モナリザの淫らな矜恃


 夏の日差しを浴びて、ぎこちない笑みを見せるその女性がとても可愛く見えた。自分の時が止まる気配がして、そっと息を飲む。なぜか昔テレビで見たモナ・リザに群がる人間たちを思い出した。美しいものに無防備な気持ちで見上げるその時の気持ちに自分が共鳴する。少し崩れた朗らかな笑みに思わず声が漏れた。
 
 すると、不思議そうな顔で首を僅かに傾ける女性の後ろから、ひょっこりと顔を出した親父の顔はニヤついていて、途端に身体中の血液が冷やされたような感覚を覚える。親父は太ましい腕を女性の肩に絡みつけ、背後からやや伸し掛るように室内に入り込んできた。大きな猫が人に甘えるようだ。しかし猫とは違う色付いた唇がつう、と女性の首筋を艶やかに滑っていく。つい先程までぼんやりと見上げるその微笑みから太陽光のような熱を感じて、身体が沸騰しそうだったというのに、容易く熱は奪われた。だというのに、目の前のモナ・リザは擽ったそうにころころとした笑みを零す。俺の時は止まった。
 
 好きになった女は親父の女だった。
 
 名前はかなたというらしい。親父がその名前を呼ぶと、決まってかなたさんは「なぁに、甚爾くん」と間延びした返事をしては、くすくすと笑って身体を寄せあっている。思い合っているのだろうか。狭い室内で津美紀と俺は別世界に存在しているようで、ただ一定の距離を保っていた。
 
 そもそも親父と殆どまともな会話をした記憶がない。いつも「おう」だとか「そうか」ばかりなイメージが強い。だから俺は親父にはめっきり話し掛けなくなったし、津美紀にも親父には言わなくていいことは言うなと伝えてある。今まではそれでなんの問題もなかった。というのも、親父は殆ど家に帰って来ないからだ。前に親父が帰ってきたのはこんなに蝉時雨が烈しくなる前だったし、なんなら今年だったのかすら怪しい。
 
 しかし、かなたさんが現れてからというもの親父は家に居着くことが増えた。コンビニで買ってきたような出来合いのおかずとチンご飯で飯を食い、それをかなたさんとつつき合っている様子が多い。どうやらかなたさんが子どもを放置するのは良くないと言ったらしい。それは二人の会話から読み取ることが出来た。「まだ子ども小さいんでしょ」と言うかなたさんに親父は「そうかもな」と曖昧な返事をしながらかなたさんに身体をなすつける。その様子がどうにも腹立たしくて見ていられず、俺はアパート前の空き地で本を読むことが増えた。小学校の図書室で借りてきた本はたまに落書きがあったりして、またそれが苛立ちを募らせる。
 
 瞼の裏にまで二人の寄り添う姿が焼き付いていて、腹の底から酸味が膨れ上がって口の中で爆発しそうになっていた。何度もそれは繰り返し繰り返し膨れ上がり、せり上がる。だというのに、初めて見たかなたさんのぎこちない微笑みがどうしても脳裏に過ぎって仕方ない。
 
「恵くんって言うの? よろしくね」
「……はい」
 
 まともに交わした会話はそれくらいだ。だというのに、その言葉が脳に満ちて、同じ声が何度も俺を呼ぶ。恵くん。恵くん。親父にそうやって甘い声を出すように、俺の名前も甘やかな響きを纏わせて呼ぶ声が頭を巡る。思わず「好き」と呟いていた自分にハッとして、目の前の本を閉じた。夢枕獏の『陰陽師』が上下逆さまなことにやっと気付いたのである。集中出来ていない。もうずっと、出会ったその日からずっとだ。
 
 アパート前の空き地と面した窓際は二人の城と化していたから、カーテンが掛かっていなければ外から二人の様子が後ろ姿で覗くことが出来る。それすら見たくなくて地に視線を落として文字を追っている日々だったのに、遂に今日それを見上げてしまった。
 
 つい、出来心だった。今かなたさんは何をしているだろう。親父とどんな会話をしているのだろう。それだけの事だったのに、窓に映るかなたさんの映る後ろ姿が上下に揺れていて思わず目を奪われる。白い背中の半分ほどまで見える角度の窓に背を預け、窓ガラスを上下に擦り上げていた。一糸まとわぬ姿を容易に想像する。窓に擦れる度に痛みの知らない髪が乱れて広がっていっていた。その一本一本を目で追う。その頭に影が掛かると、かなたさんのやや上の位置に親父の顔が映った。平常時より赤らめた顔が上下に動き、それはかなたさんの動きとリンクしている。
 
