思い出は美しく、
暗がりを歩いている。
しかし不思議なことに、自分がどうやら何かの目的を持って進んでいることは分かっていた。それが何なのか、どこなのかは全く分からない。
何の遮蔽物もなく、空と地面がとっぷりと溶けて混ざる。あわや空を歩いているのだと勘違いしてしまうところだ。
「早歩きですか」
ぴくりと肩が揺れる。
聞き覚えがあるようなないような声に振り向くと、微かな星の瞬きは身長の高い彼の姿をぼんやりと映していた。服は星に焦げたかのような真っ黒な服。
「あなたもそうでしょう」
星の王子さまみたいに金髪の彼は私を指差す。その指の動きに釣られて視線を自分の身体へ移動させると、袖も胸元も女子高生のように短いスカートもまっ黒焦げだ。学ランのように詰襟のその焦げた服は多少デザインが違っても、彼と同様の物であることは分かった。お揃いというやつだ。
「お揃いではなく、制服です」
制服。そう言われればそんな気がする。彼から自分の胸元へ視線を落とすと、同じ速度で星が流れた。どこかふんわりとする意識。
私たちの周りで星は訴えかけるようにぴかりぴかりと光を放つ。その光を目で追うと、それは彼の足元に落ちた。
気付けば隣に立っている。
七三にまとめられた金髪は星を集めたみたいだ。こんなに綺麗なのに、名前が思い出せないのが惜しい。
「あなたは薄情だ」
どうして。
名も分からない星の王子さまにそんなことを言われないといけないのだろう。
「私を忘れて生きていける。全く優秀で困ります」
眉を下げて微笑むその顔を見ると、無性に胸が傷んだ。この人を見ていると身体が沸騰するくらい熱くなって、胸の扉を慌ただしく叩かれる。
名前を呼びたい。
好きだと叫びたい。
髪に、顔に、首に、身体に触れたい。
それなのに私の足は歩き続ける。
彼は横を歩いている。
急ぎ足の私と違って彼はゆったりと足を伸ばした。それでも並んで歩いているので足の長さの問題かもしれなかった。
黒い世界は目が慣れたせいか思っていたよりも色を持っていた。
私たちが歩いていた地面は湿り気を帯びた道で、雨上がりの草原のような場所だ。
空気を吸えば僅かに青々しい緑の香り。
それと混ざる雨上がりの匂い。
「あなた好きでしょう、雨上がりの匂い」
知っているんだね。
「知ってますよ。……そりゃあね」
含みを感じる。
彼はさっきから核心から逸れるような話し方をしていた。そんな人だったか、と疑問に感じるがそれを裏付ける記憶がない。
ぽっかりと空いた胸は無駄に鼓動だけが早くて息苦しい。苦しい。
私の涙の代わりに何度も星が落ちる。
星が落ちる先には宝物があるんだっけ。
それは虹の麓だっけ。
私にとっての宝物が何なのか分からない。
しかし、きっとそれは今のような隣に彼がいる時間なのだろう。理由のない確信に自分自身が戸惑った。分からないはずなのに、宝物を思えば隣にいる星の王子さまを想う。
「この時間が宝物だと言うのなら手でも繋ぎましょうか」
返事をする前に大きな手は私の手を軽々と包み込んだ。左手を包む彼の右手はゴツゴツしている。手のひらは固く、何度も豆を潰したような感触がした。いつも何か硬い何かを握っているのかもしれない。
ぎゅ、と握る手に力を込められるとスイッチでも入れるかのように目頭が熱くなる。
あれ、あれ?
何度も何度も右手でぽろりぽろりと落ちる涙を拭っても止まらない。
その時、彼と進む前方から眩い光が空を染め始めた。黒はそう見えるだけで黒くはなかった。青い空。爽やかな草原に乗っかる青空であったのに、私はそれに気付けなかった。
濃いブルーは明るさを取り戻し、赤く、黄色く空は伸びやかに色を変えていく。
涙でぼやける視界は次第に明るくなっていった。眩い光の筋があちらこちらを照らし、私をも照らす。
ここに向かっていた。
無意識のうちに、日の昇る場所へと懸命に足を動かしていた。
「夜明けですね」
その声に振り返ると彼は真っ黒に焦げたような制服から真っ白なスーツへと姿を変えていた。私が驚くのと同時に星の王子さまの手が、私の手から離れた。
刹那、空がひっくり返る。
待ってという間もなく、空は白い天井へと変わっていた。パジャマ姿の私がベッドに入っている。かろうじて足を動かしていたことだけは本当なのか、掛け布団はくちゃくちゃになって足元にまとまっている。
「……七海、だった」
星の王子さまなんかじゃない。
七三分けの金髪に高専の制服。
鉈を握り続けて固くなった右手。
「……夢の中で名前、呼べなかった」
夢の中で名前を呼べず、
名前を呼べる現実にその彼はもういない。
こんなことになるのなら、あの真っ暗な世界で2人手を取って抱き締めあって過ごせば良かったのに。
それでも私たちは足を止められなかったのだ。
ひっそりと落ちた星は枕に吸い込まれていった。
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