愛の花


 夢を見ている。
 僕はそれが夢だという自覚をもっており、所謂明晰夢の類であるということが分かっていた。その明晰夢は突然で、尚且つ近頃よく見る夢である。
 
 僕は決まって目隠しをしておらず、真っ白な室内の真ん中に立ち尽くしている。室内はまるで高専時代の室内を思わせるような狭さで、机と本棚、そしてベッドが並んでいた。ベッドからは芳しい香りが漂う。視線を向けると、ベッドの上には衣服を乱した同級生のかなたが両手両足を投げ打つように眠っていた。緩く纏われたTシャツとスカートの隙間からは生白い肌が覗いていて、思わずごくりと唾を飲み込んだ。僕は吸い寄せられるようにふらりとかなたに向かって手を伸ばし、長すぎるほどの脚をゆらりと一歩踏み出した。眠り姫のようなかなたはそこから起きるような様子は無い。
 
 一瞬不安になって、彼女の手首を取ってから彼女の口元に耳を寄せた。息をしている。打っている脈と耳を擽る吐息に安心して胸をなで下ろした時、無意識の深い呼吸が甘露のような甘味を孕んでいることに気が付いた。甘い。そして一等、かなたの吐息からは甘い香りがしていた。正体が分からずに鼻を鳴らしていると、ふと自分が彼女の肩口に顔を埋めていることに気が付く。いつの間にこんなに近付いただろうか。いや、それもいい。この蜜のような甘みは一体どこから。僕の体重でぎしりとベッドが鳴き、僕の手によって沈むマットレスが彼女の頭を吸い込んでいく。沈むマットレスに合わせて僕も彼女の首筋に沈み、甘い香りを嗅ぐ。そして徐に彼女の首筋に噛み付いた。蝶の口吻のようなものが己の口から伸び、ずるりと彼女の蜜を吸う。すると多幸感にくらりとした。寒くて堪らない日に湯船に浸かるような、どうしても飢えて仕方ない時にご馳走を食べるような、そういう多幸感だ。
 
 無我夢中でそれを啜っていると、そのままベッドを沈み続け、真っ黒な空間に投げ出された。彼女は未だ眠り続けている。空虚な空間で落ち続けている状態の僕がかなたに手を伸ばすと、かなたの手が崩れた。満開のチューリップがずらりと彼女の身体を覆ったかと思えば、毀れて落ちていく。咄嗟に花弁の一つを掴んだ僕は迷わず口に含み、肉厚の黄色い花弁を咀嚼した。
 
 
 はっと目を覚ますと、いつも通りの視界に深い呼吸が漏れた。どうやらアイマスクをしたままソファーで仮眠を取ってしまったようだ。すぐにスマホの画面を確認すると、液晶画面には一八時五八分と表示されており、恐らくは自分が眠っていたのは三分かそこらだろうと推測された。着信履歴はなく、その代わり各方面からの報告メッセージが続々と届いていた。メッセージに一つ一つ目を通していると喉が乾き、スマホに視線を落としたまま部屋を出た。
 
 廊下は案の定暗く、等間隔で設置された電灯が小さく光っていた。軋む廊下を進み、自販機のある場所を目指して廊下を曲がる。チカチカッと点いたり消えたりを絶え間なく続ける不安定な電灯が僕を出迎えた。後で伊地知に言っておくか、とそのまま放置して前に進んだ時、違和感。いや、花の香りだ。金木犀とは違う匂いで、秋の夜長に嗅ぐ香りではない。春を思わせるような瑞々しい香りの元を探して周囲を見渡すと、不安定な電灯に浮かんだり消えたりする人影を見つけた。呪力の質からしてかなたなのはひと目で分かる。かなたは自販機の影で小さく丸まっていて、そのすぐ側には水のペットボトルが転がっていた。
 
 
「何してんの?」
「……さと、る?」
 
 小さな声だった。喉に何かが詰まっているかのようなか細い声で、込み上げる何かを手で押さえようとしている。
 
「こな、い……で」
「なに、体調悪いの? それなら硝子のところに」
「いい、から」
 
「いいから」と言ってからかなたは身体を大きく跳ねさせ、吐き気を催しているのだろうことが分かり、近付いて背中を摩る。その時、かなたの指の隙間からはらりと黄色い何かが落ちた。花弁だ。その時、先程見た夢を思い出し、同じ匂いだと気付く。僕がその黄色い花弁を手に取ろうとすると、すぐにかなたがその花弁を攫って腕の中に閉じ込めた。
 
「やめて」
「お前……花、吐いてんの?」
 
「違う」と言おうとしたのか、口はその形を象った状態でかなたがこちらを振り向いた。その瞬間、びくりとかなたの身体が震えて口からチューリップの花弁がぼろりぼろりと落ちてくる。かなたの嘔吐く声に濡れた花が黄色く鮮やかだ。チカチカと不安定に照らされる黄色の存在感が強い。状況を飲み込めないでいたが、それでも六眼はかなたを見詰めていた。呪いに掛かっている。いや、かなた自体ではなく、口から零れる花に呪いが掛けられているのだ。とにかく花を吐いている状態のかなたは虚ろな目をしており、危険だと判断した僕はかなたを担ぎあげ、医務室へと急いだ。
 
 
「花吐き病だな」
 
 嘔吐くかなたを診察した後、硝子が額を掻きながらそう言った。「花吐き病」知らぬ病だ。
 
「正式には嘔吐中枢花被性疾患って言うんだが、心因性のものだ」
「心因性?」
「まぁ……片思いを拗らせるとこうなるって言われてる」
 
 その硝子の言葉を聞きたくないのか、かなたは両耳に手を当てたままげぇげぇと花を吐き続けていた。春を思わせる花の生首がごろりごろりと転がる。片思い、と脳内で反芻した。かなたの片思い相手なんてものは想像も付かなかったが、片思いを拗らせるというのなら思い当たる相手が一人だけいた。傑だ。
 
「治ることはないわけ」
「根本的な治療は見つかっていない。ただ、両思いになると白銀の百合を吐いて完治するらしい」
「両思いになると、ね」
 
 じゃあかなたは一生この春の花を吐き続けるのか、と諦観が襲う。昨年のクリスマスに傑は僕が殺した。死んでるから成就することもないというのは、とんだ皮肉である。えもいえぬ感情が己の内で蠢いていた。香る甘露に手を伸ばそうとした時、硝子にそれを制された。
 
「触るな。感染するぞ」
「いいよ」
 
 僕の返事に硝子が「は?」と言っているうちに、春の生首を一つ掴んで口の中に放り込んだ。甘くて瑞々しくて、そして青臭い。それを咀嚼していると、腹の中で何かがぐるりと動いたような感覚がある。
 
「悟……」
 
 かなたの僕を呼ぶ声で顔を上げると、かなたの瞳は濡れていた。艶やかな瞳は今にも零れ落ちそうで美しい。その瞳に触れようとして手を伸ばしたが、かなたは顔を逸らしてそれを受け入れない。どくんと心臓が跳ねた。直後、激しい嘔吐感に口を押さえる。びくりと身体が跳ねたのか、硝子の小さな手が背中に回った。「大丈夫か五条、おい」硝子の呼び掛ける声が聞こえるが、僕の視界には春の花を吐きながら涙に濡れ、僕から顔を逸らすかなただけが世界の真ん中にあった。途端、何かが口から溢れる。それは黒い百合だった。真っ黒な花弁が散る。
 
 僕も死ぬまでこの黒を吐き続けるのだろう。




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