きっと、恋


「好きなんだ、チャンドラー」
 
 報告書を書いている私をじっと見つめていた夏油がふと思い付いたように口を開いた。突然なんだ、と思いつつも『チャンドラー』と言われてしまえば思い付く人物は一人だけだったので、「レイモンド・チャンドラーがなに?」と言って顔を上げた。夏油の手元にはレイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』が握られていることに今更ながらに気付く。夏油の動きは視界の端で先程からずっと追っていたが、本を読んでいるような動作ではなかったと思う。不思議に思いながら顔を上げた私に合わせて夏油は私の触れている報告書の紙面に指を差した。するりと黒いペン先の走ったところをなぞる。
 
「かなたは言い回しが少し独特だよね。少し皮肉というか」
「これは任務先の人が嫌な奴だったから」
「どんな?」
 
 どんな、と言われてペンを手の中で回しながら考えた。依頼主が随分と横柄な態度で、アメリカのトラック運転手の方がまだ殊勝な態度をしているんじゃないかと思ってその思うままを記したのだった。小柄な男性の依頼主だったが態度だけはデカく、呪霊の存在を信じてはいないが金だけはあるからお前らに恵んでやろうという行動心理が謎一辺倒なことを言って唾を飛ばしてきたのである。そこで殴り飛ばすのがこの世の正義かと思われたが、生憎世の正義の為に反省文を書かされたくなくて大人しくしていた。その分報告書で愚痴を綴っているのだ。
 
「養豚場の豚の方がまだマシなこと言うと思うんだよね」
「そういうところだよ」
 
 そうかな。と私は頭の中で思ってから再び報告書に目を向ける。ちらりと覗いた夏油は本を開くでもなく、窓の外に目を向けていた。小さな黒い双眸に青空が映り、流れる雲の隙間から注がれる光が夏油を照らしている。筋張った首筋、広い肩幅に筋肉の凹凸が分かる長めの腕。文庫本を持った手はゴツゴツとした骨に合わせて光陰がハッキリと分かれていた。切り取られた絵画のような一瞬に目を奪われる。ただし、夏油の頬にかかる影だけがその場の温度を奪っていく。夏油は痩せた。そう思う。肉付きの良かった顔周辺はすっかり筋が目立ってしまっていて、痩けた肌はどこか乾燥している。どうしたのと聞いたところで夏バテだよとしか返ってこないことを数回繰り返していた。この感情をなんて名前付ければいいのだろう。分からない。
 
 報告書に再度視線を落とす。改めて読み返すと報告内容なんてものはなくて、ほぼ依頼主に対する愚痴が連なっていた。目の前の夏油にこれを読まれたのかと思うと途端に恥ずかしくなり、修正テープで上から白を塗りたくる。ぼこぼこになっていく紙面を白く塗り潰していると、夏油が小さく笑った。ほんの少しだけ開けた窓から入り込んだ小さな風みたいな笑い方だった。
 
「消すの? 勿体ない」
「……タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」
「なにそれ」
「フィリップ・マーロウの言葉。夏油いま手元に『長いお別れ』あるでしょ」
「なるほど」
「厳しさだけでは守りたいものを傷つけるし、優しさだけでは守りきれないとか……なんか、そういうセリフ」
 
 へぇ、と夏油は一言言ってから目線を手元の本に落とした。夏油は興味を持ち始めたのか、本をぺらりと捲ってから文字を追い掛け始める。しかしそれも長くは続かず、ぺらぺらと勢いよく本を一周捲ってからゆっくり本を閉じた。一ページ半もまともに読んでなかっただろうに、夏油は「なるほど」とだけ呟いた。いや、読まないのか。そう思いつつも、ただ風が悪戯に本を捲るような動作の夏油を私はただ見つめていた。その動作が無性に好きだと思えたからだ。好き。この感情はそうなのだろうか。分からない。
 
「かなた」
「なに?」
「私は生きている資格があるように見えるかい?」
 
 突然の質問に目を白黒させる。唐突なメランコリーだろうか。しかし、夏油の眼差しはただ静かに私を見ていた。期待をするような、縋るような瞳を揺らしている。近頃夏油の眼差しはよく揺れる。一般的には眼振と呼ばれる現象であると、夏油を見てから調べて知った。妙に喉が渇いて言葉がすんなりと口から出ていかない。
 
「……資格は、あるでしょ」
「どうして?」
「夏油は、優しい、でしょ」
 
 私の語尾は情けないものだった。普段夏油を優しい奴だとは思っているけれど、改めてそう聞かれると途端に自信がなくなってしまうのは性のようなものだ。でも私の煮え切らない態度に夏油は少し眉を下げた。そこで間違えたな、と思う。正解は分からないにしても、夏油に優しいという言葉を選び、そしてその選択を夏油に託すような言い方をしてはいけなかった。すぐにハッとして、言い方を改める。
 
「夏油は、大切なものを自分で傷つけたりしないでしょ」
「そうかな」
 
 次に語尾が弱かったのは夏油の方だった。どうしてこうなったのか分からない。ただ、気まずさと停滞する温度感だけが教室を漂っており、私たちの間にあるたかだか数センチが深い溝のように思えた。それが妙に恐ろしくて夏油に手を伸ばす。しかし届かなくて、私は椅子から立ち上がった。がたり、という音で夏油が顔を上げ、私と目線が交わる。また、揺れてる。瞳が。
 
「私エスパーでも探偵でもないから言ってくれないと分からない。でもさ、夏油がずっと何か悩んでるのは分かるよ」
 
 私みたいに報告書で愚痴を吐くなんて出来ない夏油の真面目さが、どこかでおかしなことになっていることには気が付いているよ。本を持ってるのに全く読まないこと。近頃の報告書の文字がまともに読めないように荒れていること。それでも平然を装うとする夏油が怖くて、わざわざ教室で報告書書いてるんだよ。私はそんなことを一気呵成に口にする。ねえ、夏油、ねえって何度も口にしながら何があったのか聞こうとする私から夏油は顔を背けた。窓の外は子供が塗りたくったような青空一面で眩しい。その青空に眉を顰めた夏油の手を散々逡巡した指先で触れる。冷たい。夏油の温度ってこんなに低かったのかと今更知って驚く私を他所に、夏油は「熱いくらいだね」と私の温度の感想を漏らした。
 
「……私に生きている資格はないんだ」
 
 夏油はそう言って私の手を優しく振り払い、そのまま教室を出ていく。スローモーションのようにゆっくりな動きだったのに、明確な拒否感が伺えて私は動けなくなった。その時の私は夏油の残していった『長いお別れ』が恐ろしくて堪らなかった。この感情はなんだろう。身が引き裂かれるようなこの痛みを、世間では何て呼ぶのだろう。かの有名なレイモンド・チャンドラーなら何て表現し、何て言葉を残すのだろう。
 
 
 後日、夏油は離反した。




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