悪夢


「傑」
 彼女の笑った顔が光に包まれ、穏やかな空気がゆっくりと流れていく。そんな彼女の顔に頬を寄せるとぴったりと肌が触れ合い、鼻の辺りに彼女の笑いを含んだ吐息が擽った。思わず自分もそれに合わせて笑みが零れ、温かい吐息で彼女の名前を象った。
「かなた」
 すると「はぁい」と間延びした返事が返ってくるものだから、満たされる感覚のまま彼女を腕の中に閉じ込めた。私の腕の中で呼吸をする度に膨らんだり萎んだりする様子が愛おしい。むず痒い感覚からそっと額に口付けを落とす。繰り返しそんなことをしていると彼女が顔を上げ、「口にして」と言うので、彼女の下唇を柔く食んだ。ふにふにと感触を確かめていると、私の唇を彼女の舌が触れ、ねろりと舐められた。その舌を追い掛けて、私も舌を伸ばす。唾液でぬるみ、濡れそぼる赤が絡みついた。舌先で舌裏をつつき、筋を舐め上げ、噛み付くかのように舌を啜る。甘露のような唾液が彼女の口端から溢れるのを確認し、その一雫を吸った。甘い。甘くて、とても温かい。触れ合った素肌同士の温度がじわじわと上がっていくのを布団の中で感じていた。今この瞬間、この世界に怖いものなど何一つとして存在していない気がする。清潔な白いシーツは僅かに前夜の情事を匂わせていた。
 
 彼女とは昨夜、結婚の約束をした。今日はそのこともあって珍しく朝を高級ホテルで過ごしている。昨夜は表向きでは親睦会とされている小さなパーティーがホテルの宴会場で開催され、そこで私はかなたに公開プロポーズをした。ざわめきの後、温かい拍手が私たちを包む。おめでとうと私の肩を叩く私の両親、そしてあの日出会った妹たち。妹たちは泣きながら私の言葉に頷くかなたの手を取り、まるで自分のことのように頬を綻ばせながら涙を零した。
 
 妹たち。私の妹、美々子と菜々子は私とかなたが高専三年の時に任務先で助けた女の子だ。あの日は茹だるように暑い日だった。九月も半ばだというのに夏のような一日で、暑さに疲弊した私とかなたは閑散とした小さな村へと任務で訪れていた。依頼主でもある村人に促されるまま、村の端にある祠へと辿り着き、そこで呪霊を祓う。なんと言うこともない普通の任務であったが、とにかくその日は暑くて降り注ぐ蝉時雨が色濃く肉体を叩き付けていた。
 
 だから、呪霊を祓ったというのに原因はこれではないと喚き続ける非術師に辟易していたのだった。とは言え、かなたがちゃんと話を聞こうだなんて優しい事を言ったために殆ど放置されているのだろう家屋に案内された。
 
 その家屋は埃まみれで素足で踏むと足裏が真っ黒になるのではないかと思われるような場所。喧しい村人に着いていき、見せられたのは檻の中で震えているまだ幼い少女二人だったのである。私はその時、一線を越えようとした。呪術師としての矜恃を無理矢理踏みにじり、諦観と苛烈な怒りで全てを無に帰そうと。
 
 しかし、彼女の小さな柔らかい手がそれを制した。ふつふつと沸き上がる感情で私が揺さぶられる中、冷静に少女を助け、警戒する少女たちに大丈夫だよと優しく声を掛けるかなたの瞳は潤んで今にも零れそうだ。それを見ていたら振りかざした拳は自然と下がる。
 
 今でもそれが正しかったのかは分からない。だけれど、実家に美々子と菜々子を連れていき、私の両親が引き取るという話を自らしてくれた時には安心した。両親ならば。幼少期から変なものが見えると頻りに話す私を信じてくれ続けた両親ならば、きっと大丈夫だろうと。それは信用であり、信頼であり、薄れかけていた家族への甘えでもあった。
 
 そこから半年間は私自身が忙しくて顔を出せなかったが、久しぶりに実家を訪れた私が見たのは美々子と菜々子の笑った顔だった。ころころと鈴が転がるような笑みを見せては室内の玩具を抱き締めている姿に私は思わず目頭を熱くした。それでいいのだ。そうやって、普通の生活を愛されて過ごしてほしい。
 
