているので奥のことは分かりません。でも傑さんはいつも寝室にいるので、リビングには寄らないで寝室へ真っ直ぐ向かいました。女性ものの靴が綺麗に並べられているのを爪先でぐちゃぐちゃに乱してからフローリングを踏みます。この部屋はちぐはぐです。女性ものの用品に関しては手入れがされ、整えられているというのに男性ものの用品は全く整えられておらず、自堕落そのものなのです。私は床に落ちているタオルや新聞を拾いながら寝室の扉をノックします。勿論返事はありません。ノックの後に勝手に部屋を開けると、部屋の真ん中で何やら服を山積みにさせてその前に体育座りをしている傑さんがそこにはいました。「傑さん」と声を掛けても返答はありません。これもいつもの事です。
 傑さんは妻を亡くしてから抜け殻のようになってしまいました。何をするでもなく、ただ一日布団に横になるだけであったり、妻の用品を綺麗に整えることしかしない。長い髪はボサボサで、どれだけ言っても切ったり整えたりはしてくれません。草臥れたモップのようになってしまいます。自分なんてどうなってもいいのだと言わんばかりです。私はどうしてもそれが心配で、私なら傍にいるのにと思いながら世話をします。傑さんを引っ張り出して、少しの間アパートの下にある駐輪場横の小さな庭の所に座らせ、日光浴をさせます。その間に部屋の掃除を私がします。
 どうやら服を山積みにしているものは妻の遺品のようです。どれだけ積み上げたところで物が命を持つことはありません。空虚な気持ちで積み上げられた遺品を一つ一つゴミ袋に入れ、クローゼットの中に放り込みました。落ちている時計や傑さんの衣服、本などは拾って元ある場所に戻します。大丈夫です。私は場所を全て覚えています。
 まだ朝方、鳥の鳴き声を聞きながら掃除機をかけました。毎日毎日、傑さんのために埃を一つ残らず取り除き、家具を水拭きし、トイレの便器を磨き、風呂場の水垢を取りました。私がそうやってあくせく動き回っているところを見るでもなく、傑さんは外でただぼんやりと座っています。私はそれでいいと思いました。確実に傑さんは私なしでは居られないからです。傑さんには私が必要でした。死んだ妻なんかではなく、物理的に今必要とされているのは私なのです。だから、ぼんやりとしている傑さんの唇を奪ってしまうことだって、正当な成功報酬なのです。決まって傑さんは手で払い除けるけども、それ以上の抵抗はない。所詮、死んだ妻に対する引け目なのでしょう。操を立てるというやつでしょうか。だけれど、私にそんなものは必要ありません。いつだって私の準備は済んでいる。いつ傑さんが私を好きだと言ってくれてもいいのです。そうなってからもう四年が経ちます。私の新しい生活も同時に四年が経過していました。
 毎日そんなことを思いながら清掃に身を入れていると、傑さんの声が階下からしました。
 
「かなた? かなただろ? かなた……!」
 
 懸命に亡き妻の名前を叫んでいます。何事かと私は部屋を飛び出し、外に出てみると女性が一人困ったような顔で立ち尽くしていました。私も驚きました。背格好だけでなく、顔まで亡くなった妻とそっくりなのです。私は冷静に「ここまでの赤の他人っているものなんだな」と思っておりましたが、傑さんはそうはいけません。傑さんは女性の肩を掴んで懸命に名前を呼び続けています。傑さんは昔に比べると痩せてしまったけれど、それでも男性であることに変わりありません。力強く肩を握られた女性は揺さぶられながら必死に「違います! 違います!」と叫んでいます。私は階段を慌てて下り、一心不乱になっている傑さんと女性の間に割って入りました。その時、妻に似た女性に口付けようとしたのか、タイミング良く入り込んだ私の唇に唇が触れました。香る男性ものの石鹸の香り。ミントの入った香りが鼻を掠めていきました。次の瞬間、傑さんが勢いよく私から身体を剥がし取ります。そして自らの唇を袖で勢いよく拭ったのです。そこまでしなくても、と私は思ったけれど、背後の女性はそれどころではなかったようですぐに走り去りました。五センチヒールを勢いよくカツカツ鳴らしながら走り去る背中はやっぱり、亡き妻にそっくりな姿でした。傑さんはそれに手を伸ばします。「待ってくれ!」「行かないで!」そればかりを頻りに叫び、近くを通りがかった歩行者に白い目で見られていました。居た堪れない私は傑さんの腕を掴んで言います。
 
