融ける青に君


 ささやかな違和感が背筋を滑って行った。
 ────何かおかしい。
 
 
 急激に秋が深まり、青天井が遥か先であると薄く掛かった雲から察せられる時期である。つい先週まで三〇度を超えていた気温はスイッチを切り替えるように二〇度前後の気温へと変化していた。流石に夏の装いを貫くのは難しく、間違えて窓を開けて寝てしまえば簡単に風邪をひく。そんな間抜けなことになる前にと前の季節に閉じ込めた衣装ケースを引っ張り出してきた。
 
 今日は久しぶりになんの予定も入っていない休みで、朝の始まりが午前とは言い難い時間になっていても文句を垂れる人はいない。その自由さが普段窮屈な思いをしながら会社員を勤める私には必要不可欠である。のんびり起きてから大好きな祓ったれ本舗の出演する番組を見ながら昼に朝食をとり、夕方から冷え込む気温に震えて衣装ケースのことを思い出したのだった。衣装ケースには三ヶ月前に行った祓ったれ本舗のライブで購入したシールがセンスの欠けらも無いまま貼られている。相変わらず五条悟も夏油傑も顔がいい。その事に気を取られていると小さなくしゃみが口から漏れた。風邪をひいて会社で菌を撒き散らす前にと慌てて夏服を畳み、冬服を取り出す。防虫剤の臭いが僅かに香り、一度洗いに出すか考えていた時だった。
 
 ────違和感。
 
 ささやかな違和感だ。何かおかしい。一枚服を取り出して広げてみる。夏に着ていたお気に入りのTシャツだが、妙に真新しいのだ。ほつれが無ければ毛玉もない。なにより、何度も洗濯しているはずなのに生地が厚いのだ。擦れる胸元も腹部も着倒した形跡がない。一瞬自分の服なのかとさえ疑問に思う。
 
 しかし一人暮らしの身の上、自分以外がいるはずがないのだ。親ともこの一年くらいは会っていない。別の服も取り出してみる。取り出したタンクトップも同じだ。リブ素材の丈の短いタンクトップは気に入ってこの夏何度も着たはず。確かに洗濯には気をつけてはいるものの、だとしてもこんな新品のような状態だっただろうか。別の服を取り出す。同じ。取り出す。同じ。取り出し、広げ、また同じ。首を捻って考えてみるものの、『服が妙に新しい』という事実が分かるのみでその先にあるものが一切見えない。謎である。服を買い換えたわけでもない。その時はまあ、服がボロボロよりは良いだろうと終着点としては曖昧な答えを出して夏服を畳み直した。そして冬服を服を取り替えていく。
 
 お気に入りのニットやパーカーを取り出していくと、冬の装いに胸が踊った。何を着よう。もう少し涼しくなったら新しくコートでも買おうかな。そんなことを悠長に考えていた私は夜になってから風呂場に入って絶句した。一度感じた違和感というものはやはり喉に刺さった魚の骨のように引っかかり続けるもので、ふと感じた違和感に再び私は言葉を失った。
 
 そういえばシャンプーのボトル、最後にシャンプーを補充したのいつだっただろうか。もう随分前な気がしている。夏の始め、時期に合わせて爽やかな香りのシャンプーに替えようかと考えていたはずだ。しかしこの夏、シャンプーを買うことなくひと夏を過ごしてしまった。そんなことあるだろうか。シャンプーボトルを恐る恐る手に取る。半透明なボトルには九割液体が満ちており、常識的に考えてもシャンプーの減りが少なすぎることは今までの経験から確実に分かった。待てよ、と手を止め、他のボトルも慌てて確認する。どれも同じだ。シャンプーとトリートメントも、ボディーソープも洗顔も。どれも暫く買っていないし、記憶の中で無くなっていない。先程の服のことと言い、何か言い知れぬ違和感と不自然さに指先が僅かに震えた。シャワーの降り注ぐ音だけが浴室に響き渡り、温かいはずのお湯はどこかひんやりとしている。
 
 まるで、私以外に誰かいるようではないか。
 
 その答えに辿り着くと足元から立ち上る震えが頭の先にまで到達し、急に全裸で浴室にいる自分の警戒心の無さが恐ろしく思えた。手持ち無沙汰でシャワーヘッドを手に取るが落ち着かない。早く身の回りを何かで固めたい欲がむくりと膨れ上がり、慌てて浴室を出た。
 
 この一人暮らしの家に自分以外がいて、物を補充したり服と取り替えたりする様子が頭に浮かんでは消えていく。そんなことが有り得るのだろうか。今の今まで気付かなかった自分はどれだけ鈍感なのだろう。いや、これは妄想逞しい自分の被害妄想かもしれない。
 いや、いや。
 
 泡のように浮かんでは消える恐怖で髪を乾かすことも忘れ、服をすぐに着てベッドに潜り込んだ。布が全身に触れているだけで少し心が安らぐ。ホラー映画を見たあとにカーテンの隙間や扉の隙間が妙に気になってしまうことと似ている。それもまた一度気にしてしまえば解決するまで頭を支配する考えだ。事実私はもうそのことしか考えられない。自分以外の吐息が聞こえる。自分以外の心音が聞こえる。それは見えも感じもしないのにいる°Cがしてならない。
 