 両親はすぐさま二人を養子として迎え、戸籍上で私の妹となった。当然かなたはそんな二人をとても気にして、私以上に私の実家に通うようになっていた。すると自然に仲良くなっていくのが女性同士、即ち母親だ。既に交際していた私たちの行動を両親は好意的に迎え入れてくれたのだった。そしてかなたの両親もそれは同じである。その時点でまるで結婚するみたいだとは思っていたが、まだ学生の身だ。いずれ、いずれ。そう思い続け、私たち二人が二五になる年の今年、公開プロポーズに踏み切った。二人きりでも良かったのだが、協力してくれていた美々子と菜々子がプロポーズは見たい! と断固として譲らなかったものだから、彼女と記念日に何度か行ったホテルで小さなパーティーを開くことにした。
 そうして私たちは長年のカップルから婚約者へと一つ階段を上ったのである。
 
 
 ホテルのテーブルの上には美々子と菜々子からのプロポーズ成功おめでとうと書かれた手紙が置かれている。昨夜、それを読んだかなたは爆笑して床にごろごろと転がっていたが、私は恥ずかしさでそれどころではない。ひぃーひぃーと笑いながら転げるかなたの脇腹に手を突っ込みこしょこしょと指先を動かせば、かなたは分かりやすく更に爆笑をして苦しげに身を打ち始めた。それが面白くて、二人で汗だくになるまでホテルの床で寝転がって遊んでいた。
 
 好きだ、と思う。
 
 君のそういう素直なところと実直なところ、いざとなればとても冷静なところ、優しいところ、髪先で遊ぶ癖があるところ、私の首元ばかり見るところ、手足が小さいところ。言い出しだらキリがない。夜中にそれを言い出したら不眠に陥るくらい、彼女の好きなところがたくさんある。私はその一つ一つに思いを馳せながら眠り続けるかなたの頭を撫でていると、もぞもぞと動くかなたの左手が目に付く。婚約指輪だ。婚約指輪なんて給料何ヶ月分なのか分からず、とにかくかなたに似合いそうなものを金に糸目つけないで選んだ。私よりも細い華奢な指の中でまろい光を反射させる指輪は存在感こそ控えめなものの、かなたにはとてもピッタリなものだ。
 
 幸せ。幸せだ。この幸せが夢なのではないかと錯覚して恐ろしく、幸せを体感し続ける為にこそ不眠になってしまいそうだ。
 
 そんなぬるま湯に浸っていると、眼前で丸い瞳がぱちりと瞬きを繰り返しながらゆっくりと開いた。潤んだ瞳はぼんやりとした色を宿していて、寝惚けているんだとよくわかる。「おはよう」と告げると舌足らずな「おあよ」が返ってきた。それにまた胸を擽られ、開いたばかりの瞼にキスを一つ落とす。すると彼女もくすくすと笑って、もぞもぞと身動ぎをしてから私と改めて視線を合わせた。
 
「ねぇ、傑」
「なんだい」
「私たちの子が見える子でも見えない子でもきっと可愛いよね」
「ああ。きっとそうだよ」
 
 まだ孕んですらいない腹を撫でながらかなたが言う。その右手に私の左手を重ね、慈しむように摩ると、その先には小さな命が宿る気がした。その子どもが呪術師になろうと、非術師であろうと構わない。私とかなたの子であれば、彼女の遺伝子が少しでも入っているのであれば、それは慈愛の対象であり、情愛の対象であり、深い愛情を抱く世界で彼女に次ぐ大切なものになる。私は一生を懸けて、彼女と紡ぐこの幸せな家族たちを守り続けるのだろう。ただその一点の為に生きる。それが許されていることもまた、世界の光なのだろう。
 
「かなた、愛してるよ」
「ふふ、傑そればっかり」
 
 腰を擦りつければ彼女の身体が小さく跳ねた。途端に彼女の顔が赤らみ、食べ頃な果実のようになるものだから私はそれに噛み付く。耳、目元、瞼、頬、唇にリップ音を立てながら唇を落としていると、彼女と肌の触れている部分が熱を持ち、己が首を擡げるのが分かる。それを緩く擦り付けるとかなたが仕方ないなぁと笑って私の首裏に手を回した。
 
「ホント、幸せそうな顔で笑っちゃって」
 
 
 
 そんな悪夢を毎日見る。
 地獄の最中で。




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