愛し


 想像していたよりずっと、呪術師と呪詛師の垣根というものは深いが高くはなかった。地中に埋まった見えない部分はどこまでも深く、かと言って他から見える部分での類似点は多い。ただ、「他の為に力を使う」のか、「己の為に力を使う」のか。その些細で瑣末な一線を右に行くか、左に行くかの差しかない。その一線の上には彼女が立っていた。
 細い指が線を指さす。
 どちらに行くのか、そう問われている気がしていた。
 そんな夢を一年ほど、毎日見ている。
 
 
 頬にひやりとした感覚がして、黒い視界に室内を映した。手を伸ばすと指先が濡れた。かなたがその先で笑っている。隣で眠っているのかと思っていた彼女はすっかり温かいベッドから抜け出していた。
 
「おはよ、朝だよ」
「……おはよう」
 
 まだ明瞭なカタチを持たない身体に鞭を打ってゆっくりと身体を起こした。彼女の持っている冷たい水のペットボトルを受け取り、水を喉に流し込む。
 今日は暑いらしい。
 結露がペットボトルの丸みから滴っている。
 
 知らぬ間に火照った身体に流れていく水はひどく異質で、臓器に届くまで身体を巡る冷たさがよく分かる。水を一口、また一口流し込みながら横目でちらりと彼女を見遣った。
 カラカラと乾いた音を立てながら室内を器用に移動している。背の低い彼女の背がもっと低くなってからもう一年経過しようとしていた。
 
 私がベッドから立ち上がってのそのそと近付くと彼女はわざと背を向ける。それが少し前まで悲しかったというのに、すっかり私は慣れて手押しハンドルを掴んだ。
 
「今朝の朝ごはんは?」
「大根と油揚げの味噌汁、昨日焼いておいた鶏の照り焼きとサラダだよ」
「美味しそうだ」
 
 そこまでしなくていいのに。
 
 そう言いそうになった言葉を笑顔で飲み込む。彼女の作る食事は美味しいのに、言葉はひどく苦かった。私の好みの塩梅である味噌汁、甘すぎない照り焼き、私が好きな野菜ばかりが入ったサラダに私の好みのドレッシング。彼女には彼女の好きなようにして欲しいと言っているのにいつもこうだ。私の好みにばかり合わせて、自由の効かない身体を早朝から動かす。大変だろうに、彼女はそれを譲らない。
 
 そんなことを枝豆を噛みながら考えていると、テレビを見つめている彼女が沈痛な面持ちで奥歯を噛んでいるところが見えた。私もそれに合わせてテレビ画面を見る。キャスターは事件のあった駅とテレビ局を繋いでおり、凄惨な事件のあらましを報道していた。凄惨と言っても、たまにある事件の範囲だ。
 
 それに呪術師という職業の性質上、死体は見慣れている。彼女も元々呪術師だったのだから同じだ。それでも彼女は悲しそうな顔で文字を追っている。
 
「痛かっただろうね。辛かっただろうな」
 
 私は小声で「そうだね」と答えた。何も感じていないだなんて言えない。彼女のそういう優しい部分が麻痺されていかないところは誇らしかったが、濁らない優しさに違和感を感じていた。どうして非術師にそう思えるのだろう。彼女は続ける。
 
「人を大事に思ってる時の気持ちでずっといられたら、きっと誰かを傷つけることもないんだろうな」
 
 そうだろうか。
 味噌汁を啜るフリをして私は黙り込んだ。
 
 人間は都合の悪いものにモザイクをかけて、いつだって自分都合に生きている。全ての人間は自分本位で生きているというのに、彼女だけがすっぱりとその世界から断絶されていた。それは彼女が私の横で笑っていることが何よりの証拠である。
 
 私はいつも通り洗面台から持ってきたブラシで彼女の髪を梳く。時折、彼女が望めば好きな髪型にも結ってやる。私はあまり器用ではないから最近は動画サイトを見て密かに練習したりもしていた。それに合わせて髪型が変わる彼女は嬉しそうにころころとよく笑う。今日も彼女は笑いながら一日のスケジュールを楽しげに話している。笑い声に合わせて揺れる彼女の背中を見つめながら、ほんの少しだけ頬が緩みそうになり、そんな自分が許せず、静かに頬の肉を噛んだ。
 
 
 彼女が歩く脚≠失ったのは一年前、私たちが三年生の夏のことだった。
 その当時私たち同級生四人は散り散りになり掛けている最中だった。と言ってもその事に自覚があったのは私だけで、その予感を精々感じているのは彼女くらいのものだったと思う。彼女はよく周りを見ていて、元々心優しい性根も手伝って私の変化に妙に目聡い。硝子は時折、そんな私たちを省みるような視線を向けたけども、悟はいつも通りだった。
 
