主を信じ、隣人を愛せよ


賛美歌が聞こえる。ぼんやりと血溜まりの中心に立ちながら、窓を僅かに揺らす歌声が耳元を通り過ぎていった。天高く上る清らかな歌声に、思わず口元だけがその音をなぞる。

「Amazing grace
how sweet the sound」

重苦しい赤に染まりながら何を歌っているのだろう。ぽたりぽたりと天井から滴る赤が波紋を打ち、落胆した私の顔を乱した。ふと癖で頭に触ろうとした手を一瞬上げてから、そっと下げる。髪に血が絡むと取るのは厄介だからだ。血の跳ねた黒いブーツを数秒見つめてからその部屋をそっと出る。ずっと室内に響き渡るアメイジング・グレイスは、教会のすぐ隣にあるアパートの惨劇など露も知らず、煌々とした陽光を纏いながら清廉な歌声を世界中に広げていた。ここでまた人が死に、そしてまた助けらなかった人がここにいるというのに。皮肉である。

呪術師は常に行動が後手に回る。それが私にとって何より嫌なことだった。どれもこれも気付いた時には遅い。私たちに神の手は伸ばされないのだから、自分たちでどうにかするしかないのにその繰り返しだ。死体に集る呪いを祓って、祓って、祓っての繰り返し。遺体を運んで、片付けて、焼いての繰り返し。その先に何があるというのだろう。

神様がいるだなんて思っていない。
呪術界のおいて、神のごとく降臨しているといえば五条悟かもしれないが、それだって傷つくことのある人間だ。傷なんていう物体の話ではない。親友を失って以来、その崇高なまでの能力は遺憾無く発揮されていても、五条悟という人間の発言の端々に夏油傑という存在を感じざるを得ない。五条悟は人間だ。私はそう思う。彼が教育を選んだのも、「もう誰も独りにはしない」という小さな、確固たる覚悟がそうさせている。彼を化け物だと言う人は多いが、私にはどうしてもそう思えなかった。彼の狂気すら感じそうな一途な人間性は普段、あの軽薄な態度に巧みに隠されているけども、昔を知る人間からすれば、それすら痛みに感じる。その痛みが鮮烈な閃光となって輝いていた。
きっと、そんなことを言う人間も僅かなのだろうけど。

ふと、右ポケット内でスマホがぶるりと震えた。咄嗟に血のついた手で画面を開くと、スマホの画面には非通知の3文字。一瞬出るのを躊躇うが、親指は私の意思と関係なく通話ボタンを押していた。繋がった瞬間、音質の悪いアメイジング・グレイスが流れ始める。

「やあ、かなた。また人を救えなかったね」
「……夏油がやったの?」
「いや、私は呪霊を集めようと馳せ参じただけさ」

わざわざ嘘はつかないだろう。私の噛み締めるような「ふーん」の声の裏で賛美歌の曲が変わった。『Nearer,my God,to three,Nearer to three!』は聞き覚えのあるフレーズだ。何だったっけと思っているうちに夏油はぺらぺらと話し出す。

「いい加減、君はこちら側に来たらいいのに。君は感じているんだろう、非術師を守るという言葉の限界に。君たちはいつも後手後手だ。なのに、そんなことに命を散らせる仲間も多い。無駄だとは思わないか」

筋の通っている話だとは思う。夏油のしようとしていることは認められなくても、元々言っていることは原因療法に近い。それはきっと長い道程で遥かに高い壁を上ることにはなるだろうが、そういう道を志す人間がいても不思議ではない。夏油はその道を偉んだというだけだ。私は、と小さく呟く。夏油と私の声の隙間を賛美歌の白々しさが埋めていく。

「私は、さ。五条を信じたいんだよ。夏油のことがあってから色々考えた。その結果選んだ、誰も独りにしない教育という道を信じたいんだよ」

響く賛美歌の音色が夏油の唾を飲む音をかき消した。持ち歩いているもう1つのブーツに履き替え、血塗れのブーツを鞄の中に仕舞い込みながら夏油の返答を待つ。そのまま夏油は何も言わなくて、私はそのままアパートの外付け階段を降りていく。低めの金属音がブーツのヒールとぶつかる度に響くが、賛美歌の合いの手にも聞こえた。アパートの前の細い道路を教会の方向に見ると、20メートルほど離れたすぐ先にぽつんと立っている公衆電話ボックスの中には坊さん姿の男がギュウギュウに詰められていた。せまっくるしいだろうに、わざわざ公衆電話を選ぶ親切心を思う。わざわざ自分の場所を知らせるような手段を取るのは、夏油が元々持ちえている卑怯さというものだ。たっぷり数十秒そうして相対していると、鈍いブザー音が鼓膜を揺らす。

「……もう時間切れみたいだ」
「うん」
「君は、」
「うん」
「死ぬなよ」

もう一度「うん」と返事を出来たか自信がない。すぐにガチャンと電話の切れる音がして、見たことのない呪霊と共に夏油は姿をくらませた。その様子を見てから、衣服に跳ねた赤い血を見遣る。それで良かった。そう、思いたい。

信じるものは救われる。

その言葉が脳内に浮かんだのと、賛美歌の声が止んだのは同時だった。
信じたいのは五条悟で、愛していたのは夏油傑だと知っているのは私だけでいい。ポケットに汚れた両手を突っ込んで夏油の消えた道とは逆の道を歩いて帰った。




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