今日もしあわせ


夏油先輩はいつも怪我をしている。
顔、首、腕、足。身体の動作にはそれほど困らない空白の肉体部分からはいつも、血の匂いがする。家入先輩は都度治しているようだけれど、いい加減にしろと呆れた口調で窘められている様子を見掛けたことがある。

先輩は学年が1つ上で、話題の中心にいる。周囲から奇跡の世代という言葉と問題児という言葉を織り交ぜられ、それら全てをまるっと背負って颯爽と過ごしていた。五条先輩と夏油先輩、家入先輩の3人は仲が良く、とてつもない実力者の集団なのにフランクだ。昨年まではもう1人先輩がいたそうだが、その先輩がどうなったのか聞いたことはない。
夏油先輩は五条先輩の親友というポジションで語られることも多いが、先輩自身のポテンシャルの高さから添え物ではなく、彼を中心とした話題も尽きない。その上先輩は後輩に対する態度も優しく、時折五条先輩と悪ふざけをして七海や灰原を振り回すこともあるが、それは節度のあるコミュニケーションだと傍から見る私でも分かった。唯一の女子である私に何かを押し付けたりしないところからも、それはよく分かる。そんな先輩がいつも怪我をしているのは誰もが首を傾げた。

先月は足を折って、数日間松葉杖で歩き回っていた。今週は両腕を怪我したらしい。筋肉のついた太い腕を包帯で白く染めていた。体育館から和やかに出てくる先輩は暑さで袖を捲っていたが、そこから露出した腕はシャツと同じ色をしていて、どうにも痛々しい。

私の同級生である七海と灰原もそれに気が付いて声を掛けたが、大したことじゃないからと笑って返事をしている先輩。へらりと笑った顔に貼り付けた双眸に感じる仄暗さが、私は怖い。でもそんな先輩を見れば見るほど目で追ってしまう自分がいる。危うさというのだろうか。堂々とした立ち姿を崩すほつれに私は触りたかった。


授業中、1番窓側の席に座る私の耳に届いた先輩の声は楽しげだった。明るい声音に引かれ、外に耳を傾ける。内容までは聞き取れず、教壇に立ち、私たちに背を向ける先生を確認した私は窓から身を乗り出して外を覗いた。隣の席の七海から小声で注意されたが、少しだけ!と身振りで伝え、再び外を覗く。声の主はグラウンドで五条先輩と取っ組み合いをしていた。地面を蹴る音と肉のぶつかり合う音、手数の多い先輩の攻撃にカウンターを繰り出す五条先輩の動きは同じ人間だとは到底思えない。訓練の一環であるだろうが、実戦に負けず劣らず凄まじい。
特級の五条先輩とあれだけやり合える先輩の実力は計り知れない。目で追うことがやっとの攻防戦にただ圧倒された私は間抜けに口をぽっかりと開けながら見つめていた。緻密行動と計算を絶え間なく繰り返しながら大胆な手を打ち出す先輩たちにはくだを巻く。
しかしその時、バキリという硬いものを砕く音がして思わずガタリと立ち上がった。土埃が勢いよく巻き上がり、その中を突き抜けるように見慣れた身体が吹き飛んだのである。
教師に「どうかしたのか」と問われるが、それどころではない。先程見たものを必死に考える。五条先輩の拳を綺麗に受け止めたかと思えた先輩の腕は不自然な方向に曲がり、そこからバランスを崩して一瞬のうちに吹っ飛んでいったのだ。恐らく骨は折れているだろう。痛々しい音に顔を顰める。隣に座る七海が「凄い顔ですよ」と言っていたけれど、殆ど耳に入らなかった。
だって、あれは。
先輩はわざと五条先輩の攻撃を受けたように見えたのである。
そこから私はすっかり上の空で教科書が逆さまだろうと気付かずに授業を受け続け、授業終わりの号令で教室を飛び出した。全身が心臓になったような鼓動が世界を揺らす。縺れる足を必死に動かし、廊下を駆け抜け、階段を二段飛ばしで駆け下りた。人気のない廊下に私の足音だけが響き渡る。早送りで流れていく景色の中を抜け、やがて医務室から出てきた先輩の目前で足を止めた。
「せん、ぱい」
「そんなに息を切らせてどうしたんだい」
先輩はいつもと変わらない。柔らかく微笑み、私たちに度々飲み物を奢ってくれる時と同じ顔だ。制服をしっかり着込んだ先輩からは医務室を漂う消毒液の匂いが漂う。脈が五月蝿い。無意識のうちに握り締めた拳が僅かに震えていた。
「先輩、あの、わざと怪我してますよね」
どうしてですかと問い終わる直前、先輩は刹那、目を柔らかく細め、掛かる影の中でひっそりと笑った。愛おしげに何かをみつめている。思わず自分の背後を振り向いたが、ただ冷たい廊下が続いているだけだ。再度先輩を振り返る。黒々とした黒曜石のような瞳が地の底を映しているようでひやりとした空気が背筋を撫でた。
「……怪我をするとね、見えるんだよ」
「何が、ですか」
いやに喉が渇く。ふと犬のような浅い呼吸になっていた自分に気が付いたが、どうしようも出来ず縋るように先輩を見た。黒い瞳に私は映らない。
「死んだかなたがね。いるんだ。大丈夫?撫でてあげるねっていつも私の怪我を撫でる。怪我をしている時にしか彼女は来てくれないんだ。いや、でも、いつでも会えるねかなた」
膝が笑った。絶対零度を纏ったような言葉の羅列が私の体内に入り込み、全身が寒さで震えてしまいそうだ。事実私の歯はカタカタと鳴った。恐ろしく冷たく、同時に対比するような先輩の優しい笑みが私の淡い恋心を殺したようだった。




×
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -