君という矛盾を抱えて


「私は君を誰より愛しているし、何より憎んでいるよ」
夏油はそう言って、見知らぬ袈裟姿で私の部屋に現れた。驚いている私に向かって適当に整えられた笑顔を向ける。
こんな笑い方をする奴だったっけ。
思わず私は頭の傷跡を撫でた。


夏油傑は同級生だ。もう20代になる私たちは10代後半のたった1年間と数ヶ月を共に過ごした。短い間ではあったけれど、それは私の人生を照らす閃光のような日々である。鮮やかで明るく、思い出す度に笑みが溢れる。宝箱に何をしまうのか問われれば迷わずその1年間をしまっておきたい。私にとってかけがえのない青い春だった。焼き付いた記憶は私を掴んで離さない。しかし残念ながら、それはもう交わることがない。今から5年前、17になる年の夏の少し手前の出来事だった。私は呪霊を視認出来なくなったのだ。


────2006年7月2日。
その日は自分の携帯のアラームでぼんやり目を覚ますと、目の前に夏油の顔があった。たった5センチほどの間には夏油の寝息が充満していて、思わず肩と心臓が跳ねる。閉じられた瞳の睫毛は黒々としていて、長さはなくとも特有の存在感があった。薄めの唇は半開きで、右口端に白い跡がある。爆睡だ。
夏油を起こさないように静かに枕元の携帯へ手を伸ばし、アラームをそっと止める。夏油を見る。規則正しい寝息に合わせて肩が上下していて、そっと胸を撫で下ろした。
はて、どうして私たち2人は同じベッドで胎児のように身を寄せ合って寝ていたのか。少し身体を起こすと、床に枕とタオルケットがぐちゃぐちゃの状態で横たわっていた。
そうだ。夏油の部屋のエアコンが昨夜急に壊れたとかで、五条の部屋に身を寄せれば良かったものの、夏油は私の部屋に来たんだった。枕とタオルケットを持って汗だくの夏油を見たら「いや、五条のところ行きなよ」とも言えず、「床で寝るならいいよ」と言ったのだ。その時点で私はベッド、夏油は床に寝転んでいたはずだが、どうせトイレに立ったあと寝ぼけてベッドに入り込んできたのだろう。よくある話である。
溜息を吐いてベッドを抜け出そうとするが、私の腰に回された夏油の手がそれを許さない。ガッチリとジェットコースターのシートベルト並に私を固定している腕は逞しい。足をばたつかせてみても、腕を掴んで剥がそうとしても、身体を捻ってみても離れる気配がなさすぎる。格闘しすぎてじんわり汗をかく私に対して夏油は未だ夢の世界をお散歩中だ。穏やかな顔しやがって。なんだかむしゃくしゃした私はいい加減起こしてやろうと夏油の肩を揺らす。しかし起きない。んがんがとよく分からない寝息を立てるだけだ。
「夏油!起きろ!腕どけて!」
べしべしと頬を叩いても無反応。夏油っていつもどうやって起きているのだろう。何処吹く風で眠り続ける姿はまるで眠り姫だ。こんなゴリゴリな身体の眠り姫なんて御免こうむりたいのだが……。
携帯を手に取って時間を確認する。午前中に任務が1件入っている私としては余裕がない。足でゲシゲシ夏油の足を蹴ってみると、寧ろ足を絡め取られ、より拘束が強まる。もう手も足も出ない。動くのは顔だけだ。仕方なく夏油の顔に顔を寄せる。
起きたいから、仕方なく。
どうしても起きてくれないから仕方なく。
そう自分に言い聞かせる。
ドクンドクンとボールのように跳ね始める心臓のせいで変な汗がじわりと額の辺りで滲んだ。夏油の息が当たる。温かい。夏油の髪から少しだけシトラスの香り。窓の外から蝉の鳴き声が押し寄せている。

