あまく、のみこむ


苦い思い出は甘い香りがする。
暑くも寒くもない微妙な季節である秋の路地は甘い香りに満たされているから大嫌いだ。濃密なフローラルが橙色に色付いている姿を見ると気持ちがげんなりとする自分がいる。

その度、こっぴどい振られ方をしたあの日の惨めな少女の姿を思い出された。学生時代、大好きだった彼氏に振られたのである。それだけならまだしも、彼氏は三股しており、浮気相手の1人が私だったのだ。本命の彼女は他にいて、その本命は私が大好きな部活の先輩だった。その先輩からも私はひどく見下され、罵倒され、その上で彼氏だと思っていた男からは「コイツがセックスだけでもいいからって強請ってきたんだよ」なんて適当言われてしまい、売女だの淫乱だの言われたものである。それは秋の出来事で、爛漫の金木犀が日陰を作る路地裏での話だった。

そんなことがあってから秋はすっかり嫌いになっていたのに、人間というのはそうそう簡単に変わることがない。三つ子の魂百までというのも馬鹿には出来ないのだ。なぜなら今私の目の前で買い物袋を揺らす男は、つい数時間前までは私のベッドの中でスプリングを鳴らしていた男なのだが、ヒモだからである。なんなら他の女の影もある。ほら、私って何も変わってない。ヒモ、もとい伏黒甚爾という男と出会ったのは夏の入口だった。


その日は雨が降っている割に蒸し暑く、気温も妙に高い日。玄関の扉を開けた途端にむわりと噎せ返るような熱と湿度がまとわりついてくるような朝に、家の前に甚爾くんが転がっていたのだ。咄嗟に心配して駆け寄ったが、すぐにその選択を間違えたかもしれないと感じた。というのも男の身体の横に数枚の馬券が落ちていたからだった。しかしその時には既に時遅し、甚爾くんに腕を引かれて食事を懇願されていた。それで済めば良かったのに、そんな男に可愛いだなんて思ってしまったのが運の尽きである。

「上がってく?」なんて声を掛ければ簡単に着いてきた男は私が差し出す食事をぺろりと平らげ、そしてけろっと「これから世話になるわ」と言い出した。実際のところ私には「やだ」だとか「無理」とかいう否定や拒絶の言葉を言うチャンスはいくらでもあったのだ。だというのに、びしょ濡れで食事に食らいつくデカい男の姿が可愛くて、そして口元の大きな傷とそれに見合わない美しい顔立ちがまるっと私の拒絶を飲み込んでいった。本当に私の良くないところだという自覚はある。けれど男を腹いっぱい食べさせてから風呂に入れ、そのままの流れでセックスにまで縺れ込んでしまってから自覚なんてものは体液と共に古いシーツとしてゴミに捨てた。

とはいえ、一目惚れなんて簡単な言葉で片付けられない私たちのロマンスは容易くグラつく。私が仕事に出掛けている間は甚爾くんが他の女のところに行くことだって知っていたし、ふらりと外へ出掛けていく甚爾くんを止められる立場じゃない私はいつも何事も無かった顔で帰るだけ。


「甚爾くん荷物重くない?」
「重い」
「いや、重いんかい」

ぶらぶらと買い物袋を揺らす甚爾くんについて行きながら声を掛ける。1ミリも思っていなさそうな「重い」の一言は眠気をまとっていて、「重い」んじゃなくて「眠い」んだとなんとなく分かる。たかだか2ヶ月半くらいの付き合いなのに甚爾くんの内側を理解出来るようでほんの少し足取りが軽くなった。跳ねるような足取りのに私に甚爾くんが「転ぶなよ」と苦笑を含んだ声を掛ける。こういうところも好き。

日々ささやかなやり取りから甚爾くんに対する気持ちが高まっていくことが分かる。でも、先程の買い物だって私が服を買っている間にふらりと別の店に入っていく背中を見守った。それも化粧品のお店である。他の女へのプレゼントでも買っているんだろうか。私なんて甚爾くんがパチンコで手に入れた景品くらいしか貰ったことないというのに。じわりと滲む涙を飲み込んで平然を装う。感傷的になってしまうのはまた秋が巡ってきてしまったからだろうか。甚爾くんと歩く路地横にも金木犀が華やかに咲き誇っている。漂う甘い香り。蘇る苦い記憶につい足が立ち止まった。心を強引にほじくり出して踏みつけていかれるような気持ちに、思わず胸を押さえる。

「……どうした」
「なん、でもない」

なんでもないと伝えても動き出さない甚爾くんは買い物袋を揺らしながら私に向き直った。そして小さく「金木犀か」と呟く。「甚爾くん花の名前とか分かるんだね」と言えば「博識だからな」と本当か嘘か分からないような事を言う。

急に自分の身体が縮むような感覚がして、矮小な自分が誰かの特別になんてなれやしないんだと脳内で誰かが言った。金木犀が地面に落ちている様子をぼんやりと目で追う。黒いコンクリートに橙色が鮮やかだ。こんなに綺麗なのにこんなにも苦しい。その時、「ん」と甚爾くんは小さな紙袋を私に差し出した。思わず顔を上げる。すると甚爾くんは無愛想な顔をしていて、そのまま差し出した袋を更に私に押し付ける。反射的に受け取った私の手の中にそれが収まってしまい、甚爾くんの顔と何度も物を見比べた。

甚爾くん、今日はパチンコ行ってないはずだけどな、と思う自分と訳の分からない私が戦っているうちに、甚爾くんが「開けろよ」と私を促す。すると不思議なことに私の身体は容易く袋を開けてしまうのだ。私の身体の操縦桿は甚爾くんが握っているのかもしれない。

中から出てきたのは金木犀のパッケージのオードトワレだった。円柱の瓶の中で半透明な液体がちゃぷりと揺れる。

「俺といる時に余計なこと考えてんじゃねぇよ」

そんな言葉の直後に頭の上に温かい温度を感じた。甚爾くんの大きな手だ。撫でるというよりも手を押し付けるだけのその行為に甘い香りが漂う。甚爾くんの顔が見たくて腕の隙間から顔を見あげると緑色の突き抜けるような透明感のある瞳が暖色を孕んで細められていた。甘い顔。思わず抱き締めたオードトワレの瓶を見て、甚爾くんは「ちゃんと使えよ」と言った。使うよ。苦い思い出も、何でもかんでも飲み込んでしまうあなたの前で甘い香りをさせるのは嫌な気がしないから。

でも次はパルファムにしてね、オードトワレじゃ儚すぎるの。





×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -