日常



 
 私の髪は長かった。父親譲りの茶色みを帯びた黒髪。母親譲りの毛量。美容院なんて行ったことがないのは勿論だけど、私にとっては願掛けで。しかし他人にはみすぼらしく見えるんだろう。度々可哀想なんて言われたことがある。

 母親自慢の光が当たるときらりと反射する長い黒髪と違って、枝毛も切れ毛もあるぼさぼさの髪だけど、私は私の意思で伸ばし続けた。

 いつか、解放される日を夢見て。


 地下室を出て、血の絡んだ私の長い髪を五条さんと夏油さんが遊んでいるのを見て思い出したのだった。

 窓ガラスに映る血でしっとりと濡れた髪は、母親のシルエットと似ているように見えて。私は初めて自分の外見に嫌悪を覚えた。
 たとえブスと言われようと、醜いと言われようともう一切反応しない脳が、私に嫌悪を示す。

「……五条さん」
「んー?」
「髪を、切って欲しいです」

 私の髪を弄んでいた手が止まる。次の瞬間、首と頭皮に痛みが走った。強く髪を引かれ、引かれる頭皮に合わせて無理矢理上を見せられた。相変わらず何を考えているのか分からない笑顔の五条さんと目が合った。

「あー……アレと髪型似てるもんね。流石に殺した女と同じ髪型は嫌か」

 いいよいいよーと軽快な声と同時に私の頭は自由になった。

「……違います」
「何が?」
「人を殴る時、髪が邪魔なので」

 思い切り切りたいんです。


 と言えば、夏油さんの無骨な手が私の頭の上に乗った。意図は分からない。でも声を上げて笑う五条さんのお気に召したようではあった。

 連れて行かれたのはまた知らない部屋で、本当にこの建物の広さを思い知る。
 先に進んだ五条さんが背もたれのある木製の椅子を引きずって私の目の前に置いた。椅子に座るよう言われて従うと、夏油さんがどこからかハサミを取り出した。
 常に持ち歩いてるのか?変なの、と思いながら大人しく座る。

「傑〜、僕にハサミ貸して」
「え、君が切るのかい」
「そんな気分なの」
「珍しいじゃないか」

 私の背後でそんなやり取りが行われる。きっとこの感じだと夏油さんの方が器用なんだろう。でもまあ短くなればいいか、と疲労感に瞼を強く引かれ、ゆっくり目を閉じた。



 目が覚めたのは大きな手に頭を鷲掴みにされたからだった。その手は夏油さんの手で、目の前には鏡を持って笑顔の五条さんがいた。

「どう?かなた」

 あんなに鬱陶しかった願掛けの髪は消え去り、少し茶色みがかった黒髪は顎ラインで切りそろえられていた。無かった前髪は眉上に綺麗に整えられている。少し前下がりに切られた髪は自分に似合っている、気がする。スースーする首筋に触れると、なんとも言えない気持ちになった。あの時みたいに。

 ゴボゴボと血が沸騰するような感覚。

「……最高です」
「でしょー?僕これでも器用なんだよねー」

 ハサミを指に引っ掛けてクルクル回す五条さん。耳元で夏油さんは似合うよ、と囁いてくれた。途端に血を吸って僅かに重くなったダサい青い制服が愛しくなり、裾に口付けを落とした。


 部屋を出たらもう陽が昇っていた。窓越しに入る陽射しが視界を白ませる。時間を聞くと、いつも起きる時間のほんの少しだけ前の時間。そこでふと我に返った。

 この建物はどこにあるのか。
 学校からはどれくらいの距離にあるのか。
 私の生活はどうなるのか。
 やはり学校は辞めないといけないだろう。

 つい先程口付けを落とした青い制服を見つめていると、五条さんの手が伸びてきた。もう幾度目かの力加減がおかしい力で私の顎を上げさせる。

「学校、行ったほうがいいんじゃない?」

 意外な言葉だった。


 その後私は夏油さんに連れられてお風呂に入り、これまたどこで仕入れたのか分からないが新品の青い制服と少しはしたない下着に着替えた。

 その後はあれよあれよと知らない男性に再び応接間に案内され、置いてあるほんのり温かいトーストにバターを塗って齧り、苦いブラックコーヒーを胃に流し込んだ。口に残った血の味とコーヒーの味が混ざって、意識がふらふらする感覚がする。それをベタだが、強く両頬を叩くことで正気を保った。

 そして私が食事を平らげたのを見守った男性は私を玄関に案内した。終始無言だが、悪いようには扱われていない。いつの間にか手放していたスクールバッグも玄関に当たり前のように置かれている。私はバッグを手にして、なんと言うのが正しいのか分からず、無言で扉の外に足を踏み出した。

