誰かの願いが叶う頃


「これは呪いじゃない」

そう言って断言した五条悟はソーダ味のアイスを一口齧っていた。溶けて雫になるところを長い舌が追う。

連日の猛暑で誰もが汗水を垂らしながら項垂れている中、汗ひとつかいていない五条は補助監督の伊地知潔高にそう言って銀色の台の上に転がる死体を指さした。伊地知は懸命にその言葉の真意を探りながら額の汗を拭う。それは暑さからではなく、五条と向き合うと反射的に出る精神性発汗によるものである。その為、低温に保たれている遺体安置所においても伊地知の汗はたらりと額を滑りかけて、几帳面そうに畳まれたハンカチに吸い込まれていった。

「既に8組目です。異常事態と言っても過言ではありません。こうした事が続くと」
「分かってる。傑とかなたの呪いがって話だろ。僕の耳にも入ってる。だとしても、実際僕の目には呪力も何も映っていないし、呪いの気配は一切ない。考えられるのはひとつだ」
「あるんですか」
「あるよ」

五条は安置所の隅に置かれたスツールの上に腰掛けていたが、余って放置していた脚で立ち上がった。伊地知は五条の道を開けるように少し居場所をずらす。五条は齧っていたアイスの棒を真っ二つに折り曲げてから伊地知に渡し、すらりと伸びる身体はそのまま並べられた遺体袋に近付いた。閉じられていたジッパーを滑らせる。

並ぶふたつの黒いポリエチレンの中には破損した男女の遺体が納まっていた。汚色調の強い暗緑色の表面、皮膚は気腫状を呈して膨満、表皮は一部を除いてほぼ剥離していた。紛れもない水死体である。遺体を見慣れている五条と伊地知ですらその様子に暫しの無言が流れたほどだった。ジッパーを開き切ると現れる全身は所々が欠けている。どうやら波に流されるうち、転がる石によって削られたらしい。しかし、それでも男女の片足ずつ表皮が一線残っていた。男の右足と女の左足である。

「発見された時には互いの片足をロープで縛り付けている状態でした。ロープは呪具ではなく、ホームセンターで購入された物であることは確認済です」
「そこも前の7組と同じわけね」

はい、と伊地知が応えると五条は何を考えているのかよく分からない表情で遺体を見つめていた。顔の半分をアイマスクで覆う五条の感情は読めない。こういう時、伊地知は普段五条がわざと&ェかりやすく意思表示をしていることを痛感するのである。改めて額を拭う。

「ウェルテル効果しか考えられない。実際この件にマスメディアは関係してこないけど、特級の傑が一級の〇〇と心中したのはなかなかセンセーショナルだったし、呪術師の界隈なんて人の数がたかが知れてることもあって噂が流れるのは秒だろ」
「では、お2人の心中が他の呪術師の心中を助長させている、と」
「それ以外ない。だから僕の出番はなし!可及的速やかに噂を終息させるしかないね」

それはお前の役割!と五条が勢いよく振り向き、長い指で伊地知を指さした。果たしてそれが補助監督の仕事なのかと問われれば、きっと違うのだろうが、『起こるかもしれない』ことを未然に防ぐ為と言われれば確かにそれは伊地知の仕事に違いなかった。失われていく呪術師の命に沈痛な面持ちの伊地知はしっかり「はい」と返事をした。五条は再び遺体と向き合って醜く変形した顔を見る。脳内でぐわりと景色が歪み、見知った顔がふたつ並んだ。かつて同級生であったふたり。

何を思って、なぜ突然2人で身を投げたのか五条は判断しかねていた。思えば五条は昔から人の感情にはやや鈍感であり、大枠では見えているものの微に入り細を穿って感じるのは苦手な分野である。どちらかと言えば、それが得意なのは夏油とかなたの2人であった。心が分からなければ、決まって夏油とかなたが『こうである』と教えてくれた学生時代だった。そんなふたりの心模様に気付けなかったのは苦手だっただけでなく、慢心もあったのだろう。

五条は1人部屋に戻ると、デスクの1番下にしまいこんだポリエチレンの袋を取り出した。中には腐りかけのロープがバラバラに砕けた状態で入っている。とっくに干からびたはずのロープは未だ濡れているようだ。

夏油とかなたの遺体を発見したのは、2人が流れていた場所の近くで漁をしていた若い漁師だった。ふたりの姿が見られないと補助監督が丁度騒ぎ始めていた時のことである。ふたりの遺体は片足をロープで結んであり、強く手を握り合っていた。死後硬直もあって漁師にはどうすることも出来ず、報せを受けてすぐに駆けつけた五条が着く頃にはまだ2人は手を繋いでくっついて転がっていた。まるでひとつの生き物になったような、双子のように臍の緒を繋げたような光景だった。
「ああ、ひとつになったんだ」と呟いたのは偶然そこに居合わせた非術師の言葉だ。ひとつになった。2人はひとつになりたかったのだろうか。
五条には、それが分からない。





