カタオモイ


 欲しいものが手に入らないという現象は往々にしてあるというのに、どうしても我慢ならないことが世の中にはあって、どうやらその立場に立った時僕はどうにかしてしまうようだった。そしてそれが今であり、目の前の地面に転がる華奢な左腕を手に取った。
 
 そこが始まりだったと思う。
 
 
 かなたは二級術師だ。特別強いわけではなく、かと言って底辺というほど弱くもない。可もなく不可もなく、といった呪術師であるかなたは僕達の代にとって特別な存在だった。硝子とは高専時代からの親友で、傑の彼女で、僕の女友達である。あらゆるクッション材へと変わるかなたの存在は僕達を喧嘩や仲違いから遠ざけ、様々な潤滑剤の役割も担っていた。
 
 例えば高専時代、僕が傑のカップ麺を食べた時にはかなたが代わりのものを作って傑に食べさせることで宥めていたし、傑が僕の些細な煽りに反応したら横で爆笑することで喧嘩が馬鹿馬鹿しい雰囲気に変わる。傑が一時痩せて、様子がおかしかった時にもかなたがずっと傍にいたことで気付いたら傑は元に戻っていた。
 
 そういう存在だった。だから僕達はかなたのことを大事にしていたと思う。しかし、彼女はそれすら僕達の想像の斜め上をいくことが多かった。どうやらかなたは痛覚が弱いらしく、昔から怪我が多かったのだ。痛みが平気だという強がりと痛覚を感じないのでは話が違う。
 
 その度に硝子は苦々しい顔をして治療を施す。かなたに何かあれば真っ先に硝子と傑が駆けつけ、泣きそうな顔をしながら対処をするということはよくあった。その度にかなたはごめんと笑うけど、笑ったところで許されるような雰囲気になることは一切ない。結局毎日逐一硝子による診察をされ、傑からもどこか怪我がないか度々聞かれていた。当時の僕はそれでいいと思っていたし、それで怪我が減ればいいな程度の認識だった。
 
 しかし、その認識は変化していく。
 僕達が二〇代の半ばに差し掛かったある日のこと。日差しが痛いほど刺さる夏のことだった。緊急の電話連絡で現場に向かった僕の目の前にはかなたの本体からもげた左腕が転げ落ちていたのである。血の水溜まりの中にぽつんと投げ出されたそれはまるでマネキンの腕のように無機質に見えるが、引きちぎられたかのような切断面には潤った赤い肉がこれでもかとさらけ出されていた。そこから数メートル離れたところに地面に転がされているかなたに駆け寄る。かろうじて息をしていることを確認してから眼前の呪霊を足早に祓い、補助監督に一言声を掛けてからかなたを急いで硝子のところに運んだ。その間も頭を過ぎったのは転がっている腕のことである。腕の中で虫の息のかなたを見て、吸い寄せられるように口付けを交わす。冷たい唇だ。恐らく傑はまだこの冷たい唇を知らないだろう。温かい呼吸と熱いほどの熱を知っているがゆえにだ。むくりと膨れる欲がじんわりと腹の底に溢れてきているのに気付く。
 
 その欲が脳内を占める前に高専に着き、硝子にかなたを手渡した。相変わらず硝子の顔色は悪いが、きりりと釣り上がる眉は気合いの証である。かなたは助かる。それがハッキリ分かるからこそ、左腕が気になって仕方ない。慌てて僕は医務室を飛び出して現場に戻った。すると丁度補助監督が現場を元に戻しているところで、左腕も回収されているところだった。他の誰かが触れてしまう。
 
「待て」
 
 出た声は自分が思うよりずっと低い声だった。補助監督の肩がびくりと震えて動きを止める。これでは威嚇のようだ。アイマスクの下で目がギラついて、眼窩が仄かに痛む。
 
「その腕は僕が硝子のところに持って行くから」
 
 息をするように飛び出た嘘に補助監督は納得して、左腕から手を引く。そして先程より死臭が漂う左腕を拾った。もう関節が硬くなり始めている。僕は保存の術を施しながら自分の家へと腕を持ち帰った。
 
 時折遺体のみが現状を知る手掛かりとなるので、呪術師には遺体を保存する術が教えられていた。それを注意深く施すとまるで腕が生きているかのように、浮き出る血管まるごと時が止まる。ほっと一息ついてから家に帰り、自室のベッドに寝かせた。誰もいない殺風景な部屋で左腕から《おかえり》と聞こえた気がして、小さく「ただいま」を言う。忙しさも相まってあまり帰っていない僕の部屋は物が少ない。そんな部屋に訪れた彩りは赤。綺麗な腕だ。次は右腕が欲しい。
 
 僕は左腕を消毒した脱脂綿で拭き、毎日毎日優しく撫でて過ごした。次はどこが来るだろう。次はどの部位がこのベッドに潜り込むだろう。そうして僕は人生で初めて五時間以上眠ることが出来た。
 
