疾れ青嵐


思い出が剥がされる音がする。
90と書かれたカセットテープは手のひらほどのテープレコーダーの中で耳障りのいい声を流し始めた。懐かしい声は脳内で反芻する声より僅かに幼く、そしてか細い。もっとハキハキと喋っていたように思えるのは私がそれだけ彼女の声に耳を傾けていたからなのかもしれなかった。


初夏、突然暑くなった気温に耐えきれず衣替えをしていた時だった。からりとした暑さの中で部屋から覗く木々は青々と繁り、その青く反射した光が部屋に差し込んでいる。風に揺れる黄色い花の名前を私は知らない。
美々子と菜々子は学校に通っており、それで不在の昼下がりに1人、押し入れにしまいこんだ衣装ケースを取り出した。年に2回入れ替わりをするだけの衣装ケース。汚れが気になって濡らした雑巾で全体を拭いてから蓋を開いた。香る防ダニ剤はすっかり見慣れた長方形で毎年買っている。すっかり私の衣服は袈裟がメインになっていて、私服と呼べる衣服は少ない。年中同じ服を着回していることもあって、私の夏服は美々子と菜々子の衣装ケースの隅に小さく畳まれているだけで済んでしまっていた。
2人が帰ってきてしまう前に済ませてしまおう。
色とりどりの袖の短い衣服を取り出し、代わりに布が厚い時期外れの衣服を収めていく。菜々子にせがまれて買ったピンクの子ども服、美々子が泣いて欲しがったスカートを手に取ると穏やかな気持ちが胸に満ちていくのを感じた。子どもは成長が早いからもう着れない服もあるかもしれない。それは後で確認しよう。
防ダニ剤を取り替えて再び蓋をしようとした時、小さな巾着が衣服に混ざっていることに気が付いた。はて、こんなものあっただろうかと袋を開くと中にあるのは懐かしのカセットテープだった。90分のテープが4本。手に取ってみても詳細は書かれていないが、ハードケースの隅にマッキーで日付が入っている。『2006年7月2日』である。2006年。それはまだ私が16の頃だ。途端に蘇る青い春の片鱗に頭を振ったが、焦げのようにこびりついて離れない。声が、揺れる頭髪が、横顔に当たる光の筋が、眼差しが。
ほぼ無意識だった。
僅かな記憶を頼りに埃の被ったテープレコーダーを倉庫から見つけ出し、その中にテープをセットして再生を押す。ハッと我に返ったのは手のひらから彼女の『ねえ、夏油』という声が聞こえてからだった。音声は続く。

『タイムカプセル作らない!?』
『タイムカプセル?』

オウム返ししているのはいつかの私だ。

『そう!今これ録音してるんだけどそのタイムカプセルに入れようかなって』
『え、録音するならそう言ってくれよ』
『ごめんごめん!ほら、何か喋って!』
『無茶ぶりするなあ、えーっと10年後の私元気にしてるかい?ジャッキー・チェンってまだアクションやってる?』
『本当にジャッキー・チェン好きだよね』
『ブルース・リーも好きだよ』

笑いを含んだ音声は鮮やかな色をもって空間に満ちていく。
そうだ。こんな会話をした。
今から4年前で、美々子と菜々子に出会う1年と少し前のこと。その日は彼女と2人の任務で山中の寂れた旅館に宿泊した。補助監督は別の任務へと赴いてしまい、男女だというのに一部屋に押し込められてしまったのだ。
忘れていたくせに花開く記憶は滑らかに彼女を映し出す。心臓が見えない誰かに握り締められ、そこから気道までを絞りあげられた。詰まる呼吸が苦しくて、とっくに棄てた筈の私が顔を出してこう言う。
「かなた」
この期に及んで未だ彼女の名前を呼ぶとは滑稽である。巻かれる茶色のテープは私の心情なんて知ったことかと疾り続けた。