手を繋ぐと2人が溶け合ったような気がしていた。そうすれば心がひとつに溶けて、言葉も要らなくなり、気遣いも嘘も虚勢もなくなってしまえる。そうなってしまえたらどれだけ良いかと、学生時代から夢想していた。しかし私たち2人が溶け合ってしまうことはなくて、互いの汗が混ざり合うだけだ。そのもどかしさと愛おしさに何度も胸を掻き毟られた。表面を触れるだけのコミュニケーションは心の底にまで染みていた。しかしそのバランスがやや崩れたのは、高専3年の時に起きた暴行事件以来のことである。

当時、私とかなたはただの同級生と呼ぶには違和感があり、かと言って交際しているわけでもなかった。1年生の頃から何かと趣味が合い、時間を縫ってふたりで遊びに行くうちに距離が虚しく思えるようになっていった。手の甲が当たる度、刹那の温度に緊張したり、意を決して繋いだ手を握り返されたりする日々が続く。

かなたの私に対する好意は透けて見えていた。だからこそ、いつどのタイミングで告白するのかという点に問題は絞られていった。彼女は心機微に聡いタイプのようで、度々私が欲しい言葉をくれた。優しい音。一気に縮めたい距離でありつつ、しかしそこから生まれる擽ったさを楽しんでいた。

執着や依存とは程遠い、ラムネの中のビー玉のような恋だった。青が透けて、光がきらりきらりと反射する。彼女が隣にいればより世界は明るく見えたし、呪霊を飲み込むストレスもどこか遠くに感じられた。もしかしたら、それが何より嬉しかったのかもしれない。

目尻に触れて、指先に彼女の睫毛が触れて、丸い頬を滑り、華奢な顎ラインに触れ、そしてぽってりと膨らんだ濡れる唇に触れる。それに夢中になった。じわりと滲む彼女の温度を腕の中に閉じ込めて、互いの温度を交換しているうちに溢れ出す汗と熱を共有して、互いを貪った。

彼女は酸素だった。彼女を吸えば世界は明瞭になり、血潮はよく巡る。好きだった。彼女の髪が揺れるのが、丸い鼻先が、大口を開けて笑う姿が。「傑」と呼ぶその声が、何より好きだった。
しかし、彼女の不安げな瞳が揺れる。今にも溢れそうな涙の膜には私の暗い顔が映っている。

2年の夏。空蝉が陽向で苦しみ喘ぎ、暴れ回っていた時期。自我が音の雨に降られ、呑み込まれていく様を見た。盤星教からの帰り道、どうやって帰ったか記憶がない。ただ、茹だる陽炎の中、悟が1人で私の前を歩いていた。

喪失する理想論。
身勝手な世界。
己の無力さ。
周知の悪。
崩れる。
沈む。
折。

考え、考えれば考えるほどに崩壊していくようだった。
親友と並ぶことが出来ない
弱くて気を使われる自分
守られるべき弱者
自分が今まで守ってきたものは何だったのだろうか。懸命に呪術師が身命を賭してきたものは何だったのだろう。強い虚無感と自己嫌悪と苛烈な怒りが渦巻いていた。まだ己の中に引き裂かれた虹龍が暴れ回っているかのようだった。そして恥ずかしかった。今まで悟に散々諭し、語りかけてきたものが全て幻想で、そして自分より遥かに強い上位の者に説教していたという事実が重くのしかかる。
恥ずかしい。そして、嫌悪した。
非術師が嫌いだ。そして、自分が嫌いだ。

分かっている。呪術師になった限りは非術師を助けるしか道は無い。それが存在意義で、そうでなくては存在してはならないのだ。

なぜ?

その答えになったのがかなただった。

「非術師を助けるのは結果でいいよ。結果的に助かったのなら、それでいい。傑は私を守ってよ。私は傑のここを守るよ」

かなたの手が伸びる。そっと触れた傷だらけの白い手は私の胸元に触れた。制服越しにじわりと焼けるような温度が染みる。

「傑、私が理由になるから」

そんなことをかなたが言った。やはり心に聡いタイプなのだろうと思う。私はその時点でかなたに心の内を話したわけではなかったからだ。特級案件である星漿体護衛任務のことを話すわけにもいかない。しかし、それでも彼女は誰よりも私を気にかけた。

悟は己の術式研究に没頭し、硝子は任務の合間に医大に入る勉強を始めたために自然とかなたは私を見つめる時間が今まで以上に増えたようだった。棘のついた蔓を彼女がゆっくり、少しずつ解いていく。1日、1日、心に彼女の手が入り込んで、少しずつ棘の塊を解される。かと言って、状況が変わるわけではない。非術師は呪霊を産み続けるし、呪術師は傷つけられ続け、そして虐げられる。
そうして狭間にかなたと流され続け、気付けば暗闇の中でかなただけを見つめていた。

