五百年の傷


私の心には穴が開いている。
ぽっかりと、それは夏油傑のカタチをしている。その穴を覗けば何度だって夏が見えた。青が突き抜ける夏。

その日、私が高専に戻ってきたのは夜のことだった。絵の具で塗り潰したような黒い森に囲まれた高専を不気味だと感じたのは初めてのことで、今思えば予感というものを感じていたのかもしれなかった。
愛用の携帯、ドコモのP902iをカチリと開く。メールボックスには夜蛾先生からのメールが届いていて、『戻ってこい。高専に着いたら私のところに来ること』との旨が書かれていた。その文章を今一度読み直して、高専の石畳を踏む。
変な司令だったと思う。『高専を暫く離れて欲しい』と言われたのは4日前のことである。詳細は一切なく、先生も繰り返し『念の為だ』と言うに留まった。どうやらその司令を受けたのは私だけだったようで、実家に帰る旨を他の3人に伝えると「呪術師やめんの?」と慌てて返事が返ってきたものである。
まるで私だけ高専から追い出されるようだ。一抹の不安がチリチリと首の後ろを焼くような感覚を抱きながら、地元への電車に乗り込んだ。

元々、夏は五条、夏油、硝子と共に海に行こうという話になっていた。人混みは五条が疲れるというので、人が来ないような海岸を探した。夏油がそれを探す役割を担ったけれど、その話はどうなったのだろう。霧散してしまうには惜しい。海行きたいなぁ。

夏が本格的になる前に硝子と水着をわざわざ買いに出た。硝子ほど細くはないにしても、そこそこ鍛えていることもあって少し挑戦的な水着にしてみようと女子2人で騒ぎながら買ったものだ。その場のノリというのは恐ろしいもので、普段ならおよそ考えられないような露出度の水着を購入してしまった。いたたまれない。でも、男子はこういうものが好きだろうか。いや、更に言うなら夏油はこういうの好きだろうか=B羞恥と淡い恋心が互いにぶつかり合ってせめぎ合うのを失笑しながら見つめた。夏は、正直楽しみだった。少しでも彼との仲が進展しないものかと布面積の少ない水着をハンガーに掛ける。

しかし海の話が進む前に高専を3日間追い出されたのだった。意気消沈とはいかないまでも、僅かに納得がいかない気持ちで足を動かす。


人間なんでも慣れていくものでとっぷりと闇に染まった空間を眺めていると、次第にカタチがぼんやりと浮かんでくる。石畳のカタチ、遠目に見える校舎、階段。その中に黒い塊が見えた。思わず足が止まる。結界内に呪霊はいない。それなら、その塊は人間だ。ピクリともしないその塊を近づく。
「も、もしもーし」
不安感で上擦る声のまま声を掛けると、ぼんやりと見えていたシルエットは詳細に浮かび始めた。やがてその黒は長い黒髪と黒いTシャツだということが分かり、返事が来る前にそれが夏油だと気付いた。夏油はぴくりと肩を揺らして顔を上げた。息を飲む。暗闇の中にいるからだろうか。やたら顔には濃い影が掛かり、感情を堪えるように奥歯が噛まれているのだろう口は固く閉じている。何かあったと思うには充分だった。
「夏油、大丈夫?」
そっと話し掛けると、即座に夏油は立ち上がった。勢いに気押される。
「大丈夫だよ。疲れてただけ。君は今帰りかい」
「うん。この後先生のところに行かなきゃいけないけど。夏油は?」
「私は、部屋に戻るよ。ただの気分転換だったから」
夏油は暗闇の中でいつものように笑って、緩く手を振った。私だけ高専を追い出された時と同じような孤独感を再び感じる。
絶対何かあっただろうに。
しかし私では役不足なのだろう。きっと夏油は五条に相談でも何でもして私には何も言わない。同性の友人と異性では違うことは重々承知していても、それでも顔を出す恋心がもがき苦しんでいるのが分かって奥歯を噛んだ。強く握った手のひらには爪の跡がついた。

