BLUE FLAME


185センチから見える世界はどんなだろう。
同じ世界が見えているようで、きっとそれは違う世界なんだろうなと隣に座る同級生を見て思う。背は高いけれど姿勢が悪いからもう少し低めの目線かもしれない。腰を滑らせてシートに浅く腰掛けている夏油は青空を眺めている。

「見て、かなた。あの雲、犬みたいだ」
「んー……見えない」
「ああ、そこからだとまだ見えないか。カーブを曲がったら見えるかも」

車に揺られながら窓ガラスの先にある空を指さした夏油が振り向いた。流れる景色の向こうにはビルが立ち並び、そのちょっと頭上にある青と白のコントラストが眩しい。補助監督の運転する車は安全運転で滑るように、山間部を抜けた緩やかなカーブを曲がった。キラリと差し込む光に一瞬目を細める。
夏油の額には汗が一筋流れていた。季節は梅雨と真夏の境で、そろそろ梅雨明けだろうと蝉時雨が忙しなく言っている。じわじわ。夏油の額に浮かんだ玉のような汗がこめかみを通って顎ラインに伝う。着込んだシャツの中へ隆起した筋肉の筋を通っていく汗もあるだろう。
目が離せない。
なぜだか夏の光を浴びる夏油は1年前より輝いて見えるから、その185センチの世界に今も思いを馳せる。私の視線に気が付いた夏油が「どうかした?」と顔を覗き込んでくるので思わず「雲」と呟く。

「ああ、さっきカーブ曲がったから……あ、ほら、あれだよ」

少しだけどきりとした心臓を窘めてから窓の外を覗くと突き抜けるような青の中に白い犬がふんわりと浮いていた。ビーグルだろうか。巨体の犬が空を駆けている。車は時速60キロで駆け抜けているというのに、それでも追いつけない犬の腹部の辺りには強い風が吹いているのか白い毛が離れたりくっついたりを繰り返していた。とても大きな雲なのにカーブを曲がるまで見えなかった。やはり、私と夏油では見えているものが違うんだ。隣にいて、汗ばんだ右手の小指と左手の小指が触れているのに、どうしたって同じ世界は見えないんだと思う。身長差があればそうなのか、という気持ちと身長差ごときで同じ世界が見れないなんて、とも思う。その鋭くて優しい双眸に映っているものを見たいだけなのに、それは難しいことなのだ。

「……ねえ、夏油。汗ふかないの」
「ああ、そういえばタオル忘れたな」
「汗ふきシート1枚あげるから拭きなよ」

必需品をあれこれ詰めたスクールバッグから買って間もない汗ふきシートを取り出して夏油に渡した。せっけんの香りと書かれた青色の汗ふきシートは男子でも使えるものだろう。ありがとうと受け取った夏油は1枚だけ取り出して額や首筋の汗を拭っていく。
少し残念な気持ちになるのはなんだろう。
私から言い出したのに変な気分だ。居心地の悪い気持ちを抱えていると補助監督の落ち着いた声音が耳に届く。

「お2人とも、もう少しで現場に着きます」

「はい」という返事は低音と高音が重なった。私はそれについ振り向くが、夏油は変わらず窓の外をじっと覗いていた。私だけが動揺しているみたいで顔がじんわりと熱い。大して汗もかいてないのに汗ふきシートで顔を拭くといい匂いがした。今、夏油も同じ匂いをさせているんだと思うと尚更顔が熱かった。


現場は元ホテルだった。ロッジを連ねるタイプのホテルで近々再開発で潰される土地らしい。事前の調査で呪霊が多く確認された為に夏油と私が派遣された。等級自体は2級ではないかという話だったが、なにぶん数が多いとのことで夏油が割り振られたらしい。適役だ。

ホテルの看板の前で車を降りると、昨日の雨の影響もあって噎せ返るような湿度が肌にまとわりつく。思わず顔を顰めると夏油も同じ顔をしていた。汗が吹き出るが、防御策でもある制服を脱ぐわけにはいかないのでジリジリと焼けつける陽光をこれでもかと浴びながら敷地に足を踏み入れた。道の先で陽炎が揺れている。少しあって空間が薄暗くなる。帳だ。これで暑さも少しはマシになるかもしれない。

「かなたは右手、私は左手を行こう」
「分かった。合流はここで」
「ああ。じゃあ気を付けて。何かあったらすぐに呼んでくれ。助けに行くから」

別にいいよ、と言おうとしたのに夏油の顔が真剣そのものだったので分かったとしか言えない。そんな私の頭を軽く撫でた夏油は微笑んで、そのまま左手の道を進んでいった。
残された私の耳にも呪霊の声が聞こえる。劈くような悲鳴と笑い声、そして恨み言の混ざった泣き声。
調査報告の中には亡くなった人数も書いてあった。5人。大学生と社会人の若い男女である。
どうやらこのホテルは地元では有名な肝試しスポットにもなっているとのことで、いなくなる人の正確な人数は分からないらしい。つい先日も、とある大学のサークルメンバーがごっそり行方不明になり、そのタイミングで『窓』の調査が入ったため偶然にも助けられた学生たちがいたとのことだ。そのうちの1人は未だに入院中であると書類に記載されていた。肝試しスポットというのは呪術師にとって最も「勘弁してほしいスポット」だ。とはいえ、噂を制限するというのは難しい。
私たちは日々が平和であれと思うのに、非術師は危険に晒されているとも知らず、自ら危険に足を踏み入れるのだから分からない。
見えている世界の違いか。
少し気合いを入れ直して拳を握ると、先程の汗ふきシートの匂いが香って頭を振った。


