波紋にサカナ


太古の魚を思わせた。
雨の滴と強い風に煽られてたなびく黒髪は大きく揺れ、この曇天を泳いでいるように見えた。その魚は緩慢な動作で少し振り向き、そしてその足元に転がる赤い身体を踏み付けた。気だるげな横顔は瞳だけで私を見つめている。
「見られてしまったな」
魚が喋った。いや、人間だとは分かっているのだけど、あまりの美しさに人間と運命が分かたれた太古の魚がどうしても頭にこびりつく。光の反射する堅い鱗のような瞳がギラリと光った。その魚の周りには複雑なカタチをした人智から外れたものが浮遊している。つい目でその動きを追うと、やがてその一部は魚の右手に集約されてぽっかりと開いた穴のような黒い球体へと変貌した。その球体は牙の生えた魚の口に滑るように収まって食道を流れていった。ごくりという音がいやに耳につく。魚の顔は血に濡れていて、まるで捌かれている最中に動き出したようだったが、捌かれているのは人間の方だった。ぱっくりと顎下から下腹部まで裂けた人間の死体────同級生が転がっており、濁った瞳がこちらを見ていた。雨が赤を広げ、その波紋の淵が私の足元まで届く。
「……君は見えているのか」
「何がですか」
「コレだよ」
魚が完全にこちらへ向き直ると、面白いくらいその姿はただ美しい男性の姿へと変貌を遂げた。切れ長の瞳、薄い唇、厚い胸板。その男は全身をしっとりと濡らし、重そうな黒を身にまとっている。その黒が鱗のようだ。柔らかい部分を包み込む鎧の鱗。
男は静かに左手を上げると、浮遊し続けていた不思議な生き物がキュルキュルと鳴きながら男の腕に絡み付いた。可愛げのある動きと複雑怪奇なカタチの差が実にグロテスクだが、姿自体は見慣れたものなので「はい」と答える。男は「へえ」と興味があるのかないのか分からない返答をして空を見上げた。雨を吸い込んでどっぷりと太った雲が落ちてきそうな空だ。
私はこの学校という水槽で飼われているメダカだった。皆が同じような姿、同じような動きをしており、異端は死ぬ。与えられた餌に素直に食い付き、観察されていることを知りながら平然と過ごす。そうやって生きることを求められているメダカだ。そのメダカの中でもきっと私は潜在的異端であると自分は気付いていて、そして周囲もそれを肌で感じているようだった。だから私には友達と呼べるような人はいなくて、どことなく避けられていた。度々、私は透明なメダカになった。
そんな自分を見つめる男の眼差しは射抜くような鋭さとどこか憐憫に濡れていた。男は顎に手をあて、何やら貼り付けた笑顔で思案したかと思えば、ふいにポンと手のひらを叩いた。その音につい首を傾げると、小脇に抱えていた分厚い魚図鑑を落としかけて抱え直す。
「君、この世界で笑えるかい?」
予想だにしていなかった言葉に結局私は魚図鑑を濡れたコンクリートの上に落とした。