暗闇の廊下を進む。軋む廊下は夜のこともあってほんのりと冷たい。校舎内には補助監督に与えられた部屋もある。部屋の名前は『待機室』という名前だが、様々な補助監督と外部からの呪術師が多く出入りを繰り返している。もう21時をまわる時間だが、やはり待機室からは光が漏れていた。四角四面な会話も僅かに廊下に流れ出ている。実家から高専に戻る際、お土産も買ってきたから後で差し入れをしよう。
今日もお疲れ様です。
誰もいない廊下に軽く頭を下げてから、待機室のすぐ隣にある職員室の扉をノックした。はい、という声は聞き慣れた夜蛾先生の声だ。きちんと挨拶をしてから職員室に入ると、先生は何とも言えない顔をしていた。申し訳なさそうな、同時に覚悟を決めたような顔である。途端に不安の渦が私を飲み込んだ。背筋が冷たい。足が動かない私に先生が手招きをする。大して広くもない職員室だが、先生の机まではやたら遠く感じた。不安が胸まで浸かったところで、先生はすぐに口火を切った。
「よく来たな。お前に話がある。……天元様は分かるな。高度な結界術を操る呪術界の中枢的存在で高専などに張られた国内の主要な結界を、その強大な呪力で維持・補強している方だ。天元様なくして日本の呪術師たちは満足に活動できないと言って過言ではない。しかし、天元様は不死≠ナあっても不老≠ナはない。そこで術式の初期化を行う。500年に1度、星漿体という天元様と適合する人間と同化するんだ」
「……はい」
「悟と傑はこの3日間、その星漿体を護衛する任務に就いていた。そして失敗した。そこで新たな星漿体を天元様と同化させることになった」
「はい」
「かなた、天元様と同化してくれないか」
なんだか凄いことになっている、と他人事のように感じていた。天元様も星漿体も、それは以前授業で聞いた事のある名前だったけれど、だからこそ現実感がない。ちょっと江戸時代に行って家康と写真を撮ってきてくれと言われているような気分だ。最初は「え?」、そして次は「なんで?」と感じながらも先生の真剣な眼差しに思わず俯いた。私の指は落ち着きなく動いている。伸びてきた爪に触っていると、ガシリとその手を掴まれた。跳ねるように顔を上げる。
「お前にとっては急な話だが、日本の為だ」
今は戦時中だったろうか。お国のためにだなんて。でもすっかり全てが遠ざかって、暗闇にポツンと取り残された気がする私は虚ろな中で「はい。分かりました」と答えた。夏油の顔だけがチラついた。


ことの重さを感じたのは翌日だった。朝、顔を洗う時から五条と夏油がぴったりと着いてきたのである。五条はいつもと変わるような様子はないが、夏油は今にも死にそうな顔で私を見つめていた。
「お前が星漿体とか思わなかったわ。代理とかいるもんだな」
「それは私の方だよ。昨日突然言われてびっくりしたんだから」
夏油は何も言わない。昨日の黒い塊となって蹲っていた姿が脳裏で重なっていた。
先生曰く2人は失敗≠オている。同化しなかったということだ。だから私にお鉢が回ってきた。考えられる展開とすれば、逃げられたのか、死んだのか。そのふたつにひとつだろうが、五条と夏油の2人から逃げるなんてほぼ不可能だ。前の星漿体がどんな子だったのかは知らないが、どうにも逃げられる2人が想像つかない。それなら死んだ方が納得がいく。なぜ死んだのか、それは分からない。聞いてみようかとも思うが無性に怖くて水の吹き出る蛇口をぼんやりと見つめてしまった。
「……かなた」
夏油の声で振り向く。決意に染まった瞳は揺らめいていた。
「今度は、失敗しないから」
あの3日間で何があったのか。やはり聞くことは出来なさそうだ。私はただ一言「うん」と答えた。


夏油が動き出したのは、私が制服に着替えて部屋を出てきたところからだった。五条はいない。扉の目の前に立っていた夏油の表情は暗かったが、不安げな私を見て少しだけ眉を下げた。
「かなた、逃げるよ」
「逃げるって?」
「君は天元様と同化しない。生きるんだ」
「そんなこと可能なの?」
「可能にしてみせるさ」
私が必ず、と呟く夏油の顔を見る。間違いなく本気だ。その言葉に応えない私に痺れを切らしたのか、夏油は私の腕を掴んで速やかに寮を飛び出した。私の全速力より早く景色が流れていく。夏油と触れている素肌が熱い。この感情に名前をつけられない。恐怖とも不安とも愛おしさとも呼べる気がする。でも1つ分かるのは、夏油が見ているのは私ではないということだ。私を助けようとしているのは、助けられなかった誰かがいるからだ。だからこうして私の腕を引く。今度こそ助けられるように。
虚しいって言葉を恋と呼ぶんだっけ。