 門の前には黒塗りの車が静かに私を待っていた。これまた知らない男性に車のドアを開けられ、吸い寄せられるように私は乗り込んだ。そこには五条さんも夏油さんもいなかった。

 運転手と2人。でもその運転手には見覚えがあった。

「……おはようございます、伏黒さん」

 ん、と1文字だけ返ってきた言葉に私は相変わらず安心して、後部座席に深く腰掛けた。車は案外ゆっくり発進し、住宅街を進んでいく。その中に私の自転車が転がったままの、私の家だった箱もあった。

「伏黒さん、灰皿じゃダメでした」
「ん?ああ、みたいだな」

 全く動じていない声が返ってくる。言葉は続く。

「言っておくが、あれは俺の親切心じゃねぇからな。五条のやつにお前に何か軽く教えといてくれって言われたからだ。まぁ、灰皿渡したのは俺の判断だけど」

 五条さんが?
 なぜ?
 それだと自分が何かしらで殴られるのを自分で仕組んだことになる。

 聞きたいことがまとまらない私に、伏黒さんは続けた。

「お前に何かしら教えてやりゃあ二百万だ。だから受けた。それだけだ。だが、これだけは親切心で教えておいてやるよ」

 お前、やべぇ奴らに目ぇ付けられたぞ。



 1分。いや、5分?それとも15分だろうか。ハッキリした時間の感覚がない。

 気付けば車は校門の前に止まっていた。私は頭が真っ白なまま車を降り、車が去っていくのを見守った。

 校門から校舎に向かう途中、五条さんや夏油さんと伏黒さんの感じていた違いに気付いた。五条さんや夏油さんは私に、伏黒さんはお金に、興味の矛先が向いているのだ。どっちがマシなのか分かる前に下駄箱に着いてしまい、私は靴を履き替え教室へ向かった。



 教室は賑やかだった。私が扉を開けるまでは。
 ガラッという音と共に静まり、皆の視線が私に注がれている。
 黒板にはデカデカと私の名前。

 <かなたの親はヤクザに借金して夜逃げ>
 <かなたはヤクザとセックスをして生き繋いでいる>


 随分綺麗な罵倒だと思った。

 実際を知ったらこの愚かなクラスメイト達はどう思うのだろう。デカデカと書かれたその文字を私の親友が黒板消しを握って消そうとしているところだった。


 親友。私の、唯一の。


 私はその静寂の中、一番窓側、後ろから三番目の席に座った。バッグを机の横に引っ掛けて、教室を見渡した。

 五条さんや夏油さんと違って美しくないクラスメイトたち。
 五条さんや夏油さんと違って邪悪ではないただの粗野なクラスメイトたち。

 今更だが私の興味はまったく湧かず、蒸し暑い教室の中で赤色の半透明な下敷きで顔を扇いだ。下品な顔をした猿が机に近寄ってくる。そして私に何か言おうとした瞬間チャイムが鳴り、教師が教室に入ってきた。

 教師は教室に入った瞬間、私を見て幽霊を見たような顔をした。小さく私の名前を口にしたのがなんとなく分かった。何か知っているのだろうか。教師は顔を真っ青にしながら私の親友と黒板の文字を急いで消し始めた。

 そして教師の一声でクラスメイトたちは己の席に戻っていく。
 ヤクザとセックスという言葉がうっすら残った黒板で授業は始まった。


 数学の授業はつまらなく、私は話を右から左へ流していた。しかし、粗野で愚かで、いわゆるお調子者と呼ばれるクラスメイトの男子が手を挙げた。

「ヤクザとセックスするとどうなるんですかー?」

 その後、やめなよーというビッチ共の笑い声も聞こえた。簡単に性器を曝け出しそうな粗野なクラスメイトたちの笑い声が教室内に、脳内に響き渡る。教師は何か適当なことを言いながら、私をちらちらと見る。

 血なのか、脳なのかがゴボゴボと音を立てるのがわかった。

 沸騰している。

 気が付けば私は立ち上がっていた。クラスメイトたちの双眸が妙に大きく感じる。

「なぁー、ヤクザのチンコってでけぇの?」

 そんなことを言っていた。
 多分。

 私はバッグから仕舞っていた警棒を取り出して一瞬で伸ばす。

 お調子者の言葉は最後まで言えていたのか、それとも警棒が顎に直撃し、背後に飛んでいくのが先だったのか。脳内のゴボゴボという音に支配された私には分からなかった。

 とりあえず目に付いた、すぐに性器を曝け出しそうな粗野なやつを一発ずつ警棒で全力で飛ばしていく。泡立った唾液と鮮やかな血が舞う。

 途中、私を羽交い締めにした教師の頭に頭突きをして突き飛ばした。きゃーきゃーという叫び声が上がっている。

 そんな中静かに私を見ていたのは親友だけだった。

 クラスメイトが逃げようと教室後方の扉を開けた瞬間、背の高い美しい人が教室にぬるりと入ってきた。

 あの日と同じ先の尖った高そうな革靴が歩を進める。扉の前にまで来ていた連中を片手で何人も掴むと、軽々と教室のど真ん中に投げ飛ばした。更に上がる声は恐怖なのか、それとも五条さんの美しさを賛美する声なのか分からない。

