通わぬ救い


 瞬間、なにかが轟音を立てて崩れた。
 崩壊するコンクリートが目の前で四方に散らばり、私を囲っていた檻は突然、あまりにも簡単に脆く破壊された。
 
「大丈夫かい?」
 
 崩落した地獄の間からは突き抜けるような青が覗き、そこから何やら男性を顔を出す。全身黒くて、いつか見た神父様を彷彿とさせたけれど、下はボンタンな上に地下足袋だったのですぐに工事現場のお兄さんが私を助けてくれたのだと認識を改めた。更に言うとそれも違うのだと後に判明するのだが、それでも私は夏油傑という男性に助けられたのである。
 
 
 我が家は宗教一家だった。事の発端は母親が新興宗教にハマったことで、そこから芋づる式に父やそのまま祖父母にまで及び、親戚が集まれば宗教の話一色になったのはそう最近の話ではない。ただ私が一人で浮いていた。聖書に書いてあることが信じられず、歴史の教科書に載っている宗教戦争の時代の詳細に目を走らせては反発心が募る。それを口にしたのが良くなかった。私は悪魔に取り憑かれているのだと言われてベッドに括り付けられ、部屋に閉じ込められ、毎日毎日司祭様が部屋に来て祈りを捧げていく。本当の意味で気が狂いそうだった。そうやって無駄に捧げられた私の一〇代前半は路傍の石なんかよりもずっと下位で無意味なものだ。
 
 それが突然崩れた。救世主のお出ましである。自らを夏油傑だと名乗った男性はベッドに繋がれた私を見て眉間に皺を寄せ、右手の親指の腹で額を神経質そうに掻きながら舌打ちをした。そしてあまりに容易く私の錠を壊すと、「行こう」と言う。伸ばされた手は大きく、迷わずその手を取った。優しくて、少し固くて、でも大きくて温かい手。眩い光に包まれて破壊された穴から顔を出すと、高い青天井が広がっていた。秋らしい薄く千切れた雲が辺りをふんわりと漂っていて、こんなにも世界は穏やかなものかと感心する。もう何年も部屋を出してもらえていなかったからだ。周囲は車や人の話し声、鳥の囀りが辺りを包んでいて、かつて感じた孤独感とは程遠い。目の前の優しく微笑む男性も、まるで私は孤独ではないのだと言っているようでひどく安心した。でも私は聞く。
 
「あなたは、神を信じる?」
「んー、悪いけど私は無神論者なんだ」
 
 心から安らぐ言葉だった。救世主である男性の手を握り、後を着いていく。何年もまともに動いていない足は頼りなく、ガクガクと震えては地面すら揺らす勢いなのを男性は見過ごさず、大きな腕で私を軽々持ち上げた。膝裏と背中に腕が回り、所謂お姫様抱っこをされる。香る男性の匂い。貧弱な肉体である私に対して男性の身体は大きく、そして逞しい。私はずっとこうしていたいとすら思って、男性にしがみついた。それを受け入れてくれる。しがみつく腕も震えて物を持つことすら困難だろうが、それでも全身の力を振り絞って抱き着いた。この人に着いていきたい。そう思うからだ。
 
 男性に車に乗せられると、スーツを着た別の男性が車の運転席に座っており、「高専に戻りましょう」という言葉で男性は――――夏油様は軽く返事をした。その間も私の震える肩を抱いてくれていて、そのことに安堵した私はもう何年ぶりかに安らかな眠りらしい眠りに落ちたのだった。
 
 
 次に目を覚ました時に見えたものは白い天井だった。頭上に壁があり、三方向をカーテンで仕切られている。見慣れない場所にきょろきょろと目を動かすが、何も無い。仕方なくカーテンの一つを捲ってみると、カーテンの向こう側には開けた空間があり、そこには茶髪の女性、白髪の男性、それから夏油様が向かい合わせのソファーに腰掛けて何やら話している。ヒジュツシがどうの、ミエテイナイだのという言葉が行き交っていた。意味が全く分からず、あの、と小さく声を掛けると夏油様と目が合う。その色は少し前に私を抱き上げてくれた目の色ではなかった。その違和感にぞくりと背筋が凍る。
 