任務は滞りなく終わった。すぐに追加の『窓』が現着して、私たち2人の仕事は無くなった。呪霊をあらかた祓うと、ロッジの中から発見された白骨化した遺体と、その途中の遺体があがったのである。全てが呪霊の仕業か判断がつかず、そこから先は『窓』の仕事だと後任に引き継がれた。
その頃には夏油も私も汗で濡れ鼠のようになっていた。ロッジ内は密室となっており、籠った熱気のせいでほぼサウナ状態だったからだ。朝セットした髪も汗でべっとりと顔に張り付き、化粧はぐずぐず、夏油の髪も跳ね放題となっている。集合した私たちは互いの崩れ具合に笑い飛ばしてやろうという気概はありつつ、それでも暑くてそれどころではなかった。ギリギリ歪んだ顔で口角を少しあげるだけに留まる。
そんな私たちの目に止まったのは1つの看板だ。『水遊び場はこちら』という木製の看板。それはどうやらこのホテルの敷地内にあるものらしい。
顔を見合わせた。さっきまで死んでいた夏油の瞳がきらりと輝く。文字通り水を得た魚だ。思わず笑いがこみあげた。
『窓』はすっかり各自の仕事に集中しており、私たちに意識は配っていない。夏油はシーっと人差し指を口元に当ててから、看板が指す方向へ歩き出した。敷地の外で待っている補助監督にバレないよう、こっそりロッジの間を抜けて奥へ進む。辺りは雑草が繁り、崩れかけの順路看板が無造作に刺してあったが熱で溶けた思考はとにかく冷たい水を求めて私たちを歩かせた。

暫くロッジの連なる道を進むと開けた場所に出た。地面には円形に小さな木材が埋めてあり、その円形の中にだけ細かい砂利が敷き詰められてある。どうやらその下はコンクリートか何かで埋めた場所なのか雑草はちらほら小さいものが見えるだけだ。その中央にはお目当てのものがある。スプリンクラーだ。夏油は小走りでスプリンクラーに近付き、固まっていた落ち葉をどかせる。

「これ動くのかな」
「スプリンクラーにレバーがついてるタイプだ。回せば出るかも」
「出てくれ頼む」

手を合わせて祈る私とレバーを弄る傑はもう限界ギリギリである。頼む頼むと藁にもすがる思いでいると、ギッという錆びた何かが動く音がした刹那、生暖かい水がスプリンクラーから溢れ出た。再び2人の驚いた声が重なる。始め勢いが弱い上に生温い水だったが、暫くすれば思い描いていたスプリンクラーの勢いで冷たい水が周囲に巻かれ始めた。あまりの冷たさと激しさに夏油も私も自ら逃げようと走り出すが、背中や後頭部に勢いよくかかる冷水は冷たくて気持ちがいい。シャーッという音が私たちの小さな悲鳴を飲み込んですっかり冷やしていく。すぐに上着を脱いでそこら辺に放り投げ、シャツのまま水に向かった。キラキラと日差しを受けて輝く冷たい水が体温を奪っていく。

「つめた!これ、やばくないか!」
「もう全身びしょ濡れ!だめだ、これ!」
「あはは!縛ってる意味ないな!」

強い日差しの下で夏油が髪を解いた。濡れた髪が水滴を弾き飛ばして光を放つ。スローモーションに見えたその向こうでは夏油がこれでもかと破顔していて、ぎゅうと胸が締め付けられた。下がった眉、大きく笑う口、細められた瞳。途端にドクンドクンと脈打ち、水の冷たさが丁度良くなる。いや、水が私に触れた瞬間蒸発しているんじゃないかと思われるような温度だ。じんわり体温の熱と冷水に挟まれて身体の輪郭が溶けてぼんやりしていると髪をおろした夏油が振り返る。
ねえ、その顔ずるいよ。

「……かなた顔赤い。熱中症かな、見せて」
「いや、いい」
「なんでだよ。ほら、見せて」
「いいって!」

私が必死に顔を隠すと、夏油は意地でも私の顔を見ようと近付いてきた。私よりずっと大きな手が私の手を容易く攫って、顔はものの数センチまで近付く。じわりと瞳から汗が滲んだ。

「……ほら、顔赤い」
「顔、近い、からだと思う」
「そう?……車に乗ってる時から顔赤かったよね」
「え?」

見てたの?と私が言い切る前に夏油の額が私の額とくっつく。夏油の額はひんやりと冷たくて気持ちがいいのに、ぽろりと涙の膜が零れた気がした。目頭が熱い。暑い。夏油の後ろで水が勢いよく吹き出して虹を作り出していた。

「窓ガラス越しに君のこと見てたからね」

185センチの世界で見えていたのが私だなんて、それはちょっと世界が出来すぎてない?

そんなことを思いながら私の世界は夏油一色になった。




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