古びた旅館はほぼ民宿と言えるような小さな規模の建物だったが、それでも山中にある貴重な宿泊施設であったこともあって客室はほぼ満室であった。観光地でもないその宿が埋まることはないという目測をしていたのだろう補助監督は必死に受付と話していたが、やがて肩を落として私たちの元へと戻ってきた。一部屋しか取れませんでしたという報告に思わず胸が踊ったのは許して欲しい。片思いという不安定な感情は簡単に揺さぶられるのだから。そんな私よりも早く「大丈夫ですよ」と返したかなたは笑っている。夜中まで遊ぶことしか頭にないのだろうけど拒絶されなくて安心した。
年中人手の足りない呪術界において補助監督も例外ではなく、私たちを部屋へと送り届けてから急ぎ足で出ていく補助監督の背中を私たちは見送った。車で1時間する場所にこれから向かうらしい。現在時刻は20時。朝も昼も夜もない生活で馬車馬の如く働かされる生活が、卒業したら私たちにも訪れるのだろう。呪術師という仕事が人生そのものになっていくのは覚悟していたことだが、それでも気分が滅入る。
夕飯時を過ぎてチェックインした私たちは和室の中央に置かれたテーブルにコンビニで買った弁当を広げ、小さなテレビを2人で並んで見ていた。彼女は唐揚げ弁当で私はハンバーグ弁当とホットスナックの唐揚げ、それと焼きたらこおにぎり2個である。
「本当によく食べるよねえ」
「知らないのかい?私の消費カロリーは1日で3万キロカロリーなんだよ」
「え!嘘!?」
「うん。嘘」
いや、嘘なんかい!とお笑い芸人ばりのツッコミを見せたかなたはころころと笑ってから唐揚げを喉に詰まらせていた。ゲホゲホと咳き込む彼女の背中を撫でると、シャツ姿の彼女の背中にはブラのホックが浮き出ていて、それが指先に引っ掛かる。どきりと震えた。ドクンドクンと胸を叩く音がテレビの音より大きい。ひな壇から溢れる笑い声が遠くに聞こえた。再び笑うかなたには私のこの心情は露にも思わないことだろう。ほんのりとした寂しさと同時に、ではどうすれば意識してもらえるのだろうとも思う。このままこの薄い背中に手を這わせて押し倒してしまえば?薄いピンク色の唇に噛み付いてしまえば?それとも何も言わずに力強く抱き締めて腕の中に閉じ込めてしまえば私はクラスメイトから気になる男子に昇格出来るのだろうか。
そんな悶々とした思考に囚われていると、「ねえ、夏油」と彼女に声を掛けられた。思考に飲まれていた私は気付かなかったが、気付けば彼女は弁当のゴミを片付けて居住まいを正している。そして可愛らしい唇は流暢に動き続けた。
「タイムカプセル作らない!?」
突然のことにオウム返しをすると、彼女の手の内に収められた銀色のテープレコーダーを見せつけられた。彼女の目はきらりきらりと光っている。完全に玩具を見つけた子どもだ。
「そう!今これ録音してるんだけどそのタイムカプセルに入れようかなって」
「え、録音するならそう言ってくれよ」
私が苦言を呈しても彼女は機嫌良さげに笑いながらごめんごめんと悪びれもなく謝罪した。そこから彼女のもつテープレコーダーは回り続けた。今日の占いの結果、任務の内容、今日を示すありとあらゆることをダラダラと2人で話し、その内容はテープに巻取られていく。時間が過ぎれば一度取り出し、表と裏を変えてまたカチリとテープは回る。何を話したのか全ては覚えてない。取り留めのない、いつもの会話だ。
一度風呂へと互いに席を外し、また集合した時には弁当を食べたテーブルが壁に立て掛けられ、その代わりに布団が2つ、ぴったりと並んで置いてあった。至極当然だとでも言いたげな佇まいの布団に思わず2人で固まった。まさかカップルだとでも思われたんだろうか。思わず指先にブラのホックが引っ掛かった感触を思い出す。ちらりと横を覗けば流石の彼女もほんのりと顔を赤くしていた。それを確認した途端、ぶわりと顔に熱が集まる。先程乾かした筈の頭が汗でじわりと濡れた。
「えーっと、さすがに近い、よね?」
「あ、そう、だね。うん。少し離そう」
そうだねと互いに言いながら布団を掴み、両側に引っ張る。ぴったりと隙間なく並んでいたところに60センチほどの空虚が居座った。なんだか気まずい空虚だ。静まる室内。静寂を破ったのは彼女だった。
「寝る前の会話録音しようよ」
「いいよ」
カチリと音が鳴る。回り出したテープが録音したのは何気ない会話。思い出したかのような彼女の声が途中挟まり、「恋バナでもしちゃう?」の声。そして、私の唇と彼女の唇は重なった。



静寂とリップ音がテープレコーダーから聞こえて私はテープを止めた。そうだった。寝る前に彼女に恋バナを持ち掛けられた私は勢いで彼女の唇を奪ったのだった。見開かれた瞳、じわりと血の滲んだような赤い顔、柔らかい唇、温かい唾液。それら全てを一瞬で記憶に収め、二度と忘れないと己に誓った夜だった。筈だった。忘れていたのである。しかし手放せなかったのがこの結果であり、4年経った今彼女のいない空間で1人静かに聞くに至る。記憶を探ると、あの後、顔を真っ赤にした彼女が誤魔化すように不貞寝をしてしまい、なあなあになってしまったんだったか。
あの時は確かに、このことを覚えていられたら。この思い出だけで生きていけるなんてことを思った。彼女の柔らかさと温度があれば馬車馬の如く働く未来がきてもまあいいか、なんて。なあ、過去の私。そんな幸福論は死んだよ。
ぼんやりと体中の力が抜けた。私が高専を出た時、彼女はどんな顔をしたのだろう。悟はそんな彼女にどんな言葉を掛けたのだろう。私はそれを知らず、知らなければ思い出すこともない。
「ただいまー」
子どもの声が2つ重なっている。
気付けば太陽の位置は大きく変わっていた。まだ小学校低学年の美々子と菜々子は帰宅時間が早い。そんなことが頭からすっぽりと抜け落ちていて、慌てて携帯で時間を確認すれば、すっかりその時間である。慌てて大きな声で「おかえり」を言ったつもりだったが声が出ない。どうしたのかと自分で驚いていると子どもたちの歩く音がして、すぐに部屋の扉は開かれた。幼い瞳に私が映る。
「……夏油さま、泣いてたの?」
咄嗟に頬に触れたが、涙は出ていない。彼女のブラのホックに触れた右手の人差し指は今、空虚に触れている。あの日の思い出が疾風の如く脳内を駆けずり回っていても、所詮は過去なのだと言われた気がしてテープレコーダーを身体の後ろに隠した。




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