 
 機会はなかなかに恵まれず、そこから一年ほど経った時だった。今度はかなたの左脚が切断されたのである。勿論僕はすぐに回収をした。かなたの任務を全て把握していた甲斐があった。硝子の反転術式なら手足を生やすことくらいは可能だ。問題はないだろう。
 
 すぐに駆けつけられたこともあって、左腕は切断されてホヤホヤの良い状態だった。すぐに術を施す。踝は柔らかく、足首を回すのは容易で可愛らしい。それを再びベッドに寝かせる。これでかなたの腕枕で眠ることが出来、そして脚を絡ませて眠ることが出来るのだ。胸に温められた蜂蜜が満たされるような感覚。とろりとした感動が僕の生活を彩っていく幸福感に酔いしれる。今度はどこだろう。でもやっぱり腕が欲しいな。
 
 
 そんなことを繰り返していた。左腕、左脚、それから右脚。右腕が手に入った時には嬉しくて高専内をスキップして回ったものだった。右腕と左腕で僕の顔を包む。柔らかくて冷たい手のひらが僕の顔を包み、そして死にかけのかなたの唇を夢想した。ぞくりと下半身が粟立つ。僕自身が首をもたげる感覚がしてつい笑みが溢れる。もし、もし。もし、かなたが死んでしまったらここでこうして大事に世話をしてやろう。そして僕だけの唯一にしてしまおう。硝子の親友なんかじゃなくて、傑の彼女なんかじゃなくて、僕だけの唯一に。もげて転がる四肢にかなたの使う香水を振りかけ、その空いた空間に身を滑らせて眠りにつく。不思議と温かい気がして、僕はよく眠ることが出来た。
 
 
 秋らしい空には解けた入道雲がうろこ雲になって空を浮遊している。すっかり乾いた空気は日陰に入る度に体温を爽やかに下げていった。たまに見掛けるようになった赤い彼岸花が風に揺れている。秋だ。かなたや傑に何か食べ物のお土産でも持ち帰ってやるかとスマホでクチコミを調べていると、ぶるりと通知が入った。傑だ。
 
「もしもーし」
『……悟、かなたが死んだ』
「は?」
『……かなたが……っ』
 
 電話報告で良かった。でなければ、傑ににやけ顔を見られるところだった。傑の声は悲壮に塗り潰されていて、泣き崩れる傑の姿を簡単に思い浮かべられる。さぞ辛いだろう。付き合ってもう八年もするのだ。さっさと結婚してしまえばいいのに、と周囲から言われて長いカップルが傑とかなたの二人だった。
 
 対して僕はベッドに全身揃ったかなたが寝転がり、僕にゆっくり《おかえり》と言う姿が頭に満ちる。僕はその姿に見蕩れながら傑にかろうじて「分かった」と伝えることに成功した。口元を手で押さえると、とうとう堪えきれなかった笑い声が指の隙間から溢れて落ちていく。同時に急がなくてはならない。死体は腐敗していくからだ。迅速な対応が求められる。僕はお土産なんてものはすっかり忘れて高専に急いだ。場所は医務室なのか死体安置所なのか悩んで、医務室へ移動した。そこには最後まで足掻いたのだろう硝子がゴム手袋とマスクをしたままぼんやりと立ち尽くしている。そして既に死体であるかなたの身体に縋ってベッドに伏しているのが傑だ。傑がこんなに分かりやすく、そして小さな子どもみたいに泣き喚くのを見るのは初めてのことである。室内にわんわんと響く泣き声は反響して全身を震わせた。痛みすら感じる。
 でもごめん、傑。時間が無いんだ。
 
 僕は硝子の肩を叩き、傑の肩を支えて廊下に出した。傑はガッシリとかなたの身体を掴んで離さないなら、仕方なく術式を使って二人を引き剥がす。傑はそれでもなお、わんわんと喚きながら「かなた! かなた!」と名前を呼び続けていた。廊下に傑を追い出すと、傑は真っ赤な鼻と真っ赤な瞳からだらだらと体液を垂れ流しにしながら僕を睨みつける。僕があまりに冷静だから違和感でも感じたのだろうかと一瞬固まるが、傑はすぐに「ごめん」と呟いて、床に崩れ落ちた。冷たい廊下に二人の思いが駆け巡っていたが、僕はそれどころではない。急いで医務室に戻り、火葬の手続きをする。火葬するのは、正直嫌だが今まで可愛がってきたかなたの手足たちだ。背に腹はかえられない。
 
 そして火葬後、妙に骨が少ないことには誰も触れなかったことが幸いだった。誰もそれどころではなかったとも言える。硝子も傑も僕が即火葬してしまうとは思っていなかったのだろう、ほぼ抜け殻のように呆けていた。
 
 ありがとう、硝子。
 今までかなたの治療をしてくれて。
 ありがとう、傑。
 今までかなたの無事を心配してくれて。
 
 そんなことを思いながら僕はいつも通り部屋に戻る。
 
「ただいま」
 《おかえり》
 
 好きだよ。




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