きみにわたしは


赤い衝動が胸を貫いた。
ぐらりと崩れる身体に力を入れてなんか堪えたものの、震える膝に後押しされて結局地面に崩れた。足元には潰れた空き缶が転がっていたが、視界が揺れてまともにパッケージの文字を追うことが出来ない。
激しく跳ねる心音が私を揺らしている。胸から入り込んだどくんどくんと巡る衝動は、カラカラに喉の水分を徹底的に奪っていく。苦しい。喉が焼けているかのようだ。ふらふらしながら暗闇の路地裏からのっそりと立ち上がって這い出す。

深夜の任務帰り、追った呪霊は街中の路地裏へと走り去り、それを追い掛けたところだった。呪霊の等級は1級。そのままごくりと飲み込んだところまでは良かったのだが。喉が渇く。吐瀉物を拭いた雑巾のような味さえ砂のように渇いて消えていくことが不思議で、私の心だけが困惑していた。

壁を使ってゆっくり歩く。幸い、周囲に人はいない。臓器が深く悲鳴を上げている気がする。しかし、私にどうしろと言うのだろう。ふと、目に光が入る。深夜の道を照らす煌々とした機械的な明かりは自販機だ。助かった。震える手で百円玉と五十円玉を入れ、水をアクエリアスの下にあるボタンを押す。ガコンと重めの音がしたかと思えば、性急にそれを取り出して喉へ流し込んだ。いや、流し込もうとした。スポーツ飲料は渇いた身体によく染みるだろうと思われたが、1口、舌にスポーツ飲料独特の甘みが触れた瞬間に激しい嘔吐感に襲われる。ろくに胃液すら出ない身体が激しく上下した。咄嗟に口を抑えるとアクエリアスはとぷりと冷たいコンクリートの上に広がっていった。肩で息をする自分の身体に触れる。
一体何が起きているんだ。

結局喉の渇きは増す一方でゆらりと身体を振りながら歩いた。息がしづらい。身体に力が入らない。遠心力だけを頼りに歩くような状態を誰かに見せたくは無かった。なるだけ早く高専に帰って、自分の部屋に。そう思った時、喉がごくりと鳴った。

「……かなた、」

彼女の顔を思い出したからだった。かなた。最近付き合いだしたばかりの彼女は今日の帰りを私の部屋で待っていると言っていたのである。会いたい気持ちがぐらりと揺れて自分に満ちていくのが分かる。しかし、こんな姿は見せられない。

ふと、視界の外でバサバサと羽音がする。見ると黒い影が小さく動いていた。どうやら道に落ちているゴミを啄く烏のようだ。濡れたような羽がしっとりと闇に溶けている。
また、彼女の顔が脳内にチラついた。
ああ、かなた。
会いたい。会って、細い首に噛み付いて吸いたい=Bそう思うのと、自分より幾分も小さい烏の首を掴んだのはほぼ同時だった。烏の苦しげな声と激しい抵抗の羽音だけが暗闇に反響している。どくり、どくり。喉の乾き、彼女の顔、力の入らない身体、そして目の前の生き物。気付けば烏の首と羽の境に噛み付いていた。暴れる烏の身体を力づくで押さえ込み、バタバタと動く羽の下に歯を入れる。容易く入った。そうしてごくりと喉が鳴る。血だ。血だ。上手くも不味くもないが、渇いた大地に降り注ぐ雨が染み込んでいく。私は羽を千切り、その皮膚に更に歯を立てる。吸う。赤が身体に満ちていく。スポーツ飲料を拒絶した身体はゴミを漁る生き物の生き血を受け入れていた。

ぼとりと手元から烏が落ちる。空の雲間が裂けて、月明かりが私を照らした。赤色が鮮やかに暗闇に浮かぶ。ぽたりぽたりと口元から滴る赤を袖で拭った。血の匂いはこうだっただろうか。花の匂いの柔軟剤みたいな香りがするじゃないか。

いつまでも絶命した烏の前で立ち尽くすわけにはいかない。足はしっかりと地面に立っていた。どうやら血のお陰で少しは身体に力が入るようになったらしい。飛行用の呪霊はすんなりと現れた。術式に影響はないようだ。私はそれに滑り乗り、そのまま高専に戻るべきか悩む。悟に見てもらうべきだろう。でなければ、この状況が何なのか分からない。悟には無下限もあるし、私から身を守れるだろう。まるで人間を襲うようだな、と自嘲したが、夏の暑さをまるきり感じていないことに気が付いたのは高専の建物の前に立った時だ。深夜とは言え、じわりと汗をかきそうなものだが、それがない。その上、私は建物に入れない=B入ろうとしても身体が言うことを聞かないのである。何度もぶつかっていくが、扉は壁のように冷たく私を拒絶していた。仕方なく、私の部屋の窓際まで外から回ることにする。