 その時、ランドセルに入れっぱなしの保健の教科書を思い出した。男性器と女性器がそれぞれの性別にはあり、その凹凸を埋めることを性行為という。その行いの果てに俺のような命が生まれるらしい。俺が見上げたモナ・リザは俺の親父と新しい命でもこさえていると言うのだろうか。ついに腹の底が爆発した俺は口元を抑えたが、すぐに半液状の吐瀉物は指の隙間から溢れて地面を汚した。汚らしい音に美しい「恵くん」の声が重なる。ふつふつと湧き上がる嫌悪感は怒りだ。脳内で「恵くん」の声が何度も途切れ、再生され、また途切れを繰り返す。
 
 アンタが親父なんかとセックスするから。
 アンタが俺の前なんかに現れたから。
 アンタが俺のモナ・リザに見えてしまったから。
 
 美しいモナ・リザが白濁に穢されていくことを、
 そんなことを世界が許していいのだろうか。
 心の片隅でもう一人の俺は呟く。
 
『オマエが許せないんだろ』
 
 
 どれほどそうしていたのだろう。白かった陽光は赤みを孕んで傾き、俺の身体の半分は影に沈んでいた。吐瀉物の臭いが漂っていて顔を顰める。何分、もしかしたら何時間もただぼんやりと四角い窓を眺めていたかもしれない。
 
 すると、何事もなかったかのように親父が部屋の扉からのっそりと姿を現した。握りこぶしの中には小銭が握られているのだろう。何かを買いにコンビニでも行くのだ。コンビニは家から徒歩一〇分にも満たないような近所にある為、すぐに帰ってくるだろう。その頃には友だちの家に遊びに行っている津美紀も帰ってくるかもしれない。そうして俺が何も見ていなかったことにすれば、再び親父とかなたさんの城が出来上がって、その城下町のような荒んだ土地で丸くなって眠る。そんな生活を今後も続けていくのかと思うと目眩がした。くらりと脳みそが揺れる。
 
 俺はふらりと部屋に戻ろうと玄関の扉の前に立ち、少しだけ思案した。このままでいいのか。茜色がドアノブを握る俺の手を染めた。赤く染まる。数秒そのまま考えていると、やはり脳内には「恵くん」という声が蘇る。その声が俺の背を押して扉を開けさせた。扉を開けると玄関から既に癖のある生臭い匂いがしていて、小さく呼吸を止めた。靴を脱いでから並べ、台所にある換気扇を回す。ガタンと音がして玄関横にある換気扇が重い音を立てて回り始めた。その様子を少し見てから、呼吸を再開する。少しは匂いがマシになったことを確認して奥へ進むと、そこにはキャミソール姿のかなたさんが陽光を浴びながら眠りに落ちていた。
 
 片腕を枕にして、膝をやや曲げた姿勢は津美紀の寝姿に少し似ている。子どもみたいだ。しかしその子どものような寝姿はどこか艶やかで、肩紐のズレたキャミソールからはなだらかな曲線を描いた手足が伸びやかに溢れていた。足の付け根には薄い布切れが纏わせてあり、それが下着だとすぐに気付いて顔を背ける。白色の光沢のある下着が瞬きの合間、たった一瞬の間に瞼の裏で再生された。かと思えば、先程の上下に揺れる背を思い出す。
 
 かちりと脳内で感情のスイッチが入る音がした。めらめらと揺れる怒りは激情で、嵐の海のように自分を飲み込んでいく。俺は台所の棚から包丁を抜き出して、目の前の美しい肉の塊に近づいた。近付くだけで足元に柔らかい温度を感じる。穏やかな寝息は先程まで濡れて、熱いものを飲み込んでは吐き出した器官を通っているはずだ。俺のモナ・リザなのに、どうしてこんなに淫らでいられるのだろう。こんなに淫猥でいいわけがない。いいはずがないのだ。
 
 陽光が勢いよく沈んでいく。沈む直前の最後の光は花の散り際のように美しい。その美しい一瞬に白い光が鋭く世界を走った。




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