君のそばにいたい夜


私というカタチを保てなくなる時がある。
思考がぐずぐずに溶けて気持ちと思想が油と水のように交わらずに揺蕩う。そうして自分の輪郭も分からなくなって、悩み尽くして考え尽くした先にはいつも彼女の影がちらついた。
かなた。
黒く塗り潰された深夜の街で転がっていると、余計に思考はずっとずっと奥へ落ちていき、私の心臓が悲鳴をあげる頃に彼女の緩やかな口角が閃光のように思い出された。だから私は、こんなことをする資格のない人間であるというのに安っぽい扉の前に立ち尽くしている。


どろりと溶けてしまいそうな私は身体を引きずってアパートの扉の前に立ち尽くしていた。かれこれ3時間はこうしているだろうか。ドアスコープを覗くほどの距離感、ものの数センチのところにびったりと張り付き、血で濡れた両手でそっと扉を撫でる。いや、非術師を殺すことにも慣れた私は手を物理的に汚すことはないし、事前に手も洗って消毒までしている。だから汚れてはいない。いや、汚れていることに変わりは無いのか。思考が定まらずに、ただ無感情な扉を見つめた。ドアスコープだけがついた扉。衝動で頬を寄せたくもなったが、そこまで踏み入る勇気がない。天糸の綱渡りのようなものである。あまりにか細い線引きでも確実にそこにあり、それがまた私をぐらぐらとゆらした。

錆びた階段が剥き出しの安アパートにセキュリティなんてものはない。精々お飾り程度の『宗教お断り』のシールくらいだろうか。こんなもので狂った思想家共を拒絶出来るのか甚だ疑問であったが、それよりも玄関前に置かれた小さな犬の置物に目がいった。3頭の犬が仲睦まじげに並んでいる。どうせこの置物の下に鍵を置いたりするんだろうな。かなたはどこか不用心な上に忘れ物が多いから、家に入る為にそういう策をとるのだろう。ぐずぐずの頭でも想像がつくかなたの軽はずみな行動に思わず右口角だけがぴくりと動いた。

ネームプレートもない古い扉の向こうではきっと彼女が眠っている。東京呪術高等専門学校を卒業して一般の大学に進学したのだと風の噂で聞いた時には正気かと思ったものだが、私よりずっと正気なのは誰しもが知っている。この先。このたかが数センチの扉の向こうで無防備に、呑気に、裸同然で寝ている彼女を思うと私は扉の前から動けなくなっていた。彼女が眠りについて3時間。あと1時間もすれば陽がのぼり始め、穢れた私を陽光で焼くだろう。それまで、見えも聞こえもしない彼女の寝息に縋る。離反した私にその資格はないのだと分かっていても、こうして暗闇に溶けて密やかに彼女を感じていたい。
こうしてずっと、ずっと。その息が絶えるまで、この冷たい扉を見つめる。



雨が降っていた。飛沫のような細かい雨は世界を随分と白ませて、思考を鈍らせる。雨の雫がぶつかっては線状に伝っていく様子をぼんやりと眺めていた。住宅街であるこの町は日付を跨ぐ頃になるとすっかり言葉を忘れたように沈黙する。その痛いほどの静寂の中で薬を温い水と共に喉に流し込んだ。体内へ流れ込む正気を保つための劇薬が水の中を広がるように溶けていく。

夏油傑が離反してから飲むようになった精神薬は夜に12錠、昼に6錠、朝に5錠、プラス頓服で不味い水薬が処方されている。苦くて吐いてしまいそうな頓服を買ってきたオレンジジュースのペットボトルに溶かして飲む。すると薬の味が誤魔化されていくらでも飲めるのだ。2週間分の薬を全て溶かして一気に臓器に浴びせる。

そのせいで大学に通っていても眠気でどうにも理路整然とした言葉は頭からすり抜けていくし、食べてる訳でもないのに体重が増えた。忘れ物もしない日がなくなって、すっかり家の鍵は犬の下に置くこと以外しなくなった。醜く崩れていく自分を見ると、尚更薬が手放せなくなる。負の連鎖を感じていた。あの日からずっと、人間の細胞のような螺旋階段を勢いよく転げ落ちていっている。

きっと、夏油が今の私を見たら誰なのか分からないのではないだろうか。深い隈は層を作って、1度居座ってしまってからは我が物顔でそこに居続けている。
つい「助けて」なんて思ってしまうが、私は何を救われたいのだろう。好きな男が人を殺して、何も言わずに自分たちの元を去ってしまって、私はそこから何を救ってほしいと思っているのだろう。時よ戻れとでも言えばいいのだろうか。なんだっけ、呪文。

「テクマクマヤコン テクマクマヤコン 夏油帰ってきて」

雨音に負けた惨めな声だった。
帰ってきてだなんて。よく言えたものだ。
帰ってきたところで死刑なのを、私は知っているじゃないか。
どこかで元気に生きていて、劇薬でしか意識を保てない私なんかのことを知らずに生きていてくれるだけでいいじゃないか。

そうだろうか。

どうだろうか。夏油は夏油のやりたいことをして、自由に生きて、他の顔も知らない女とセックスしたりして幸せになってほしい。高専のことなんか忘れて、人を殺して。人を殺す人間なんていくらでもいるのだから、そのうちの1人になって平凡な生活に落ちていけばいい。倫理観なんてクソ喰らえだ。

そうだろうか。

人を殺すなんて良くない。非術師を許せない夏油を許せない。裏切ったことが許せない。勝手に苦しんで、勝手に出て行って、私の頬に触れて「好きだよ」と言ったあの言葉を全部黒で塗り潰したのはお前なんだよ。ねえ、私夏油に幸せになって欲しいとは思えないよ。
でも死なないで。
そばに置いてなんて我儘言わないから。

再び、「そうだろうか」と思う。堂々巡りの言葉は浮かんでは消えてを繰り返し、そうして夜が過ぎていく。思考を飲み込んで全部ぼかしていく薬から走って逃げる。駆けずり回って薬から逃げているうちに朝が来て、逃げる先にはいつだって夏油がいる。笑って、手を差し伸べる君がいる。
もうどこにいるのかも分からない。

飲み込まれる寸前、カーテンの隙間から陽射しが差した。朝だ。赤べこのようにふらふらと揺れるノータリンな私はそれをぼんやり見つめる。夏油何してるのかなって。
どこで何を考えているのだろうって。

途端、口内に溢れた饐えた味に眼球を覆っていた水分が崩れ落ちた。
それでも日常は回り続ける。そのまま人間に似つかわしくない動きをしながら大学へ向かう準備をして外に出た。
玄関前だけが濡れていなかった。




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