光と呼ぶには眩しすぎ、命と呼ぶには重すぎる。
彼女が全てだった。
彼女の胸に縋って眠った。
彼女の酸素を吸って呼吸をした。
彼女の言葉を咀嚼して嚥下した。
そうして彼女が世界に成った。

それが夏油傑になりつつあったその日は夏の後半である。灰原が死んだ。素直で可愛い後輩だった。生き残った七海は言う。

「もうあの人1人で良くないですか?」

より私は彼女に傾倒した。隙間に入り込む思考が私の首を締め付ける度、脳裏に高らかに手を打ち鳴らす音が木霊する度、より傾く。角度は90度近く、その断崖絶壁を彼女へ向かって落ちて思考は沈んだ。

だから、閉鎖的な田舎で非術師を殴り飛ばした時にはほぼ反射的な行動だった。これ以上私たちが傷付けられるのを拒むための反射である。拳を振り上げた。肉を打ち、骨を砕き、醜い顔を陥没させた。鍛えられていない薄い身体を蹴飛ばした。飛ぶ血。上がる悲鳴。彼女に会いたかった。

死者は出なかったものの、どうやら病院送りになった者は少なくはなかったらしい。子どもを2人抱えて帰ってきた私は夜蛾先生からそういう報告を受けた。彼女の不安げな瞳が揺れる。今にも溢れそうな涙の膜には私の暗い顔が映っている。子どもは夜蛾先生が養女として育てることを約束してくれたが、私は謹慎を受けた。その日から悟は毎日部屋を訪ねてきたが、私が扉を開けることはなかった。

その次の日からだった。私の足にかなたがロープを括り付けたのである。私の右足首にロープを巻き付け、そしてそれを彼女の左足首に繋げる。彼女には私がどこか遠くへ行ってしまうのではないかという危惧があったのかもしれない。私はそれを受け入れた。元より、私の世界であるかなたと分かたれることなど不可能なのだが、このロープ1本が彼女の安心を呼ぶのであれば私はロープでぐるぐる巻きにされようと構わなかった。毎晩、彼女と足を繋げて眠った。

それから毎日夢を見る。
顔をくしゃくしゃにして笑う猿が手を叩いてこちらを笑っているのである。その周りには理子ちゃんや灰原の遺体が転がっていた。それを猿が踏みつける。笑顔で遺体の上で跳ね飛び回る猿たち。思わず一歩足を踏み出すと、猿の背後に立つ禪院甚爾がこちらに銃口を向けていた。ハッとした時には遅く、私の眼前に飛び出したかなたが私を庇って崩れる。飛び散る血がスローモーションのように彼女の身体から噴き出していった。そして容易く倒れる。どさりと、それはもうゴミ袋を落としたような音で。

そうして目を覚ます。
毎晩、毎晩その夢を見た。
脂汗を拭いながら目を覚まし、隣で眠るかなたの呼吸を何度も確認する。温かい呼吸が手に当たると、初めて生きた心地がした。震える手が彼女の顔に張り付く髪を攫う。目頭が熱い。ツンと痛む鼻先。

夜は長かった。夜長と言ってもどこかで陽は昇る。そう分かっているはずなのに、永遠のような夜は何年も続いた。気付けば私たちは少し老けていた。暗闇に私とかなただけがいた。それが永久に続いていくのなら、それでも良いかと思えた頃。私の世界は赤く染まって帰ってきた。

担架に乗せられ騒がしく運ばれていく私の世界は弱々しく、彼女も又、奪われてしまう側のモノだと気付いてしまった。積み上げられた遺体の上に塵のように重ねられる彼女を思う。見上げた彼女の瞳は磨りガラスのように色を映さない。反射しない光はトンと闇に溶ける。

なれば、奪われる前に奪うしかあるまい。

硝子の懸命な処置のお陰で彼女が意識を取り戻すまではそれ程時間は掛からなかった、そうだ。私には時間の感覚がない。刹那か永遠か、その二極端だった。繰り返し彼女の名前を呼ぶ。口の先から零れるような声しか出ない。心電計のように規則正しく呼び掛け続けていると、ぴくりと彼女の長い睫毛が震えた。濡れた光が走る。

「……傑」

大好きな声が聞こえる。寝台横に置かれた緑色のスツールは脚の長さが揃っていないのか、重心をずらすとがたりと音がした。身体が傾く。血の気の引いた滑らかな肌に触れると、かなたは少しだけ口元で笑った。世界。私のワンルームのような小さな世界。