 悟に見て欲しいものがあると言われ、渡り廊下の端に集まった私たちが見たものは悟の最強ぶりである。術式のフルオートを四六時中、反転術式も同時に行うことで脳へのダメージを減らしながら効率的に呪力を巡らせるだなんて、誰が考えたことだろう。
 
『最強の私』なんて考えたことはあったけれど、そんなものよりずっと先にあるものが容易く目の前に広げられていた。光陰の差が明らかだった。たった数メートルの距離に走った亀裂は深い。
 非術師を当然のように助ける呪術師。当然のように消費されていく仲間たち。そして、そんなことも知らない非術師たちは今日も呪いを撒き散らしながらのうのうと生きている。それを許せない私。気にしない悟。
 
 その頃には私は既に食事と睡眠がままならなくなっていた。最後に口にしたのはかなたが握ったおにぎりだっただろうか。それも数日前だ。笑顔の仮面を懸命に貼り付ける。すると理子ちゃんの「嘘つきの顔じゃ」という言葉が蘇った。そうだ。私は嘘つきだ。よく分かったね。
 
「傑」
 
 その言葉に振り向く。
 
「少し抜け出しちゃおうよ」
 
 頷かない私の手首をかなたが掴もうとして咄嗟に腕を引く。私の拒絶に近い反応を見ても彼女は驚くでもなく、数秒見つめてから私の制服の裾を掴んで歩き出した。その後ろ姿を見て思う。彼女も少し痩せた。その証でもないが、私と彼女だけが制服を着込んでいた。
 夏の燦々と降り注ぐ痛いほどの光。それを必要以上に吸収する喪服のような学ランに身を包んで身体を大きく見せる。
 
 彼女は理子ちゃんの件を知らない。等級の違う任務だ。それも重要な任務ということもあって、ごく一部の人間しかそのことを知らない。彼女はそのごく一部以外の人間である。けれど、あの一件以来彼女はよく私の腕を引いた。私が断ろうと腕を振り払おうと、それでも彼女は笑いながら私の腕を引き続けた。
 
 意味が分からない。彼女だって前に任務先で酷い罵倒を受け、怪我すら負ったことがあった。当時の私はそんな奴もいるのかと思ったものの、実際の深刻さに気が付いていなかったのである。今の私なら間違いなく殺意を抱くことだろう。兎にも角にも、そんな彼女に私は腕を引かれたのだ。なぜだか泣きそうな顔をした彼女が懸命を私の腕を引く。近頃は私より幾分も小さい彼女の背中ばかり、見つめている気がする。高専の門の辺りはいつも人気がない。その影で彼女が足を止めた。振り向いた彼女の瞳はコップいっぱいの水のように、零れ落ちそうだ。
 
「酷い顔だよ。どうしたの?」
「君こそ泣きそうな顔しているよ。何かあったのかい?」
「質問に質問で答えないでよ」
 
 尤もな答えだった。じわりと滲む汗と過ぎる手の音。私は「夏バテだよ」と答える。悟にもそう言った。嘘ではない。全てではないだけだ。その私の言葉に彼女は更に眉を寄せた。
 
「辛そうだよ」
「……そんなことないよ」
 
 私は。私はそうだ。辛いのは私じゃない。
 
 フラッシュバックするのは赤。
 そして手を打ち鳴らす袖の白。
 いとも容易く私を圧倒する黒。
 
 私の唇は言う。「平気」だと形取る。
 
「泣いてもいいんだよ、傑」
 
 ちくりと胸が痛む。途端にどろりとした黒い粘質の半液体が怒りと口惜しさを乗せて体内に満ちていく。どろり、どろり。
 彼女の声が遠ざかる。もう何を言っているのか聞こえない。小さな手が懸命に私の手を掴んでいたのに、私は、車道に向かってその彼女を突き飛ばしてしまったのだ。
 
 その直後のことだった。彼女の身体を巻き込んでトラックが路面を滑っていったのは。
 混乱している頭の中で分かったのは、彼女の下半身がぐちゃぐちゃになっていることだった。
 
