メランコリックシアター


 恐ろしい夢を見るんです。
 そう少女は言った。少女は教室の簡素な椅子に腰掛け、窓枠の外側にある枯れ木が揺れることすら恐ろしいかのように視線を泳がせた。風が窓を叩き、青空の光線が教室内を走っていく。その光を眩しそうに、また酷く嫌な思いをしたかのように少女は顔を歪めた。僕はその少女に向けて掛ける言葉を少し悩んでから、「どんな?」と聞いた。当然の流れだ。それでも彼女の瞳は大きく揺れ、唇は戦慄いた。
 
「……男の人に手を差し出されるんです。優しい、少し困ったような顔で。私は夢の中でその手を取ろうとするんですけど」
 
 そこで言葉が途切れる。僕は間髪入れずに「それで?」と言葉を促したが、次の言葉が出たのはたっぷり一〇秒は経過してからだった。
 
「私、毎回殺されるんです。毎回、毎回。その度に私……死ぬ直前に見る男の人の顔が頭から離れなくて、怖いんです」
 
 死ぬ夢。有り触れた話に思考が巡る。単なる夢であるとも言えたが、同時に呪いにおいて【夢】というものは大きな意味を持つことが多い。少女――――かなたの術式は夢とは関係ないにしても、体質にまで呪いが及ぶと内容までは六眼で確認することは難しかった。
 
 僕が教卓に座りながら足を組み、前傾姿勢になるとかなたはびくりと肩を揺らしながら顔を上げる。余程眠れていないのか、目の下には深い隈が刻まれ、多忙を極める硝子といい勝負をしていた。意味。夢を見る意味。夢というものはその仕組みが未だにハッキリと解明されていない。日常生活で蓄積されたあらゆる情報を整理するために行われるとも言われているが、それも諸説のうちの一つに過ぎない。僕は少し痩せた教え子を見ながら夢の特徴を考えてみた。男の人、そして必ず死ぬということ。情報が少ない。
 
「他にない? 死に方とか、もしくは男の特徴とか。知らない人なんでしょ?」
「はい。知らない人で……前髪がひと房出てて、あとは髪をまとめてお団子にしてる人です。あ、服は高専の制服、みたいな服装してました」
「は?」
 
 思わず出た言葉にかなたは首を傾げた。正直に言えば、首を傾げたいのは僕の方である。恐らく、夢の中に出てくる男は夏油傑。離反ギリギリの事件を学生時代に起こして、すっかり今は隠居をしている僕の親友だ。その時座っている教卓がぎしりと鳴いた。しかし僕はなかなか動けない。六眼で目の前の教え子を再び覗き込んだ。呪力の質、術式の特徴、顔、そういったものが鮮烈に脳内に流れ込んだがそれ以上の情報はない。
 
「先生?」
「……自分は? なんか特徴ある?」
「えーっと、セーラー服を着ていました。それ以外は自分のままだと思うんですけど」
 
 ずきりと六眼が痛む気がする。特徴だけを読み取ったら当て嵌るものがあるではないか。天内だ。僕が受け持つ生徒の一人であるかなたは未だ一六歳の少女であり、天内が死んだのは五年も前のことだ。かなたが非術師の家庭出身であることも含めて、星漿体護衛任務のことを知るはずがない。
 
「本当に怖いんです。自分が死ぬのも、それを見ている男の人の顔が。悲しくて、痛くて……男の人に何かを言う間もなくいつも死んでしまって……」
 
 ついにぼろりとかなたの瞳から涙がこぼれ落ちた。ぼたりぼたりと膝のスカートに雫が落ちて吸い込まれていく。黒いスカートは何事もなさそうにしているが、確かに涙は落ち続けていた。僕は教卓を降りると、かなたの顎に指を添えて持ち上げた。潤んだ瞳が驚きの色を宿して大きく揺れる。そこからは頬の丸みに沿って雫が伝い、顎先で溜まってから大きな雫になって滴っていた。その様子を見ていると、なんとも気まずいような、でもどこか胸を擽られるような気持ちになる。罪悪感と高揚が同時に訪れる心は複雑なカタチを描き、それを払拭するように指でかなたの涙を拭った。かなたは天内の痛みを感じているのか、それとも傑の痛みを感じているのか、どちらなのだろう。両方なのだろうか。いずれにせよ、僕には分からなかったものだ。指先に触れる涙は温かいような冷たいような温度をしていて、全身が粟立つ。
 
「先生、指冷たい」
 
 そう言われて初めて自分が動揺していることに気が付いた。小さな雫が温かく感じたのは自分の指が冷たいからだ。ぐわりと天内の顔と傑の顔、そしてかなたの泣き顔が脳内で巡る。ふらりと脳内が一瞬白み、眼前の顔が天内にも傑にもかなたにも見えた。
 
「……ごめん」
 
 僕のその一言にかなたは不思議そうに「先生?」と声を掛けた。僕自身、自分の心が分からない。思考が読めない。黙り込む僕に対し、かなたは両手で雑に涙を拭うと、「私こそ変な話してごめんなさい」と曖昧に笑った。その曖昧な笑みは傑にひどく似ているように思う。なんでもないよ、と嘯く曖昧が重なって見えた。途端、背筋がぞわりと波打つ。目の前にいる少女が天内のように、そして傑のようにこの場からぽっかりと消えてしまうような気がしたのだ。それが無性に恐ろしくて、かなたの手首を咄嗟に握った。脈打つ手首は温かい。
 
「……傑に会わせるよ」
「すぐる?」
「多分、かなたが夢に見ている男だよ」
 
 風が窓を叩いている。いつの間にか冷たい風が雲を連れて、走る光を隠してしまっていた。
 
 
 傑が住むのは人里離れた山奥だ。基本的に自給自足の生活を送っており、人間、もとい非術師となるべく関わらない生活を送っている。どうして傑がそこまでするのか、未だに僕は何の話もされていない。僕自身、アイツに何も聞いちゃいない。聞かなければ言わないというのは子供っぽいが、夏油傑という人間らしさもあった。
 
 術式を使って空中からゆっくり木々の隙間に着陸する。枯れ枝がぱきりと音を立てて、僕たちの到着を傑に知らせた。かなたは僕と手を繋いだままで、僕は何も言わなかったけれど手を繋いだままいたのは僕の方だった。手放すのが怖かった。何が怖いのだろう。僕の知らない僕たちの溝をかなたに見られてしまうからだろうか。それとも、僕には溝に見えるそれがかなたにとっては実は溝でもなんでもなくて、五年間の断絶をいとも容易く跨いでいってしまうかもしれないからだろうか。様々な思考が脳裏を過ぎる中、動かない僕を振り返ったかなたは不安げだ。僕は空いた方の手でかなたの頭を柔らかく撫でてから一歩踏み出し、ロッジのような木造家屋に近づいた。すると、すぐに扉は開いて中から傑が出てくる。その傑は記憶の中の傑よりもやや細く、目元には隈が居座っていた。
 
「珍しいじゃないか。久しぶりだね」
「まぁね」
 
 僕が久しぶりと言う間もなく、かなたは僕の手を振り払って傑に向かって走り出していた。たった数メートルの距離を詰めるのは一瞬で、目を見開いた傑が小さな身体を受け止める。かなたは強く傑に抱きつき、小さな手で抱き締めた。
 
「あの! あの、ずっと言いたかった! あなたに! あの時、私に帰ろうと言ってくれてありがとうって!」
 
 その言葉に傑が更に目を見開いた。かなたを受け止めてはいるものの、抱き締めるまでに至らない傑の両手が宙を彷徨っている。
 
「君は……悟、これはどういう状況だい」
「多分体質なんだけど、どういう訳か夢の中で天内とリンクしてたみたいで。お前に手を差し伸べられてから死ぬって夢を見続けてるらしいよ」
 
 そう言いながら僕の心臓が大きく鼓動していることに気が付いていた。僕はアレを仕方ないと受け入れたが、傑がそうではなかったのだと今この瞬間に理解したからだ。傑に抱き着いてありがとうありがとうと言って泣くかなたを、傑が抱き締め返したのである。強く、それはもう傑の身体にかなたがめり込んで消えてしまうんじゃないかと思われるような抱擁だった。
 
 傑の顔の下にぼたりぼたりと何かが滴り落ちる音がする。瞬時に理解して、そして思う。傑と僕の間にあった溝をかなたは跨いでいったと。僕には傑の気持ちが分からない。だから溝はそこに在り続ける。花を愛でることは出来ても、枯れた花の為に泣くことが僕には出来ないからだ。傑はただただ静かに泣きながらかなたを抱擁し続けた。立ち尽くすことしか出来ない僕の前で。
 
 
 どれくらいそうしていただろうか。ものの数分だっただろうに、僕には数日にも数週間にも感じた沈黙だった。沈黙を破ったのはかなただ。
 
「名前、聞いてもいいですか」
「……私、は、夏油傑」
「傑さん、温かいですね」
「君も温かいよ……名前は?」
「私はかなた」
 
 僕は観客だった。メロドラマを画面越しに見つめ、ポップコーンを足元に零すような空虚な観客だった。エンディングロールで席を外してしまうような愚かな観客である。僕はそれ以上、二人の運命的なメロドラマが耐えきれなくて、こんな運命を作った監督の名前が流れて来る前にその場を後にした。久しぶりに見た傑の目の下にも〇〇と同じ隈があるところを見て邪推する。傑も同じような夢を見ていて、あの時の後悔に身を沈め続けていたのではないか、と。過去という悪夢を見つめ続けていたのではないかと。僕のようなただの愚かな観客には分からない。これが邪推なのか、真実とも区別すらつからないのだから、どうしようもなかった。
 
 数日経ってもかなたは傑の元から帰ってこない。悪夢にとっても僕はただの観客でしかなかったらしい。




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