高専の敷地内を勢いよく飛び出てからは傑の呪霊に乗って風のように空中を駆けた。傑のお気に入りの虹龍ではない。呪霊は小さいため2人並んで座ったが、夏油に腰を掴まれて身体を寄せられる。
「……ねぇ、どこに行くの」
「君が生きられる場所だよ」
「そんなとこあるの?」
純粋な疑問だったけれど、振り向いた夏油の顔が泣いてしまいそうだったから、その質問は失敗だったと悟った。
「……必ず見つける。私がなんとかする。2人で逃げるんだ」
熱に浮かされたうわ言のようだった。突き抜けるような青に溶けていく私たちは雲間を割いて、どこか≠ヨ向かう。街並みは背を伸ばしたり縮まらせたりを繰り返していた。一瞬、頬に触れたのは前方から流れてきた汗である。一雫、夏油から溢れ出た汗が風に流れて私の頬に触れる。気付けば私の額や首筋からはおびただしい汗が流れ落ちていた。季節は夏真っ盛りである。夏油に掴まれた腕が汗でぬるりと滑り、その恥ずかしさで腕を引いた。夏油が弾かれたように振り向く。
「あ、ごめん。汗凄かったから……」
「……ああ、いや。そうだね。今日暑いし」
「ねぇ、どこに向かってるの?」
「とりあえず海に行くよ」
海?とオウム返しする私に、再び夏油は海だよ、と答えた。
咄嗟に頭に浮かんだのはみんなで行こうと言っていた海だった。天元様なんて話がなければ今頃みんなで海に行っていただろう。少し過激な水着に夏油がどんな顔をするのか私は見たかった。その反応で硝子と笑って、ハイタッチでもするような一時があったんだろうに。日常が崩れるのは本当に一瞬だ。積み木が倒れるのに似ている。
「前にみんなで海に行こうって話したろ。人が来ない海岸。そこ探してて、たまたま見つけた場所があったんだ。その近くに空き家もあったからそこを目指そう」
「……駆け落ちみたいだよね」
僅かな期待を多大に含んだ言葉だ。どくりと心臓が跳ねる。こんな状況でもまだ恋心にしがみついていた。
「愛の逃避行っていう意味なら、間違ってはないと思うよ」
するりと夏油の手のひらが私の手のひらと重なり、指が絡む。じっとりと汗に濡れた手同士が境を溶かすようにぴったりとくっついた。顔が焼ける。自分にとって都合のいい幻聴が聞こえたのだ。現実なわけない。それでも手に力を込めると握り返されることが末端からしっかりと伝わって、夜蛾先生に「はい」と返事をした自分を心底馬鹿だと思った。死にたくない。天元様なんかになりたくない。私はかなたとして、夏油の隣にいたい。では私が同化しなかったらこの国はどうなってしまうのか。その事は心の奥にそっとしまった。


夏油が見つけた海岸には確かに人がいなかった。立ち入り禁止のロープが四方に張られたそこは死亡事故が多発した場所らしい。海に目をやると呪力が渦巻いている様子が見える。呪霊だ。そこで何人もの命が奪われたことだろう。その海岸から200メートルほど離れた場所に小さな平屋が建っていた。恐らくは海に関わる仕事をしていた人が住んでいた場所だが、その主も海に飲み込まれたのだろう。ある日突然終わった日常の続きが家の中には残されていて、数日過ごすには困らないだろうことが分かる。少し埃っぽい板張りは後で掃除することにして、周囲を見渡した。ちゃぶ台に置かれたままの湯のみはひとつ。一人暮らしだったのだろうか。
「いつまでもここには居られないだろうから、この近くのアパートとか1部屋契約しよう」
「私たち未成年だから契約出来ないよ」
「どうとでも出来るよ。これからは2人で暮らそう」
体温が3度は上がった。強い高揚感に気持ちがどこまでも浮遊していく。即座に返事をした私に夏油が笑った。好き。夏油、好きだよ。ただ私を死なせないためだとしても、一緒に生きてくれるという夏油が愛しくて仕方がない。家具を確認する後ろ姿に口の中だけで好きです、と呟いた。夏油は振り返らない。それでも良かった。


