カウント・ゼロ


お母さんが赤ちゃんを抱き締めて「愛してるよ」って囁くのが愛だと言うのなら、私のこの気持ちは何という名前がつくのだろう。
ぬるりとした赤い血に濡れて。急降下する体温を踏み躙って、踏み躙って、愛する人に触れたその身体の皮膚を剥いで、肉を割いて。同じ空気を吸った臓器をずたずたに切り裂いて、そうやって訪れた静寂に身を落とすと、私はもう何も分からなくなっていた。


夏油さんが好きだと気付いたのは半年前である。初めは金平糖のようなコロコロとした淡い恋心だったのに、気が付いたら爆弾を抱えていた。あの視線と交わる度にその導火線に火がついて、私は自分の手でその導火線を短くしていった。すぐまぐわえるような短さに切断して、そして火がつけられる。
夏油さん。
彼は個性的で鋭い外見と相反して物腰が柔らかい。女性は女性として扱い、その手馴れた様子に頬を染める女を見るのは一度や二度ではなかった。彼が他の女に優しくする度、じりっと焼ける臭いがした。焦げ臭い嫉妬の臭い。夏油さんが私のものだと思ってるわけではないのに、それだのに火のついた爆弾は膨れ上がって私の全身をぐらぐらと煮立たせる。それが怖くて仕方なくて、それなのに、ああ。
女だった肉片を見て思う。
もう無理だと。


高専を取り囲む森林の中に小さなテントを張った。髪がなびく程度の風に揺れる黄色い小さなテントは一辺を木に括り付け安定を保っている。安物のテントだ。今はワンタッチで開くテントなんかもあるようだが、全く詳しくない私は1番安いものを選んで購入した。その中には、のこぎりと包丁が白いタオルの上で鎮座している。少しずつ不自然にならないように集めた刃物たちは木々がざわめく度にきらりと光が当たって、ぬらりと奇妙に反射した。どうしてこうもキッチンで見る包丁と違うのだろう。どうして学校の図画工作で使うノコギリと違って見えるのだろう。
悪意を多大に含んだ殺意のせいだろうか。
テント前に広げた木々で焚き火を試みたけれど、素人にはそれが難しくてただ枝の塊が横たわっている。汚れた手をズボンに擦り付けると見える赤は幻覚だ。もう手は洗った。
この森は天元様の強い結界の中でありながら、人間のいる高専自体が呪術の要であるがゆえに管理がお粗末である。人の目の触れない場所。視神経がじくりと痛んで顔を上げると、青空が艶々とした葉に透けて宝石のように煌めいていた。光は行ったり来たりを繰り返して、私の足元に転がったかと思えば寝袋に詰め込まれた肉塊をも照らした。きらりと寝袋のチャックが光る。じっとそれを見つめた。
パズルか何かのようだった。人を殺して、解体して、それを寝袋に詰める。寝袋は1人用なのに上手く詰め込むと3人綺麗に収まったのである。身体の大部分を占める臓器は真っ先に引き抜いて、汚物ごとミキサーに掛けて捨てたからそれも大きいかもしれなかった。過去に任務で訪れた廃屋では人が死んでいて、呪術師が関わった案件の場所に警察は深く踏み込まない。いい廃屋だった。人を攫うにも殺すにも、綺麗な夕陽も見えるいい場所だった。
その時私は世界中の文化や歴史に触れる番組で見た鹿や熊の解体を思い出していた。冷静だった、と思う。私が燃えていたのは殺す瞬間で喉元過ぎれば熱さをすっかり忘れていた。なぜこんなことをしているのだろうと繰り返し思った。
いくら夏油さんをナンパした女だからって。
いくら夏油さんに告白した女だからって。
いくら夏油さんに色目を使った女だからって。
私のやっていることは単なる暴力で、これは愛ではないんじゃなかろうかと思うと身体が震えた。でも殺さなきゃと思った。
包丁を振りかざし、肉に刺さり、肉が裂けて刃先が臓器に触れてしまうまではその一心だったというのに、人間どうして狂い続けられないのだろう。
鳥が飛ぶ音がする。小さな影が青空に消えていった。

埋めなきゃ。
埋める前にどんな女だったかせめて覚えておいてやろうと立ち上がり、寝袋横に膝をついた。爪を掴んでチャックをスライドさせる。低めの音が均一に流れると、その下は実に赤かった。顔は昔見たエイリアンのように裂けていて花開いている。ぐちゃぐちゃに潰されて皮膚を剥がされ、強引に中を曝け出していた。
こんなことしたっけ。
でも自分以外にいない。
そうか、私こんなことしたっけ。
無意味な試みだったな、と再びチャックを閉めた。そして穴を掘る。木々の匂いは遠ざかり、湿った土の香りが全体を漂い始めた。虫の匂い。泳ぐミミズの身体にシャベルを突き刺し、そのまま土を掘り続けた。1日掘り続け、そして美しい夕日に目を焼かれる頃に突き落として埋め直した。
自分でも何を考えているのか分からない。これは何の行為だろう。

私は呪術師を目指して高専に入学したはずだった。私には姉弟がいて、その2人を守りたい一心で呪霊に挑み、そして死にかけたところをスカウトされた。熱血漢とは言わないまでも、並の呪術師程度には正義感を持っていたはずだ。

どこで崩れた?どこで間違えた?

