耳をすませて


 手首に刃を突き立てる理由も、死を誘引させる劇薬を食道に流し込むのも、それは諦観がちらついて痛くて仕方ないときに起こる。素知らぬ人はそれを《かまってちゃん》だとか《被害者ヅラ》なんて言葉で揶揄するけれどそうではない。決してそうではない。少なくとも私の場合は違う。幼馴染である夏油傑を泣かせてやりたいとか、親を困らせてやりたいだとかそういうことは一切抜きだ。ただ私の中を駆けずり回る夢想が私を殺し続けていて、心も肝臓も一緒くたに叩き潰していくものだから仕方なく、私はその痛みを誤魔化すために更なる痛みに手を出すしかないのだ。それしかない。その選択肢しか私にはない。
 だから、幼馴染がその両親を殺している場に出くわした時には一瞬痛みが途絶えた。痛みとはなんだったのか思い出せなくなった。混乱する水晶体はただ赤だけを映している。
 
「……やあ、〇〇。今日も顔色が悪いね」
 
 何が起きているのか理解出来ない。日頃、自分が殴られた後に見る赤は見慣れている。親や同級生に罵倒され、蔑まれ、見下され、その度溢れる痛みを伴う赤は見飽きたくらいなのに他人の赤は見慣れていない。自分とは随分違うものなんだな、なんてよく分からない思考が頭を巡る。私の幼馴染はこんな風に笑う男だっただろうか。
 
 幼馴染は変わってしまったのだろうか。
 そう思うのは初めてのことではなかった。
 
 
「〇〇は僕にどうして欲しいんだい」
 
 まだ幼馴染である傑の一人称が僕だった時代、傑はよく私にそう問うた。決まってそれは私が痛みに蹲っている時で、皮膚ごと剥がれて落ちるような大粒の涙を落としている時のことである。そもそも望まれて生まれた訳でもない私が「変なものが見える」なんて言ってしまったものだから、世界の私に対する冷遇は決まってしまったと言ってもいい。それ以来耳鳴りが止まらなくて、常に周囲の鋭い視線が刺さり続けた。観察されている。常に一挙手一投足を監視され、一ミクロンでも間違いがあればそれを待っていたように罵倒の嵐が現実にも脳内にも起きていた。そんな中で唯一、人間らしい言葉を口にするのが分かるのは傑だけだ。傑はいつも私を馬鹿にする同級生から私の腕を引っ張って遠ざける。皆傑に嫌われたくなくて、傑の前では良い子になる。張りぼてな癖して、まだ子どもの私たちからしたらまるでヒーローだ。そんな生活を繰り返していて、傑がよく口にしたのは「どうして欲しいのか」だった。私は答えられない。どうして欲しいなんてものはないのだ。痛いのは嫌だと分かる。叩かれるのが痛くて嫌なのは分かる。寒空の下、家の中に入れてもらえないのが寒くて痛いから嫌なのは分かる。でも、今傑に何をお願いすればいいのかが分からない。だから私はずっと「分からない」と答え続けた。毎日、毎日そのことの繰り返し。傑との逢瀬は束の間で、それ以外はずっとどこかが軋んで痛い。人の声も視線もずっと痛い。どこかに捨ててきてしまってよと絶叫する母親の金切り声も随分聞き慣れたはずなのに、やっぱり痛い。人間には生きる術として『慣れる』というものがあるはずなのに、人として扱ってもらえない私にはその機能が悲しくも欠けていた。だからずっと痛かった。親や同級生の家畜として、ストレスの捌け口として生きるのは痛くて仕方ない。せめて人間になれれば『慣れる』ことが出来たのかもしれない。良いな。人間になりたいな。そう考えているうちに、立派な人間として遥か前方を歩いていた傑は東京高専とかいう高校に入学するらしいことを傑本人から聞いた。私たちと同じように見える側の人間が集まっているらしい。そのことを興奮気味に話す傑のことを眩しいなと思って目を細めた。どう生きるか決めたらしい傑は、私の腕じゃなくてどこか知らない人間の腕を引っ張って生きていくことに決めたらしい。変わってしまった、と思う。きっとそれは良い変化なのかもしれない。こうしてボロ雑巾のような私のことは忘れてしまって、そのまま人間に囲まれて生きていくのが傑にはお似合いだ。「だから」と何かを言いかけた傑の言葉を遮って「行ってらっしゃい」と呟いた。暫しの無言。その一月後に傑が家を出ていくまで言葉を交わすことすらなくなっていた。そんな傑で良かったと思えたし、同時に死んでしまえとも思った。本当に私の腕を引っ張ってくれる人は最初からいなかったのかもしれない。傑も幻想だったのかも。私の耳鳴りが生み出した幻聴だったのかも。そう思って痛い生活を続けていたというのに、ある日たまたま陽光が眩しくてカーテンを広げようとした時に隣人の家に暫く見なかった姿を見た。思わず足が私の部屋を飛び出して階段を駆け下り、縺れる足に転びそうになりながら家を飛び出した。家を飛び出すだなんて何年ぶりか分からない。そのまま倒れ込むような勢いでお隣の家に吸い込まれていった先にあったのは赤。赤。
 
「顔色悪いよ」
 
 傑はもう一度言う。蛇口でも壊れたんじゃないかと思うような量の赤が床に広がっていき、何とも言えない顔の私が映っていた。そのまま視線を下げると私の手首に残る赤黒い痕跡より鮮やかな赤が私の足を汚す。爪先を動かすとぴちゃりと音がした。甘酸っぱい香りも嗅ぎ覚えがある。
 
「……傑」
「君の両親も殺すよ。いるんだろ」
 
 何で私は頷いているんだろう。どうして今更、私の両親すら殺すなんて言っているのだろうか。理解が出来ない。いや、頭がほんと少しだって動かなかった。殺されるかどうかなんてただの言葉で意味があるように感じることすら出来ない。ただの音だ。私が石のように固くなっていると血塗れの傑は私を振り向く。にこりと微笑む顔は昔と違う。やっぱり変わってしまったのだ。
 
「もっと早くにこうするべきだったんだ。……〇〇」
「……なに」
「君はどうして欲しい?」
 
 傑は私になんて言って欲しいんだろう。正解が分からない。その時頭に浮かんだ一言は「たすけて」だった。馬鹿らしい。「たすけ」なんてものはエゴだ。自分がそれらしい事をしたいだけの他人の巨大なエゴの塊の言葉だ。だのに、そんな言葉が頭を巡る。私は、まさか、そんな。ずっと傑に助けて欲しかったのだろうか。口が動く。
 
「……たすけて」
「いいよ」
 
 やっと言ったねと笑った傑の顔に跳ねた赤が鮮烈だった。
 あ、痛くない。




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