「目覚ましたか。痛いところはないか?」
 
 茶髪で髪の長さが肩につくかつかないかくらいの女性が振り向き、こちらに近付いてきた。見れば手足の皮膚の擦れも治っており、「痛くないです」と正直に言う。良かったと優しく微笑む女性にまたじわりと温かい温度が胸を満ちていく。ただ気掛かりなのは夏油様の方で、ちらりと夏油様を見るともう目も合わない。
 なんで?
 どうしてそんな顔するの?
 女性は家入硝子と名乗り、「アンタの名前は?」と聞かれる。名前を#名前#と名乗ると、そっか、じゃあ#名前#、聞いて欲しいと言われる。
 
「ここは東京高専っていう学校なんだけど、一時的に#名前#を保護した。でも家に帰さないといけない」
 
 絶望的な言葉に時が止まる。止まっていたはずの震えが再び私の身体に火をつけ、けたたましい震えがベッドを鳴らした。すると、白髪の男性は言う。
 
「ここは特殊な学校で、お前みたいなパンピーを置いておけねぇの」
「でも!」
 
 食いつこうと、せめて何か言わなければと「でも」の二文字が出たものの、言える言葉が見つからない。パンピーとはなんだ。特殊な学校とは何だ。何もかも分からない。夏油様がどうしてそんな顔をしているのかも分からない。痛いような、悲しいような、嫌悪のような、憎悪のような。眉間に皺を寄せて常に床を見つめるその顔の影が色濃く、先程までの違いに目が眩む。
 どうして。
 どうして。
 弾けるように雫が目から溢れては世に放り出された。
 
 どうしてを繰り返して泣き始める私を三人はどうしたものかと始末に困っている様子で、やがて夏油様は硝子という女性と白髪の男性を室内から遠ざけた。「二人きりにしてくれ」という言葉に二人は従う。
 
 あっという間に二人きりになっても、私はどうしてと泣き続けていた。夏油様の瞳の色は変わらない。濃い闇色のままだ。
 
「#名前#ちゃん、だね」
「帰りたくありません」
「すまないけど、ここには置いておけないんだ」
「嫌です」
 
 嫌です嫌ですと繰り返して首を振っていると、ついに両肩をガシリと掴まれた。大きな手が私の細い肩を掴み、力の入った指先が肉を抉るのではないかと思われるような力だ。
 
「君は非術師で、私は呪術師だ。君の状況には同情するよ。でも私は……非術師が嫌いなんだ」
 
 嫌い。その言葉だけが頭に残る。それ以外にも知らない言葉は沢山あったはずなのに、シンプルなその言葉だけが頭に残り、血流に乗って心にまでストレートに届いた。助けてくれた夏油様は私が嫌いということだろうか。
 一つも何も分からないけれど、どうして私はヒジュツシと呼ばれる生き物として生まれてきてしまったのだろう。ジュジュツシという生き物であれば、夏油様は救世主のままでいてくれたのだろうか。痛くて呼吸が出来ない。治ったはずの手足が擦れて痛みが出てくる気がした。何処もかしくもが痛い。ズキズキと走る稲妻のような激痛が身を裂きそうだ。
 
「君は施設に送られると思う。それでさよならだ。悪いけど、これ以上私たちがすることはない」
 
 痛いくらいだった手が離れていく。圧を失った肩が軽い。残されたのは痛みだけで……痛み。
 
「あの、ジュジュツシとヒジュツシの差ってなんなんですか」
「……呪いが見えるかどうかかな。君には見えていないだろ」
 
 見えないことに理由があればいいのだろうか。そうすれば仕方ない、ということにならないだろうか。私は震えながらも躊躇わずに、右眼窩に指を突っ込んだ。痛みに思わず唸ると、下ばかり向いていた夏油様もその事に気付いて私を止める。
 
「何をしているんだ!」
「目が、目がいけないんですよね!?」
「そうじゃ……そうじゃないんだ!」
 
 ぐりぐりと指を入れて眼球を取り出そうとする私を夏油様の大きな手が制する。そして左手をも止められる前に今度は左目を潰した。視界が黒くなる。不思議と痛みはあるはずなのに、心が裂けるような痛みは引いていた。夏油様の瞳を見ずに済んでいるからかもしれない。すぐに夏油様は「硝子! 来てくれ!」と女性を呼ぶ。即座に室内に滑り込んでくるような扉の音と足音がした。しかし足音は一瞬だけ室内で静まり、そしてまた走り出した。温かい空気を顔面に感じる。硝子さんは「今すぐ治してやるから」と言ったものの、私の目が光を映すことはなかった。
 
 
 そこから二年、未だに「私の目が悪いから」と言う私に傑は「そうじゃないんだ」と言って私の手を握り続けている。




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