 強く布団を握り締めると、濡れた髪が次第に冷えて身体が今度は寒冷によるもので震えた。ダメだ。やっぱり髪は乾かそう。周囲を見渡しながらゆっくりベッドをおり、洗面台にあるドライヤーのスイッチを入れた。流れ出る温風に僅かに身体の力が抜ける。耳元での風の音も先程感じた他人の吐息や心音の音を掻き消す気がしてほっと一息ついたのも束の間、ふと眼前の鏡が気になってしまった。鏡に誰か映ってたりはしないだろうか。気にしてしまうと途端に暴れ出す鼓動。こういう時はどうすればいいのだろう。警察に通報……いや、しかし実害は何もない。服が新しくなっていたり、シャンプーが補充されていたからといって証拠はどこにもない。私の記憶だけが証拠足り得るものであり、物的証拠はなにもないのだ。それが更に不安を駆り立てた。
 
 犯人の目的が分からない。
 犯人が誰かも分からない。
 更に言うならどうやって室内に入り込んでいるのかも分からないのだ。確かに鍵は二つ持っているが、合鍵は玄関に置いた瓶の中に入れたままである。そこから出した記憶はない。ハッとして振り返った。まだその合鍵が瓶の中にあり続けているのだろうか。暴れる鼓動がそうであれと願うが、無かったらどうしようという気持ちにもなる。
 
 確認しなければ、とまだ生乾きの髪のままドライヤーを置いて洗面台から離れた。フローリングに鳴る自分の足音さえ不気味だ。ゆっくり、一歩一歩踏み締めながら玄関を目指す。たった数メートルが異様に長く感じられ、自分が如何に動揺しているのか分かる。腰の引けた状態で玄関の手前まで来ると、遠目で瓶が見えた。中には鍵が入っている。ほっと胸を撫で下ろした。が、すぐに気付く。私の家の鍵ではないのだ。鍵の種類が違う。私の家の鍵は両側にランダムなギザギザがついているタイプ、ロータリーディスクシリンダーと呼ばれるタイプなのに対し、瓶の中に入っているのは一回り小さいディンプルシリンダーと呼ばれる鍵だ。子鍵の両面にある凹凸からして間違いない。
 おかしい。
 流石におかしい。
 私の家の鍵がなくなって代わりに見知らぬ鍵が置かれているなんて。つい上げそうになった悲鳴を噛み殺して飲み込み、玄関を後ずさる。そして走って布団に潜り直した。指先が冷えて痛いのは寒冷が理由ではないだろう。
 
 嫌な想像ばかりが頭をよぎる。同僚、上司、先輩後輩の顔を考えてみるが、考えれば考えるほど誰もが怪しく思えてならない。昨日までは皆普通に接していたというのに、その中に私の生活を脅かそうとしている者がいる。
 
 誰だろう。誰もが信用出来ない。そもそも単独犯かも分からないのだ。脳内に住む日頃お世話になっていた人達の笑顔が歪み、血走った目で私を見ているような気がしてならない。流石にもう髪のことはどうでもよくなっていた。布団の中で丸くなり、小さく縮こまる。こんなに恐ろしいのに警察を頼ることが出来ないだなんて世界はおかしい。
 
 ちらりと布団の隙間から部屋を覗く。テーブルの上に置かれたスマホの画面がチカチカっと明るくなるところが見えた。スマホの中にはたくさんの人の連絡先が入っており、それさえ覗かれているような気がしてスマホにも触れない。何の通知でスマホが光っているのか確認することすら今の私には難題すぎる。再び布団の中に潜り、強く目を閉じた。このまま何事もなく夜が過ぎたら、明日実家に身を寄せよう。親からは変なことをと言われるかもしれないが、助けてほしいと言おう。そう決めて早く夜が過ぎることを祈った。
 
 
 どれだけ時刻が過ぎた頃だろう。緊張が次第に溶けてきて眠気に意識を引っ張られた頃に何か物音がした。玄関だ。その音にびくりと反応した身体は思わず硬直する。虚ろな意識を懸命に寄せ集めて集中すると、玄関からは鍵を回す音がした。ガチャリと硬質な音が回転して開く音がする。そのままキィ、と開く音が追い掛けてきた。誰か入ってくる。冷えきった指先が大きく震えてベッドすら軋んだ。すると玄関先から「かなた?」と私を呼ぶ声がする。なんだか聞き覚えのある声だ。再び会社の人達の顔が頭を過ぎる中、足音が近付いてくる。耳鳴りがした。キィーンという甲高い音に足音が重なる。心臓が弾け飛びそうな音を立てる中、私は死にたくないと思っていた。たまに聞くストーキング被害から殺害に至る話が心に過ぎったのだ。
 死にたくない。
 まだ死にたくない。
 まだ相手が分かれば、相手の言うことさえ聞けば許してもらえるかもしれない。そんなことを考えているうちに足音がベッドの真横にまで迫っていた。じわりと湿り気が瞳から溢れる。ガタガタと震える全身を覆う布団の上に重さを僅かに感じた。
「今日は起きてんだね、かなた」
 やはり聞き覚えのある声だ。しかし、想像に反して優しい声音である。とにかく私は死にたくなくて、縋る気持ちで布団の隙間から外を覗いた。すると、何やら濡れたものと目が合う。丸くて濡れたものは日頃画面越しに見つめていたもの。
「ただいま、かなた」
 それは青だった。




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