「楽しそうにやってんねー」

 笑みを含んだその声。
 続いて開いた前方の扉には夏油さん。
 その2人は私にどうぞ続けて?と手で合図を送ってきた。
 なので、私は右手を振りかざし直した。

「皆さーん、お静かに。ここに一千万あります。欲しくないですか?」

 私にあちこちを殴られ、血を流しながら嗚咽を漏らしている奴を
 そっちのけで私も顔を上げた。
 一千万?
 よく見ると五条さんも夏油さんも紙袋を提げている。

 2人は顔を見合わせると紙袋に手を突っ込み、お札をばら撒き始めた。
ひらひら舞う諭吉たち。
先程まで恐怖で悲鳴を上げていた奴らは別の声を上げながら落ちていくお札を必死に掴み取っていた。

 そーれ、ほーらと舞うお札たち。

 私は物足りずに再度右手を振りかぶった。
 面白いのは、どいつもこいつも血を流しているのにも関わらず必死にお札を拾っていたところだ。自分の血が付いたお札も、小さく呻きながら拾っている。
 
 

 
 五条さんが蹴り飛ばそうと、
 夏油さんが投げ飛ばそうと、
 私が右手を振りかぶろうと、
 生徒だろうと教師だろうと。


 一千万を撒き終えた2人はカツカツと革靴を鳴らしながら私の肩を両側から掴んだ。

「すみません、うちのが。ご迷惑をお掛けしたみたいなので、早退させますね」

 夏油さんが、お札を掴んでいる教師の右手を踏みながらそう言った。呻き声。
 全員が突っ伏している教室。

 たった1人、静かに椅子に座り続けていた子を除いて。

 私は机にぶら下がっていたバッグだけ取って、振り向くことなく3人で教室を後にした。


 ギラ、と輝く太陽の陽が目を刺激する。外はこんなにも眩しい世界だっただろうか。

 乗り込んだ黒塗りの車の運転手は伏黒さんではなかった。車に乗り込んだ瞬間、五条さんも夏油さんもお腹を抱えて笑い出した。苦しい苦しい、と私の背をばんばん叩く。

「あー面白かった」

 全く、学校なんて馬鹿ばかりだよ、と五条さんは私を抱き寄せながら言った。

「五条さん、また何か学校に連絡しました?」

 そんな私の些細な質問に五条さんではなく、夏油さんが答えた。挨拶をしただけ、だと。ヤクザの挨拶なんてろくなものではないだろう。担任が顔面蒼白になるのも納得した。

 五条さんは私の質問に答えないくせに、それより、と私に声を掛けた。

「どう?学校」
「特に、何も」
「えー!じゃあ質問変えるね」

 五条さんに頭を掴まれて無理矢理振り向かされる。……五条さんの癖なのかもしれない。

「なんで笑ってんの?」

 夏油さんが続ける。

「私が合格出した時も」

 五条さんが続ける。

「僕が合格出した時も」
「両親を手に掛けていた時も」
「クラスメイトタコ殴りにしてた時も」


 かなた、ずっと笑ってたよね。


 私は両手を顔に当てる。
 下がった眉。
 細められた目。
 上がった口角。
 俗に言う、それは笑顔だった。

 また血が沸騰しそうになる。脳内でゴボゴボという音がする。

「……お金、どうしたんですか」
「ん?ああ、君のご両親の処理代」
「処理代?」
「そ、かなたってカニバリズムは分かる?」
「知識としては」
「そのパーティーがね、丁度今夜行われるんだよ。あいつら、金払いはいいからね」

 五条さんは私の頭から手を話して、こう囁いた。

「人間を餌に変えた気分は、どう?」

 私は脳内でゴボゴボ煩いです、と言うと夏油さんは笑いながらそれを人は興奮してるって言うんだよ。と教えてくれた。



 次の瞬間、あ!と五条さんが大きな声を上げた。

「かなたさ、何か色々言われてたじゃん」
「……ああ、ヤクザとセックスがどう、とかですか」
「それそれ!」

 車内に差し込む光が五条さんの綺麗な顔を照らしたかと思えば、左右対称の整った艶のある唇が動いた。
 

「セックスしてみようか」





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