「あれは他人の空似です! かなたさんはもう死んだでしょ! とっくに!」
 
 傑さんの動きがぴたりと止まりました。しっかり思い出したようです。妻の葬儀も喪主は傑さんでした。手配の何もかも自分でやったのだから、忘れることなど難しいのでしょう。傑さんは久しぶりに瞳の膜を零し落としました。一つ。二つ。涙の道が一度出来てしまえば、あとはそこに注がれていく。私は髭が生え始めた傑さんの顎に涙が溜まるのを見届けてから、傑さんの腕を引いて二階に上がります。掃除は粗方済んだので、今度は傑さんの番です。
 部屋に戻ってからというものの、傑さんはすっかり全身の力が抜けて座り込んでしまいました。視線の先には妻の遺影があります。毎日毎日傑さんの手によって磨かれるその写真に埃一つ付いてやしません。人の良さそうな笑みを浮かべて四角におさまっています。私はそれを一瞥し、傑さんの服を脱がし始めました。最初の頃こそ抵抗していたものの、近頃の傑さんに抵抗はありません。腕を上げさせてから右腕、左腕を服から抜き、襟周りを傑さんが苦しくないように顔を保護しながら抜いていきます。ここでいつもなら渋々立ち上がってくれるのですが、今日は立ち上がってくれません。
 
「立って」
「……君は帰りなさい」
「だってまだお風呂に入ってないでしょ」
「私のことは私がどうにかするから」
 
 どうにかって、と思いながら屈んで傑さんと目を合わせようとする私を傑さんはじっと見つめました。真っ黒な瞳です。焼け焦げて墜落した星のような瞳です。私はどうしようと思いつつ、項垂れて動かない傑さんを動かすことが大変であることはよく分かっていました。仕方なく、「分かった。また来ます」と言うと、珍しく傑さんは右手を緩く上に上げました。そして「いつもありがとう」と言ってくれました。そんなことを言われたのは初めてのことです。いや、小さい頃は言われたこともあったかもしれないけれど、少なくともこの四年間の中にはなかった言葉です。私は浮き足立ちながら帰路につきました。喜悦に浸る私を家族は怪訝そうな目で見てきましたが、問題ありません。明日こそは傑さんを風呂に入れようと決意して日常に戻りました。
 
 
 その日は朝から嫌な予感がしていました。靴下は片方見つからないし、テレビの主導権は珍しく家にいる家族に取られてしまったし、卵焼きは焦げていたし、近くにいるカラスは逃げないし、蚊には食われるし。朝からそんなことばかりが積み重なって、嫌な日になる予感はひしひしと感じていました。私はそんな予感を振り払って傑さんの元へ急ぎます。どうせ昨日は傑さんは何も食べていないことだろう。昨日の夕飯の残りや今朝の残りをタッパーに詰めて家を出ました。傑さんのお口に合うものがあればいいのだが、そうじゃない限り傑さんは咀嚼もしてくれない。ただただ、怠そうに目を細めている。私はそんな目の細い傑さんも好きだ。妻がいる時にはそんな表情をすることはなかった。私だけが知っている表情。
 ――――ピンポーン
 またもや軋むインターホンを形だけ鳴らし、あとは合鍵で部屋を開けます。すると、逆に扉は閉まってしまいました。どうやら昨日、私は浮かれて帰る際に部屋の鍵を掛け忘れたようです。傑さんには申し訳ないことをしたな、と思いながら再度鍵を回しました。今度こそ扉は開きます。私はいつも通りリビングに寄らず、寝室に直行してノックをしました。返事はありません。いつもの事です。そう思って寝室を開きましたが、そこには傑さんの影形が一切ありません。私が昨日片付けたままの部屋がそこにはありました。クローゼットの中、布団の中、ベッドの下。寝室のあらゆる場所を探しましたが、傑さんはいません。
 もしかして。
 私は慌てたせいで爪先を扉の角にぶつけ、よろめきながらリビングへ向かいました。リビングの扉を開けようとすると抵抗。扉が重いのです。扉を手前に引く開き戸なのですが、重くて開きません。片手では開けられず、両手を使って懸命に引っ張ると、少しだけ扉が開きました。そこには首を吊った傑さんが扉と一体化していたのです。私は驚きと恐怖で叫び、二、三歩引いてから床に崩れました。僅かに開いた扉の隙間からは異臭が漂っています。吐瀉物でしょうか。私は何度も何度も言葉にならない叫びを上げてから、夢中で扉を開こうとしました。何度も腰が砕けて、床に崩れ落ちながらも、それでも本当のことなのか確認したくて何度も戸を引っ張りました。
 やがて、吐瀉物にまみれ、がっくりと首を落とした傑さんの姿が現れました。傑さんの手元には妻の遺影がありました。
 
「やめて」
「やめてよ」
 
 いつものように返事はありません。
 
「やめてよ、お母さん! お父さんを連れて行かないでよ!!」
「ねえ! お父さん!!」




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