「かなた」
「なぁに」
「私と一緒に死んでくれないか」

漸く、彼女の目が細められる。潤んだ瞳には医務室の蛍光灯の光が線を引いていた。私の世界はどうしようも美しく、だからこそ儚い。唇を落とすと消毒液の味がした。

練炭自殺という彼女の提案を棄却した私は、海に沈もうと言った。水死体は汚いから可愛くないと頬を膨らませた彼女の足首は私と繋がっている。美しい死に顔を私以外の存在に見せるわけにはいかない。愛を捧げた最期の姿すら独り占めしたくて、水死体を提案した。私に甘い彼女は結局文句を言いつつも、私の提案に乗った。

準備するものは大してなかった。精々彼女が新しいワンピースを着ていくと言って聞かないので2人で新しい服を買って着た。新品の服から値札を剥がして、本当なら一度洗いたかったのを我慢して袖を通す。彼女は念入りに化粧をしてくれた。以前私が好きだと言ったリップを引いた唇に吸い付くと、彼女がころころ笑う。穏やかな昼下がりである。彼女と手を繋いで高専を出た。10年ほどいた学び舎を出る時、門で2人揃って頭を下げる。深く身体を折り畳ませるかなたの双眸にはやはり涙の膜が張っていた。

「……やめるかい?」
「寂しいこと言わないでよ」

行こうと私の手を引く彼女の手は温かい。いつものように2人の汗が手の中で混ざり合う。しかし寂しさは感じなかった。虚しい距離も何もかもなくなっていて、すっかり彼女とひとつになったような気になる。
だから電車に乗り込む際に乗車券がふたつなのが気に入らなかったし、椅子がふたつ分ないといけないことが気に入らなかった。それでも彼女はずっと笑顔だった。痛いほどの日射光が車窓から差し、彼女の輪郭を強く浮かび上がらせる。伸びる影くらいはひとつにしたくて彼女を抱き寄せ、丸い頭に頭を重ねた。「重いよ」と彼女が笑うので、少しずつ体重を掛けるとわざとらしい「ぐえ」と潰れる声がした。堪えきれずに息が口から漏れ出す。「笑わないでよ!」と怒り出す彼女がこの先、水底に沈む姿はどんなものだろう。脚の生えた人魚なんだろう。波に流れる髪が私に絡み付いて、繋いだ手は死後硬直で固まって離れなくなる。繋ぎあったロープは道標になるだろう。そのまま音を失った鮮やかな冷たい世界で温度を失っていく。
世界。ずっとずっと一緒だ。

降りた駅に人影はない。真っ黒な影がコンクリートにまとわりついていて、そういえば今日は猛暑日だったと思い出す。今朝、かなたが医務室に搬送される直前に見たテレビ番組では『沸騰する日本列島!』と書いてあった。どうやら猛暑で何人も死んでいるらしい。そんな中で私たちが自分で互いの生命を奪うことの贅沢さを感じた。
刹那、黒が見えた。
ハッとして振り向く。
銃口を向けられたような気がしたのに何も無い。駅を出てすぐの道に設置されたカーブミラーには私たち2人が映っており、銃口かと思えたのは私の黒い瞳だった。ぴくりと右口端が反応する。無性に面白くて笑い出す私の手をかなたが引いた。焼肉でも出来ような熱せられたコンクリートの上を2人で走り、車通りのある車道を突っ切って走る。何度も鳴らされるクラクションが響き渡っていく。こみ上げる笑いが私たちの足を進ませた。

見えたテトラポットによじ登る。海は煌めいていた。反射する光が波に流されてはまた光り、青と白を繰り返している。初めて私はそこで彼女の足と自分の足を自らの手で繋いだ。ざぶり、ざぶりとテトラポットにぶつかる波が押し寄せて弾ける。白い泡が揺蕩う。
せーの、と言ってしまえばすぐに私たちは海に飲まれるだろう。

「ねえ、傑」
「なんだい、かなた」
「飛び込んだらさ、ちょっとだけ泳いでさ、地平線の辺りで沈もうよ」
「いいよ。君がそうしたいなら連れて行ってあげる」

手を繋ぐ。愛してるよと声が重なった。
結局せーの、という掛け声はなかった。彼女の目尻が下がって、丸い雫がきらりと光った瞬間、影が青に溶ける。

ああ、世界は残酷で美しかった。




のちに夏油の部屋から見つかった日記は誰かの手によってビリビリに破かれていた。そのため内容が分からない。五条も様々試みたが、結局内容が分かることはなかった。その五条の必死さが尚更、夏油とかなたの心中というセンセーショナルな出来事を印象づけたようでもある。何の手がかりも見つからないと思われた最中、かなたの部屋から1枚の写真が発見された。なんということはない夏油とのツーショット写真の裏には一言ペンで書き殴られていた。

『あなたと終わらせる幸せ』




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