彼女は寝ているだろうか。もう遅いのだから寝ているかもしれないが、深夜に1人だとゲームをしていたりするから起きている可能性もあった。外周を回り、見慣れたカーテンが視界に入る頃には再び喉が渇いていた。更に言うなら、先程よりも強い飢渇感があった。肩で呼吸をしないと身体が前に進まない。かなた、彼女に会えれば何とかなる気がする予感は何なのだろう。ずるりずるりと足を引きずって進み、やっとカーテンの前に辿り着くと、カーテンが大きく揺れていた。窓は開いているようだ。私が入るくらいの広さは充分ある。そこに触れる。が、やはり私はそこから内側に入ることが叶わない。くそ、と小さく毒づいた。どうしたらいいんだ。先に悟に電話するべきだろうか。そうだ、それがいい。そう思ったのに、携帯に触れて指先が押したのはかなたの名前だった。
『もしもし?』
眠気が織り交ざった緩い返答に思わず頬が緩む。と同時に赤い衝動が脳を揺さぶった。渇いた喉から唾液が垂れそうになる。頭を振って欲を飲み込んだ。
「……もしもし、すまない。寝てたかな」
「ううん、起きてた。帰ってくる?」
「今、窓の前にいるんだ。出てきてくれないかな」
窓の前?と彼女が驚きながら私の言葉を繰り返した。数秒もしないうちに、カーテンは捲られてそこから彼女の眠たげな顔が現れる。緩めのTシャツに髪は少し乱れていた。可愛い。しかし、可愛いと思えば思うほど、呼吸が苦しい。喉が裂けてしまいそうだ。
「なんでここにいるの?」
「少しね。悟を」
ここで言葉が出なくなる。悟を呼んできてほしい、そう思っているのに、口は別のことを言いたくて仕方ない。彼女の可愛らしい顔の足元で死に絶えた烏の姿が見える気がした。
「……いや、なんでもない。私を部屋に入れてくれるかな」
「それはいいけど、中に入れば?」
「招いて欲しいんだ」
「え、どうぞお入りください?」
「ありがとう」
彼女の言葉を聞くと、すんなりと自分が部屋に入ることが出来た。まるで魔物だ。昔小説で読んだ魔物は家人に招かれるまでは室内に入ることが叶わない。まるで、それだ。私は一体どうなってしまったのだろう。

室内は彼女の甘い香りに満ちていた。シャンプーやボディーソープの香りはこれほどに強い香りだっただろうか。喉が痛い。
そんなことを知らぬ彼女はTシャツにショートパンツというスタイルで、柔らかな皮膚をさらけ出していた。乱れた髪の隙間から白い項が覗く。肺から溢れ出す熱を帯びた呼吸が重い。その重さに肩を揺らすと、何があったのかと彼女は瞳を揺らしながら私に近付く。
「……体調悪い?硝子呼んでこようか?」
「……いや、いいんだ。少し休みたい」
「とりあえず座りなよ」
うん、と答えたような気がする。しかし既に私の意識は半分闇に溶けていた。軋むベッドの端に腰掛けると、私の右側にぴったりとくっついてかなたが座る。甘い香り。でもしつこすぎるような甘さではなくて、彼女らしい爽やかな香りだ。

息を吸う。身体に満ちる香りに胸が踊る。ああ、もっと嗅ぎたい。もっと。もっと。するとすぐに彼女の口から困惑の声が漏れた。私を止めようとしている。それは分かっているのに、それでもどうしようもない身体が私の言うことを聞かない。柔らかな彼女の髪を掬い、さらけ出された首に鼻を寄せる。鼻先に当たる柔肌は白く、この下に鮮やかな赤が巡っているのかと思うと下半身がジンと熱を持った。その居心地の悪さに一瞬意識を持っていかれたが、首に擦り寄る私を甘えていると彼女は思ったのか、やがて彼女の細腕は私の首にまわった。体温が溶け合う。
「よしよし、お疲れ様、傑」
蜂蜜のようだと思った。重さのあるもったりとした甘みだ。身体に染みるというよりはまとわりつく。すん、と鼻を鳴らせば甘い香りは強くなっていた。ああ、ダメだと歯を食いしばって彼女の肩を押そうにも、彼女の細腕はしっかりと私に絡みついている。脳が揺れる。
ブレる。
烏の死骸と彼女の笑顔がブレて見えた。いけない。
ダメだ。
だのに、彼女の小さな手が私の頭を撫でる。プツンと切れる音がした。頭の中で随分小さくなった私の理性は未だに「ダメだ」と頻りに叫んでいたが、立てた歯は素早く彼女の柔肌へと沈んでいた。ぶつりと肉の表面が割ける音がする。彼女の処女膜を割いた夜を思い出した。
「いっ!あ゛、すぐ……ぃっ」
彼女の手足が烏の羽のようにバタつく。ごめん。ごめん。彼女の小さな身体を私自身の大きな身体で押さえつけ、小さな抵抗しかさせてもらえない彼女の首から蜜を啜った。途端、世界が華やかに染まる。芳醇で爽やかな彼女の赤い蜜は世界をまるきり変えてしまう力を持っていた。こんなに美味しいものは口にしたことがない。母の料理も、悟に連れて行かれた星のついたお店も、全て彼女の足元にも及ばない。じゅるじゅるという音だけが厭らしく室内に木霊していたが、私は感動で泣いてしまいそうだった。常に口の中に居座っていた呪霊の味をも軽く飲み込んでいく。腕の中でぴくりぴくりと跳ねるかなたがこんなに美味しいだなんて、灯台もと暗しだ。暗闇が色を取り戻していくようだ。それはもう夢中で啜った。彼女は甘ったるい吐息を漏らし、それが甘美な毒のようだ。四角い室内に毒が満ちていく。そうすれば殊更、私は彼女の首筋から離れることが出来ない。かなた、好きだ。大好きだ。じゅるりという音で彼女の愛を啜る。

彼女の身体がぴくりとも跳ねなくなっていたことに気が付いたのは、窓の外から烏の鳴き声がしてからだ。カーテンに薄く陽光が当たっている。朝日だ。新しい世界の幕開けだ。私は彼女を抱き締めたまま部屋を飛び出したが、すぐに顔の皮膚から焦げ臭い香りがしたことに私は満たされていたばかりで気が付いていなかった。




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