結論から言うと、私たちは選択を間違えていた。逃げるならとことん逃げるべきだったし、人を何人も殺している呪霊の側に呪術師が現れないはずがなかったからである。そして星漿体という存在の重さは見知らぬ呪術師に取り囲まれた時に改めて感じた。勿論、夏油は強いので問題なく対応が出来たが、それは夏油が1人であればの話だ。私がいた。夏油の肩を閃光が貫いて艶のある赤が弾けたのは、どうしたって私のせいだった。私を庇った夏油はその熱に顔を歪ませながら身体を傾ける。咄嗟に血の溢れる傷口に手を当てたけれど日常は脆く零れ落ち続けた。
「夏油!!夏油しっかりして!夏油!」
「かなた、大丈夫だから。私の後ろに」
「ダメだよ夏油!」
「ダメじゃない!」
私の腕を再び掴む夏油の腕は血に濡れていた。一度崩れてしまえば、何事も底まで落ちていくのは容易い。私は夏油が呪術師の猛攻に対して動きづらそうに苦しんでいるのをただ見ることしか出来ない。頭が真っ白だった。
「夏油を離して!じゃないと私、ここで死にます!!」
呪具は持ち歩いていた。任務の際、呪霊に突き立てるものを己の頸に当てると初めて呪術師たちは動きを止める。しかし、それも一瞬のことだ。体温が急速に下がる。目的は私のはずなのにどうして止まってくれないの。どうして呪術師同士が争っているの。どうしてどうして。どうしてこうなった。
血塗れの夏油が私に手を伸ばす。冷たい頬に熱い何かが滴った。


気付けば私は清潔な部屋にいた。高専の地下にある一室らしい。実際私は己の頸を切り、ギリギリのところを助けられたらしいのは自分が眠っていた寝台周りを見たら分かった。夏油はどうなったのだろう。気になるのに身体が動かない。こうやって死んでいくのか。
死ってなんだろう。
夏油どうしてるんだろう。
私はどうなるんだろう。
夏油無事なんだろうか。
天元様になるってどういうことだろう。
夏油の傷口はきちんと治療されただろうか。
自分のことと夏油のことがひっきりなしに入れ替わり立ち代り脳内に過ぎる。すると、金属音がして人影が室内に入ってきた。大きな影。覚えのある呪力だ。
「よ、自分の頸切るのはやべぇな」
五条だ。動かない身体で目線だけを五条に送る。五条は片手を上げて「動くなよ」と言いながらゆったりと歩いてきた。言われなくても動けないので返事をせずにいると、五条が寝台横にまで来て私の顔を覗き込んだ。不気味なほど美しい蒼と目が交わる。
「お前が気になるのは傑だろ。アイツは無事。今硝子が見てる」
そうなんだ。良かった。身体の力が自然に抜けると、喉の辺りに強い違和感があることに気付いた。恐らく私が刺したところだろう。試しに声を出そうとするが声が出ない。陸に上がりたての人魚姫のような真似をすると激痛が全身を走った。五条の大きな手が私の額に触れる。
「やめとけ。……その首の傷がある程度治ったら、お前はこの後天元様と同化する。あんま時間もないらしいし。どうする?お前、今度は俺と逃げる?」
否定のつもりで目を閉じた。

ねぇ、このまま天元様と同化したらどうなるんだろう。天元様も私みたいに夏油のこと好きになっちゃうのかな。この心に空いたぽっかりとした穴を天元様も抱えるのかな。私が何も出来なかった証のこの頸の傷は天元様の頸の傷になるのかな。
ねぇ、夏油。
今後500年はこの傷痕があるんだろうね。

声が出なくて良かった。
私は最期、嫌だと咽び泣かずに済んだ。




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