あ。

自分から唇を寄せたくせに、触れる瞬間そう思った。むに、と柔らかい部位同士が触れ合う。夏油の唇は少しだけかさついていて、縦じわが一瞬だけ引っかかった。思わず呼吸を止める。

2秒ほどそうしただろうか。気付いたら目を閉じていたことに気付いて、目をゆっくり開きながら唇を離すと、ばっちり視線がかち合った。私が絶叫すると夏油が機嫌よさげに笑う。
「い、いいいいつから起きてた!?」
「丁度今だよ」
「今って!?」
「唇が触れた瞬間かな」
羞恥で全身が熱い。その上、腰の辺りにあった夏油の腕が私をよじ登って頬に触れてくる。赤いね、なんて。それはそうでしょ。悔しくて奥歯を噛むと、対して夏油は声を出して笑い出す。
「ごめんね。狸寝入り気付かなかった?」
演技派の夏油の腹に1発拳を入れてやるけれど、硬い腹筋はそれを容易く受け止めた。更に夏油はそれに「えっち」なんて言う。訳が分からないまま夏油に籠絡された私はただ夏油の顔を見つめることしか出来ない。
「ねえ」と夏油は言う。
「今月末、2人で花火見に行かないかい」
「……花火?どこ?」
「荒川の河川敷」
夏油が更に顔を寄せてきて、私の首筋に夏油の息が触れた。擽ったさに身をよじる。なのに夏油は更に私の首元に顔を寄せて、犬みたいに擦り寄った。
夏油って彼女でもない女子にこういうことしちゃうんだ。
なんだか悔しいような、悲しいような、虚しいような気持ちが途端に私の足を掬ったのに、私の唇は気付いたら「いいよ」と答えていた。悔しい。でも、私も女子だから分かっていた。これが恋とかいうやつで、足が早くてカッコイイと思った小学生時代の男子なんかよりも夢中になっていること。夏油が私以外の人の首筋に頬を寄せるのは嫌なこと。夏は始まったばかりだということ。
蝉の波は勢いを増していた。


その日の昼過ぎのことだ。私が高専に運ばれたのは。前後の記憶が無い。
私は夏油のせいで任務先へ向かう車に遅刻寸前で乗車して、予定より5分遅れで現着。向かった先は個人経営の病院だった。先代が産婦人科をやっていたらしく、今回そのお孫さんが新たに皮膚科として開業する予定らしい。たまたま近くを別の任務の視察で訪れた窓が呪霊を発見したとのことだった。等級は見合っている。素早く帳を下ろして古めかしい建物に足を踏み入れた。そこで見たものは死体。暫く閉院されていた建物内には複数人のホームレスの溜まり場にされていたらしく、それらしい死体が複数転がっていた。覚えているのはそこまでだ。そこから先は分からず、気付けば医務室の天井を見つめていた。
「……硝子……」
振り絞ったその声をすぐに足音が追う。区切るために広げられていたカーテンを滑らせて現れたのは硝子と夏油だった。
「かなた、大丈夫かい」
「……夏油もいたんだ」
「どう?傷跡はうっすら残っちゃったけど、怪我は治ってるはず」
「あー、うん。大丈夫っぽい。任務どうなった?」
「私が受け継いで終わったよ」
「夏油が……ありがとね」
「いいよ」と答えた夏油の顔色はあまり優れない。何かあったのかと聞かれる前に硝子が言う。
「お前、現場にいた錯乱したホームレスに殴られたんだって。気をつけろよ」
「呪霊じゃなかったんだ」
夏油は何とも言えない顔で私を見つめている。「大丈夫だよ」ともう一度言うと、夏油は笑ってくれたけれど、その笑顔にどことなくぎこちなさを感じた。しかし実際私の怪我は何ともなく、すぐに復帰出来たのだがとてもつもない違和感が私を貫いた。

どこにも呪霊がいないのである。

「未だ脳はブラックボックスだからな。もしかしたら打ちどころが悪くて、呪霊を視認するための部分が損傷してるのかもしれない」
そう言う硝子の勧めで大きな病院の脳スキャンを受けたのだが、結局それが何なのか分からない。どうするべきかというのは私と夜蛾先生の判断に託された。夏油にも相談したかったが、直後、五条と夏油は重要な任務があるとかで不在になっていた。
帰ってきたら言おうと思っているうちに、夜蛾先生の意見は「引退」に傾いていった。術式も自分で感じ取れなくなっていたからだ。五条と夏油が戻ってきたらお別れを言わなければならない。じくりと胸が痛む。
私が高専を去った後、夏油はどうするのだろう。他の女の子と仲良くするのだろうか。この前みたいに首筋に擦り寄ったりするのだろうか。
五条と夏油がいない間、硝子とポテチとコーラを買って小さなお別れ会をした。寂しくて、少しだけ視界が揺れる。こんなに胸が苦しいと思ったのは初めてのことだった。

数日後、再会した夏油の顔は酷いものだった。双眸は揺れていて、眉間には皺が寄り、どことなく表情全体が暗い。思わずたじろぐ。近付きづらくて五条をちらりと見ると、五条は更に近付きづらくなっていた。何だろうか。雰囲気はまるで別人だ。結局、五条にも夏油にもお別れが言えないまま、私は高専を出ていった。


そこから5年が経過している。今年も夏がやってきていて、私の小さなワンルームは近頃蒸し風呂と化していた。偶然今日は仕事が休みで、節約の為に朝から図書室で身体を冷やしながら本を読んでいた。そこからじっくり読みたい本をいくつかピックアップして、5冊の本を抱えて蒸し風呂ワンルームに帰ってきたかと思えば、その部屋はいやに涼しい。クーラーを消し損ねたのかと思えば、部屋の中心には袈裟姿の大きな男が立っていた。
「やあ、おかえり」
振り向く大きな身体。見覚えのある顔。額に掛かっているひと房の前髪。
「……夏油?」
ばさりと本の入ったトートバッグを落とす。遠くで蝉が鳴いている。
「久しぶり。こんなワンルームで慎ましく過ごしているんだね。呪霊がうじゃうじゃいるじゃないか」
「……私、見えない、かな」
「ああ、そうか。今は猿になってしまったのか……残念だな」
猿?
人を見下すような単語に思わず眉が寄る。夏油は尚も笑顔だが、こんな笑い方をする男だっただろうか。緊張感がワンルームの中でとぐろを巻いている。ひやりとするのは本当にエアコンの風なのだろうか。
「私は君を誰より愛しているし、何より憎んでいるよ。世界で1番愛しているものが、憎んでいるものと同じだなんて皮肉にも程があるだろう?君がせめてあの時、その目を失ってさえいなければ、私は、猿共を憎み切れるのに。君のせいだ。君の、君が、」
突然一気呵成に語り始めた夏油は途中から頭を抱え始め、思わず私はそんな夏油に走り寄る。触れる直前、夏油は1歩後ろに下がった。
「触れないでくれ」
「でも」
「私はもう君を愛せないんだ」
言葉に一貫性がない。その揺れる瞳はあの時、話し掛けられなかった双眸とよく似ている。私では何に夏油が苦しめられているのか分からないが、でもあの時からずっと、ずっと苦しんでいるのだろう。
「愛してる。いや、憎い。会いたくない。もう2度と会う気はなかった。なのに、君が。君のせいだ。嫌いだ。死んでくれ、どうか、私の為に、生きて、どうか、私の手の届かない所へ逃げてくれ」
そう言って夏油はとうとう1歩踏み出し、あの日のように私の首筋に顔を埋めた。息が当たる。あの時と同じ温度なのに、どうしてこうもあの時と違うのだろう。どうしていいのか分からず、私は夏油の太い首に手を掛けた。




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