魚図鑑を見る。見知った魚もいれば誰も見たことがない魚が想像で描かれていたりもした。太古の魚なんてものはその筆頭で、歯の化石しか残っていないのによくもまあ全身を想像で描けるものだなあと絵を描く人に感嘆する。
先日、つい1週間前のこと。私の同級生4人は封鎖されていた屋上で惨たらしく死んでいた。その場に偶然居合わせた私が見たのは太古の魚を彷彿とさせる美しい男で、その男は私に「笑えるのか」と聞いてから颯爽と姿を消した。私を探しに来た副担任があの惨劇に遭遇してしまったからである。悲鳴を上げる副担任の声に肩を窄めた男はそのまま空へ消えていった。もし、副担任が来なくて、もし、私が「笑えない」と答えていたらどうなっていたのだろう。私もあの曇天を泳ぐことが叶って、弱々しいメダカなんて卒業出来たのだろうか。そんなことを考えて魚図鑑の紙面を指でなぞる。彼はなんだろう。シーラカンスのような感じではない気がする。尾鰭はとてもそれらしいけれど、あんな大人しい魚だとは思えない。もっと鋭くて、肉食で、そして大きい。ペラペラとページを捲り、指先でなぞる学名に手が止まった。『アリゲーターガー』。こんな感じな気がする。出会ってしまったら世界丸ごと変えられてしまうような危険な大きさ。詳細に目を向けると淡水魚であるが、海域に生息する個体群もある珍しい魚であると記載されていた。淡水と海水は環境が違う。その違う環境を跨いで生きる魚。あの男もそうなのだろうか。最近はそのことばかり考える。
だから、無視をされても気にならなかった。私の分のプリントが回ってこなくても、私だけグループに属せなくても、それを周囲が笑って担任すらそれを笑い飛ばしても。侮蔑する姿の後ろで、あの日と同じように魚が曇天を泳いでいるような気がして、踏み躙られることは気にならなかった。
でも、やっぱり笑えなかった。
いつからどうしてこうなったのだろう。小学校の頃に変なものを見えると親友だと思っていた子にこっそり伝えたところからだっただろうか。そうしたら次の日みんなその話をして、全員が私を嘘つき≠ナ痛いヤツ≠ニ笑ったからだっただろうか。そんな気がする。過去に意識をもっていかれると泳ぐ魚の姿も薄くなる気がして頭を振った。私には魚図鑑があって、美しい古代の魚がこの世界のどこかにいて、私はそれだけ考えていればいいのだ。何度も小声で自分にそう言い聞かせた。

あの魚の男を探そうと思ったのは、体育が終わって教室に戻ってきたら私の魚図鑑がゴミ箱に捨てられていたからだった。破かれたページはよりによって『アリゲーターガー』のページで、それはあの日から何度も撫でたページである。悲鳴を上げるところだった。ただ、その悲鳴を飲み込んだところで胸を占める寂寥は増すばかりで痛む鼻の先を押さえても仕方なかった。泣いてしまいそうだ。そんな私のすぐ後ろでくすくすと笑う声が聞こえる。私はメダカの群れにいるイワシなのかもしれない。紛うことなき異端である。そのまま虚無の闇に飲まれるのが怖くて、初めて学校を飛び出した。息が切れて、冷たい空気が気道を通って濁った音をさせるまで一心不乱に走り続けた。どこに向かうでもなく。今自分がどこを走っているのかも分からない。冷たいコンクリートすら私を拒絶して、急かすように私を走らせた。
どれくらい走ったのだろう。足を止めたわけでなく、崩れ落ちた私は全身で脈を打っていた。ドッドッと忙しない鼓動が私を締め付け、崩れた足は震えている。ぽつりとコンクリートが濡れた。零雨だ。静かにコンクリートと私の頬ばかり濡らしていく。とめどなく静かに降る雨は孤独感をより強めた。
私は息がしたかっただけだった。
何か、縋れるものが1つでもあれば良かったのに人間というものはどうしても愚かだから、その唯一すら他人のものであれば気にならない。民主主義国家だからみんなが良いと思えばそれでいいのだ。大衆が人を傷つけて殺したって別に構わないのだ。その縮図が学校という学び舎なのだから飲み込まなくてはいけない。
どうして?それは私がイワシだからだ。弱くて、人と違うから。
「また会ったね」
頭上から声がした。でも顔を上げる気力がない。そのまま濡れながら項垂れていると、大きくて分厚い手が伸びてきて私の顎を掬った。鱗の瞳。風にたなびく尾鰭。たった1週間しか経っていないのに何世紀も跨いで再会したような不思議な感覚がした。思わず黒い着物の袖を掴む。両手で掴んで体重を掛け、そのまましがみついた。縋り付くようにしがみついたのに男はビクともしない。
「私、は!あなたのような魚になりたい!」
髪を振り乱し、飲み込んできた言葉が泡のように溢れ出した。ぱちんと泡が弾ける。
「もう見下されたくない!嘘じゃない!見えるものを否定されたくない!私の世界を!否定しないで!もうやだ!誰か」
助けてと言おうとした。でもその言葉は男に抱き締められた瞬間に消え失せた。飲み込む隙すらなかった。
「私とおいで。珊瑚にならしてやれるかもしれないよ」
私は淡水から海水へ落ちた。




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