泡沫の夜半、


 いつもの夜だ。あかりの消えた室内にはカーテンの隙間から月明かりが降り注がれ、ぼんやりとした輪郭を視界に映す。離れたところからは電車の揺れる音が響き、ひと車両超えるガタタンという音の間に近所の犬の遠吠えが重なった。電車が通り過ぎれば不思議と犬も静かになって、耳鳴りがするほどの静寂が四角い闇にやってきた。
 
 ぼんやり天井を眺めていると、私の右腕の中におさまる命の呼吸がする。規則的に上下する肩と呼吸の度に香るシャンプーの匂いを胸いっぱいに吸った。さらりと流れる柔らかい髪に指を通す。持ち上げても持ち上げても簡単に手元から滑り落ちる綺麗な髪に口付けを落とし、彼女の寝顔を盗み見た。僅かに開いた口からは唾液が零れかけていて、思わず笑みが零れる。枕元のティッシュを一枚取って口元を拭ってやると、不満げにむにゃむにゃと言葉にならない声を紡ぐ彼女に胸が擽られた。疼く胸。たまらなくて彼女の背に腕を回し、ぎゅうと抱き締める。甘くて柔らかくて、そしてほっとする。私の腕の中で安らかに眠りに耽る彼女が愛おしい。それこそ涙が滲むほど、彼女の存在というものが愛おしい。愛している、と心から思う。ずっと、ずっと。
 
 そして恐ろしいとも思う。もし私が彼女を喪ってしまったらと考えるだけで、人生の終幕を思った。どれだけ私が強かろうと、輝かしい地位を持っていようと、彼女の色濃い喪失を塗り替えるようなものはこの世界にはない。ある日太陽が姿を消してしまうようなものだ。そんなもの人類には決して耐えられるものではない。その代わり、彼女さえいればこの世の終わりであっても、歳を重ねて死の淵に立とうとも怖くは無い。何も恐ろしくない。この腕の中のたった小さな命に私はこんなにも生かされている。今日もそれを実感して眠る。つむじにキスを落としてから、彼女を更に抱き締めて眠った。彼女の丸い頭に頬を寄せて、絹のような髪が顔に当たり、それに包まれて眠る。世界で私しか知らない幸福の夢。日々をそうやって過ごしていた。私の世界の全てが彼女だった。
 
 
 だから、その時電話が掛かってきた時には鳥肌が止まらなかった。冷たい黒電話のような電子音が高専の休憩室に鳴り響く。スマホの画面には死神からの着信を知らせているようで、とても手に取る気にはなれない。強い喪失の予感。
 
 出ることが恐ろしくて息さえ詰まっていたのに、隣にいる悟が「電話出ろよ」と笑うから反射的に電話には出ざるを得ない。震える指で通話を押してスピーカーに耳を寄せると、ただ簡単に『世界は死んだ』と言った。その声は死神のような声で、伊地知の声のようであったし、夜蛾学長の声のようでもあったし、かなたの声のようでもあったし、また、自分自身の声のようにも聞こえた。地球が呼吸を止める。自転をやめた空は停止し、色を無くしていき、私は暗闇に再び突き落とされた。全ての音も風も何もかもが遠ざかっていく。隣で悟が何か言っていたが、それも言葉の理解が出来ない。手からスマホが滑り落ちていった。真っ暗な視界の中で白い塊が目の前で揺れていたが、それは私の心を動かすには足りえないものだ。
 
 
 いつかこんな日が来るんだろうとは思っていた。そもそも、私とかなたは祝福されていなかった。私とかなたの関係を知っているのは精々悟と伊地知くらいなもので、それ以外からは白い目を向けられることが分かりきっていた。初めてかなたのことを言った時に悟ですら目を見開き、私を「正気なのか」の確認した。伊地知は呪いなのではないかと、頻りに注意を促してきた。それもそうだろう。かなたは人間ではなかったのだから。だからいずれ私が見えないところで祓われて終わってしまう日常であると分かっていた。
 
 かなた。今日は呪霊の君と出会って一年になる記念日だというのに、私が仕事で離れたりするからこうなるんだね。かなた。私が君に死んだ恋人の名前なんか付けるから良くなかったのだろうか。でも呪霊である君が擬似的に呼吸を再現して胸を上下させる様が本当に本当に大好きだったんだ。本当に本当に、嬉しかったんだ。
 
 君が呪霊として現れた時、私はもう冷たい墓石を抱き締めなくていいんだと思った。柔らかくて温かい素肌を持ち、何の言葉も喋らない君だったけど確かに私はその瞬間救われ、君とならどこでだって生きていけると思った。本当に。君の最期の言葉はなんだったっけ。祓われる時に君はどう思ったんだろう。怖い、かな。それとも私に対する憎まれ口だろうか。呪霊だった君を無理矢理私のものにして連れ帰ったから怒っていたのかな。それでも私の腕で眠るフリをいつだってしてくれたことを心から感謝している。いつだって私の中の彼女の影を追ってくれていた。本気で呪いと私は生きていた。
 
 だからせめて、君からの最期の言葉は『ありがとう』以外がいいな。これ以上の我儘が許されるのなら、そうだね。
 
 最後の言葉は『許さない』であって欲しいと思う。




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