指折り数える。3ヶ月ほど意識を遡った瞬間、夏油さんの笑った顔が私の頭にじわりと浮かんだ。ドクン。ドクン。
ああ、またほら、そうやって導火線に火がついてしまう。

まだ入学して間もない頃だった。同級生の灰原と七海は課外授業という名前の任務に出ていたとき、私がぽつんと教室に取り残された日だ。やることもなかった私に声を掛けてきたのが先輩────夏油傑である。
その日以来、私が1人になると見計らったように夏油さんと顔を合わせるようになり、憧れ、胸高鳴らせ、そして、こうなった。
途中過程が無さすぎて自分でも笑ってしまう。
動機、夏油さんに触れたから。
それでこの凶行とは我ながら恐れ入る。


気が付いた時には夜になっていた。
ハッとしたのは梟の鳴き声と飛び立つ羽の音で、ただ黒の中に私は佇んでいた。テントはバレないだろう。どうせ誰も来やしない。作業するためだけに買った登山用の衣服を脱ぎ、ビニール袋に包んでテントの中に放り投げてからその場を後にした。黒い絵の具で塗り潰されたように見えた森は月明かりで仄かに明るい。それだけを頼りに高専を目指して歩く。案の定誰にも遭遇しないが、歩く度にするパキパキという枝の折れる音が逐一自分の不安感を煽った。誰かに見られているような気さえする。今ここで見つかったら私はどうなってしまうだろう。目の前にあるあの太い木から人が出てきたらどうするだろう。1つ嘘をつくと、その嘘を誤魔化すためにまた人は嘘をつくようだけれど、私もそうやって人を殺していくのかもしれない。誰にもバレないように誤魔化すように人を殺す。ぶるりと手が震えた。よく見れば手は小刻みに震えている。気が付かなかったが、顎からも何やら滴っている。涙というものだろうか。頬の丸みを伝って地面に滑落している液体。触れれば確かにそれは涙のようだった。
限界だ。
もうこんなことはやめよう。
こんな恐ろしいことはやめよう。
チラつく夏油さんの顔をかぶりを振って振り払う。怖い。あの綺麗な顔が。穏やかで優しくて、私に笑いかけるあの顔が今は怖くて仕方がない。愛しいだなんて思ってはいけない。自分だけが触れたいなんて思ってはいけない。

震える膝を叱責して、また再び枝を踏んだ。その繰り返しだった。夏油さんを思い出し、震え、歩いて、思い出し、震えて、歩く。もう何時間も森の黒に囚われたかのようだったけれど、実際は30分かそこらだった。早く風呂に入って寝てしまいたい。そう思って寮へ帰ると、さっきまで何度も思い出していた人が部屋の前で立っていた。地球が息を飲んだ。
「やあ、帰りが遅かったね」
夏油さん、思わず名前が口から零れると夏油さんは記憶の中と同じように、やはり微笑んだ。途端、カッと火がついたように顔が熱くなる。
「話があるんだ。少しいいかな」
拒絶したいのに、ぐるぐると脳内を巡るのは寝袋ではなく夏油さんの顔だ。手だ。厚い胸板だ。急に憑き物が落ちたように素早く私は夏油さんを部屋に招き入れる。ほぼ無意識だ。深層心理が彼を求めている。
「ありがとう」と微笑んだ夏油さんは迷いなく部屋に足を踏み入れ、土臭い私に構うことなく、その大きな体躯を寝台の上に転がした。平均的なサイズの寝台は彼には小さく、踝から下がはみ出している。普段私が眠る場所に夏油さんの髪や肌が触れていて、気恥しさで目線が泳ぐ。どこを見ていいのか分からずに天井を見上げると、夏油さんは静かに喋り始めた。
「私ね、彼女が出来そうなんだ」
肩が跳ねる。思わず夏油さんを見ると視線が交わった。喉がひくつく。
「……前に、言ってた。告白してきた人、ですか?」
随分情けのない声だ。震えが誤魔化されていない。あの寝袋が静かに息をしているようだ。酸素を吸って膨らみ、二酸化炭素を吐き出して萎む。そんな様子が頭に広がる。
「違うよ。別の人」
「へ、へぇ……良かった、ですね?」
「……いいのかい?それで」
質問の意図が分からない。思わず首を傾げた私に向けて夏油さんが横になりながら手を伸ばした。向けられた手のひらは大きい。
「私に近づく女全てが憎いだろう?許せないだろう?やりきれないだろう?それでもいいんだよ、私は。私は〇〇が可愛くて仕方ないんだ」
本格的に言葉の意味が分からなくて、気付けば私は床に座り込んでいた。足腰に力が入らない。そんな私を夏油さんがじっと見つめていたが、たっぷり数十秒してから、夏油さんは身体を起こして清潔なシーツの上に胡座をかいて座った。大きな足。見上げる顔はやはり笑っている。
「かなた、可愛い私の後輩。私に彼女が出来てもいいのかい?」
「……嫌、です」
「他の女が私に触れていいのかい?」
「嫌、です」
「他の女が視界に入っていい?」
「嫌!!です!!!」
沸騰した。ぐつぐつと煮えている。熱に浮かされた私は実際自分が何を言っているのかすら分かっていないが、それでも熱が私を焦がして、背中を押す。
「嫌です。嫌、嫌、嫌、嫌、嫌!!!!夏油さんは夏油さん、は、夏油さんは絶対に渡さない夏油さん夏油さん夏油さん夏油さん」
「うんうん、そうだね。よしよし。おいで」
再び手を差し出された。伸ばされた手は私の眼前で揺れている。私はその手に丸めた手を重ねた。
「……わん」
「いい子。私、犬好きだよ」
その日、私は本当の犬のように丸くなりながら夏油さんと一緒に眠った。導火線は見当たらなかった。




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