リピート・モラトリアム


「待ってくれ」と背後から叫んだ男は全く覚えのない、でもどこか懐かしい顔をしている男だった。長い髪を1つに束ね、全身黒い服で身を包んでいる。まるで喪服だ。
思わず振り返った私に、力強く地面を踏みしめながら近付き、精悍な眼差しを曝したがその瞳は潤んで揺れていた。一歩踏み出す度に溢れ出してしまうんじゃないかと私は思わず手を差し伸べてしまい、それを男は筋肉のついた太ましい腕で掴む。近付くと男は大きい、自販機ほどある男である。
ただ私は仕事帰りに焼き鳥でも買って帰ろうかと遠回りする道を選んで歩いていただけだった。新卒で会社に入って1年目。誕生日に仕事をして、せめて何か好きなものを買って帰ろうとした。
ただそれだけだったのだが、どうしてこうなったのだろう。見知らぬ男は縋るように私の腕を掴んでいる。目を閉じて頬を寄せ、腕を絡め、決して離すまいとする様子になんだかきまりが悪い。何度か「あの」と声を掛けたが反応が全くなく、冷や汗が伝った。
すると首筋を伝う汗がいやに気になる。首に変な違和感があるのだ。まとわりつくような、へばりつくような、そういうじっとりとした違和感である。
なおも男は私の腕にしがみついているものだから、いい加減業を煮やした私は振りほどこうと動いたが、男はビクともしない。しかし、そこでやっと男は口を開いた。
「袖触れ合うも他生の縁ってやつなのかな。やっぱり君とは出会う運命なんだろうね」
言葉の意味が理解出来ず、はあ、と曖昧な返事をする私に男は再び視線を向けた。少し明るめの赤茶色の瞳にはどこか沈痛の色を感じるが、それが私にはどこか腹立たしく思えた。勝手だと思う。完全に相手のリズムに飲まれている自分を叱責し、剥がそうと努めるがどうにも叶わない。
「離さないよ。もうあの時を繰り返すのはごめんだからね」
「意味、分からない!警察呼びますよ!」
「分からなくていい。思い出さなくていい。警察は無駄だよ」
「無駄って、」
「無駄なんだ。私は顔が広くてね」
咄嗟に周囲に目を向けるが、誰も私たちを見ていない。空間を切り離されたかのように、まるで透明になったかのように誰の瞳にも私たちが映っていないようだ。ぞくりと背筋が震えた。何か異様な出来事に巻き込まれている。そう確信する材料は揃っていた。
男は優しく微笑んで私の服の裾を撫でた。
「ごめんね。少し皺になったようだ」
謝るのはそこではない。そう言いたいのにやたらと喉が渇いて声が出ない。はくはくと口を動かすだけの私に男は笑みを深める。
「そう膨れないでくれ、かなた。ああ、そういえば今世では苗字が小林らしいね。前の苗字の方が好きだったな。そっくり同じ名前とはいかないものだね。私も最初苗字が井口だったんだよ。でも君が私を探していたら見つけにくいと思って夏油の苗字の人を見つけて、養子縁組したんだ。だから今は夏油傑。君は……まあ、いいか。どうせ結婚したら夏油になるしね」
一気呵成に語り始めた男の言葉がいちいち背筋を冷やす。私の名前を知っているだけに留まらず、今世∞前の苗字≠ニ出てくる言葉は意味深だ。勝手に盛り上がっている男は満足したのか、悦に入った表情のまま私を引っ張り始めた。強力な腕力に思わず足が縺れ、そのまま足は勝手に男について行く。嫌だ嫌だと頭を振っても、腕は解かれる気配がない。
改めて異様な光景だった。私が叫んでも、無意味な抵抗を見せても誰も振り返らない。ちらりと視線を寄越すことすらないのである。首が痛い。腕が痛い。ぐんぐん前に進む男は歩みを止めない。恐怖で涙が滲んだ。嗚咽だけは出さないように飲み込んでいると、その静寂が彼自身を肯定するかのように思えたのかご満悦な笑顔で振り向いた。
「もう少しだよ。そうしたら君はせこせこ非術師に囲まれて仕事なんかする必要はないし、私とずっと一緒だ。この為だけに私は今世を生きてきたからね。前世は……まあ、いいか。君は覚えていないようだし」
相変わらず意味不明な言葉を喋る男だ。だが、男が私を知っているのは確かである。ならば会話を試みるのがいいかもしれない。話が通じるとは思えないが、震える声で話し掛ける。
「私のこと、知ってるの」
「知っているさ。1989年9月10日生まれ。ああ、これは前世の誕生日か。でも誕生日は同じだろ。乙女座。血液型はA型。桜木商事で営業事務をしている。小学校と中学校で吹奏楽部をしていたけど、人間関係が嫌になって高校では部活をやらなかったね。大学では少人数の友達に囲まれて楽しくやっていたじゃないか。良かったね。でも男友達には気を付けた方がいい。君には私がいるんだから」
堪らず嗚咽が漏れた。肩から腕が震える。
一体いつからこの男に見られていたと言うのだろう。
私の手首を掴んでいた男の手がするりと私の指に絡み、震えを殺そうとしていることが分かった。絡む指は恋人同士がするそれだ。男の指が私の指を撫でる。
「君の手は昔から温かいね。でも今は冷えてる。緊張しているのかい?分かるよ。私も緊張しているからね。……君のことはたくさん知っているんだよ。君のぬくもりには何度も助けられたからね。ああ、でも服の趣味は変わったよね。社会人になったからかな。君、昔は絶対オフィスカジュアルとか好きじゃないって言いそうだったのにね。不思議な感じがするよ」
とうとう眩暈がしていた。視界が遠ざかっていくような気がする。抵抗する気力を一切合切奪っていく男の言葉が脳内で響き渡っていた。まるで私の昔を知っているかのような言葉。いや、事実知っているのだろう。訳の分からない部分はさて置いて、それ以外は実際合っているのである。
逃げられる気がしない。
そのまま男は恋人気取りで私の手を取ったまま、マンションの入口を潜った。入ってすぐのエントランスには「bonheur」と書かれている。男が鍵を差したりしている動作をどこかぼんやり眺めながら単語のことを考えていた。思いつく英単語がなく、フランス語か何かだろうかと思っているうちに正面の自動ドアが開いてしまう。
「おいで」と有無を言わさない言葉で引っ張られ、強引に中に引き込まれる。清潔感のある大理石の廊下を進むと、大きなエレベーターが私たち2人を待っていた。
「どうして……私をここに、つれてきたの」
「疲れているね。安心してくれ、帰ったら私が食事を用意するから。君はゆっくりしていていいんだよ」
疲れているのはお前のせいだと言ってやりたいが、彼の見開いた瞳がそれを言わせない。目を見開いたり、満足そうに微笑んだりを繰り返す顔は端正が取れている分余計に恐ろしく映る。
エレベーターは最上階まで1度も止まることなく上昇し、滑らかに私たちを届けた。無機質な音にびくりと肩が揺れる。最上階の15階は落ちたら瞬く間に肉塊へと変わるだろう。改めて逃げ道の無さを感じざるを得ない。
男の腕に引かれて一室に滑り込むと、またその異質さに息が詰まった。飛び出た小さなひめい。
生首の絵が大量に置かれているのである。
全て似たような女の生首で、みな同じ表情だ。口元は優しく微笑み、僅かに開いた瞼からはうっすら光を失った瞳が覗く。そこから一筋の涙が零れていた。そんな絵が玄関から何枚も何枚も、空間を埋めるように置かれている。たじろいだ私はそのままへたりと玄関に座り込んだ。足腰が立たない。そんな私の顔を男が覗き込む。
「やっぱり生きている君がいいね」
前世の君を殺したのは私だったんだよ、と放たれた告白を思わず私は首に触れた。線を引くように一線、切れ目が入っていくような感覚がして思わず口を押さえた。びりびりとした重力さえ痛い。
「君が悪いんだよ、かなた。覚えてない?ああ、そうだったね。私の大義を諦めるか、それが出来ないなら自分を殺せって君は私に言ったんだ。酷い話だろ。全部かなたのせいなんだ。酷いことを言うくせに、君が死ぬ時に私の気持ちごと殺していかなかったんだから。君に分かるかい?君の首を後生大事に抱えて生きたんだよ、私は。君の死を抱えてずっと、だから、私は」
震える私を抱き締める男の腕はじんわりと熱かった。私の肩口が何かで濡れ、空気が触れるとひんやりと冷たい。
喪中をするには長すぎるんじゃない、と私の頭の中で誰かが言った。




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