 すぐに硝子が処置したこともあって一命は取り留めたものの、下半身不随。彼女の脚がどれだけ細くなっていっても、脚の感覚が戻ることはなかった。誰も私を責めなかったが、それが尚更自分に対する嫌悪感が増した。脳が弾け飛ぶかと思った。実際、弾け飛んでしまえたら楽だったのに。そんな考えがぐるぐると巡り、とうとうどんな言葉も浮かんで来なくなってきた頃に彼女から一緒に住もうと申し出が来た。私は断れない。彼女の脚を奪ったのは、私だからだ。
 そんな醜い私に彼女は微笑みかけ、毎日私を腕の中に閉じ込めて彼女は眠っている。
 
 
 今はそんな彼女の車椅子を押している。彼女は今は補助監督の更に補助である事務作業を高専内でしていた。呪術師を続けたいなどと宣う彼女に夜蛾先生が与えた仕事である。彼女はよく働く。あくせく動き回り、五体満足な人間より積極的に働いている。去年の秋に私が見つけてきた双子の姉妹は今、夜蛾先生の養女となって時折高専内で見掛けるが、それに対しても彼女はよく話し掛けていた。どうやら子どもが好きらしい。
 
 似合うと思う。誰か良い人を見つけて、結婚して、子どもを産んで育てる。かなたに相応しい未来だろうに、それを奪って私は彼女の横に立っていた。そんな私の薄暗い気持ちなぞ彼女は知らず、今日も笑っている。
 
「ねぇ、傑。今日のお昼は昨日安かったレンコンが入ったキーマカレーなんだけどね、絶対美味しいと思うんだよ」
「うん。美味しいだろうね」
「本当に思ってる?」
「思ってるよ」
 
 本当かな〜? と彼女は車椅子を止めて私に振り向く。彼女のご飯は確かに美味しい。ここ一年で食事量が戻ったのは間違いなく、彼女の尽力によるものだ。彼女はそれに気が付いているのかいないのか、よく分からない煌々とした笑顔を向ける。そして手招いた。
 
 なまじ私は背が高いから、車椅子に座ると私の顔は見づらい。それに合わせて私がしゃがんで車椅子の横に来ると、彼女の小さな手が私の頬を包む。いつも丸い眼差しがほんの少しだけ細められる。その手に初めて、ただ気まぐれで擦り付くと彼女の手がぴくりと揺れた。じわりと手の温度が上がる。そして彼女がゆっくりと呼吸をして、私の水晶体に潤んだ美しい姿を映した。
 
「……愛してるよ、傑」
 
 私はそれに黙り込む。いや、彼女の甘い声音と笑顔に言葉が飲み込まれる。じわりとした熱だけが身体に入り込んだ。彼女のその優しさが痛い。裂けてしまいそうな私を彼女の小さな手が繋ぎ止める。
 
「傑が誰よりも愛しくて、大事だよ。いつも本当にありがとう」
 
 咄嗟に顔を伏せた。
 じわじわと広がる熱に困惑が混ざった。
 
 どうして?
 私が君の脚を奪ったのに?
 君を縛っているのに?
 
 全て私が弱いせいで失って、いつも何も出来ない。偽りの最強なんて言葉にあぐらをかいて、そんな儚い夢に説教垂れるような私の頬にはまだ彼女の温かい手が触れている。
 指先が僅かに頬を撫でる。
 
「……私、大好きな傑といるときの私が好き。幸せ。傑はどう?」
 
 ハッとして顔を上げると雫が窓からの光を反射して、きらりと光った。伝う一線を彼女の細い指が拭う。
 
「泣いてよ、傑。私も一緒に泣くから」
 
 彼女のこの甘い言葉が優しさじゃないとでも言うのだろうか。優しさじゃなくて、私に対する純粋な愛だとでも言うのだろうか。こんな醜い私の傍にいて、それでも尚私に対する愛で幸せだと言うのだろうか。
 
 ぽつりと私の手に雫が垂れる。さっきまで笑ってたくせに彼女が顔をくちゃくちゃにして泣いている。今にも子どものようにしゃくりあげて、大声でわーんと泣き出してしまいそうな彼女が柔らかい唇を噛んでいた。その雫に触れる。温かい。
 
「やっと、すぐ、るが、泣いてくれ、た」
 
 次の瞬間しゃくりあげたのは彼女じゃなくて私の方だった。彼女のすっかり細くなった腕にしがみつく。
 
 私もいつか君みたいになれるかな。
 君が好きな私が好きだと、胸を張って言えるようになるのだろうか。
 
 
 今日も温かい君を抱きながら夢を見る。
 岐路の上に立つ君はやっぱり笑いながら線を指さしていて、だけどもその線に愛してると書かれていることに気が付いたのはこの時やっと。




×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -