ダークルーム


扉は開かれていることを知っていた。
しかし、空虚の中にポツンと佇む木製のサイドテーブルの上に置かれた紙に書かれた無情な言葉だけが脳内を駆け巡っている。

「1人だけ出られる」

では残された1人はどうなるのか。
固唾を飲む私とかなたは顔を見合せた。


時は30分ほど遡る。
最後の晩餐に何を食べたいのかという話を放課後の教室でしていた私たち2人は悟と硝子がいないこともあって静かに会話を繰り返していた。かなたは「2人がいないと寂しい」なんて言っていたが、対する私は片思いの相手であるかなたと2人きりで正直役得だと感じていた。かなたも私も食べることが好きなので一緒にいるとつい食べ物の話になる。
夜蛾先生曰く近頃頻発している不可思議な現象があり、その調査に悟の目が必要なのだということだ。悟は「調査任務かよ」とへそを曲げていたが、彼の類稀なる才能が遺憾無く発揮される任務なのだと説得されて渋々高専を出ていった。対する硝子はいつも通り怪我人の報告を受けて遠出するとのこと。2人ともいつ高専に戻るのかは全くの不明で、そもそもそういったことをマメに連絡する2人ではないのでかなたは「2人いつ戻るんだろうね」と苦笑している。それは私も同じで「来週かもね」なんて根拠の無いことを言えばかなたも「そうかも」なんて賛同した。
今日は梅雨の中日で関東全域雨の予報だったにも関わらず、高専の周囲はどっぷりとした雲に覆われながらも雨は降っていない。ここ最近はじっとりとした湿気に誰しも暗い顔をしていたので、雨の降らない今日かなたは機嫌が良かった。かなたと硝子の女子2人は前髪が決まらないと言って雨の日の予報を見るだけでこれでもかと顔を歪めるのだ。女子は大変である。
反して今日のかなたは綺麗に髪型がまとめられており、機嫌良さげに足をぶらつかせている。開けたコップ型のお菓子箱からお菓子をひとつまみ摘んで、絶え間なく口に運んでいた彼女はふいに声を上げた。その声で私も携帯から顔を上げる。
「ねえ、あそこ見てよ」
「どこ?」
「ほら。あの光が当たってるとこ」
かなたが指差す方向に目を向けると、高専を取り囲む森の中にか細い天使の梯子が降りている。雲の切れ間はそこにしかないようで、ただ一筋そこにあった。確かに不自然な気がする。
「天使の梯子だね」
「なにそれ。かわいい名前」
「知らない?雲の切れ間から光線の柱が放射状に差す光のことだよ」
「へぇー」と興味があるんだかないんだか分からない返事がくると、私の反応を待つ間もなく「行ってみない?」と言ったかなたに私は即座に同意した。
そこから私たちはのんびり自販機で飲み物を買ってからピクニック気分で天使の梯子を目指して歩いた。ほんのりと暗い森の中で一筋の光は意外にも見つけやすい。簡単に消えてしまうのではという懸念も覆し、私たちがその場に辿り着くまで梯子は降り続けていた。20分ほど歩いた私たちは泥濘む土に気持ち悪さを感じつつも光の最中に到着すると、その先にひとつの扉があることに気付いた。
「なにあれ、扉?」
「どこでもドアみたいだね」
木製に見えるその扉は木の間にある少し開けた空間の中で異様さを放ちながら佇立している。かなたは小走りで扉の裏に回るが、見た目通り何も無かったようで私に首を振って見せた。どうやら呪力は孕んでいるようで仄かに扉を包む呪力が見える。しかし動く様子もない。恐らくは呪具なのだろうが、それならなぜこのような場所にポツンと置かれているのか分からない。揃って首を傾げる私たちは興味本位でその扉に手を掛けたのだが、それが全くもって良くなかった。
扉に触れた瞬間、上瞼が下瞼に触れた一瞬のうちに内部に吸い込まれた。一瞬にも満たない間に私たちは空虚な白いワンルームの中で立っている。理解が追いつかない。ぐるりと室内を見回すと、左手奥には先程見たものと同じ扉が設置されており、そこが出口になるのだろうと想像された。その扉の前にはサイドテーブルのような長細い木製テーブルが置いてあり、なにやらそこに紙が置いてある。それはかなたも見たようで「何かあるね」と至って冷静な声音で言った。そうだ。私たちは呪術師なのだから不可思議な現象というのは慣れっこである。迷わず冷静に努める彼女に改めての好感を抱きながら2人でテーブルに近付き紙を手に取った。書かれているのはたった一言。

「1人だけ出られる」

思わず顔を見合わせた。なんだこれは。
恐らくは私とかなたの2人へ向けた一言だろう。であるなら、どちらかが外に出てどちらかをこの謎の空間に残せと言っているのだ。こくりと頷いたかなたに頷き返し、術式を発動させる。手をかざし呪力を込めると体内から押し出されるように呪力の塊が溢れカタチを成す。その塊は以前取り込んだ呪霊で、大きな体躯と破壊に適したパワーを持ち合わせていた。呪霊に命令を出すと呪霊は迷うことなく扉横の壁に全力疾走し、ビルなら簡単に壊れるような振動が部屋を揺らす。かと思われた。
「なっ」
なんだと、と言い切ることすら出来なかった。呪霊は勢いよくぶつかっていったにも関わらず振動一つしないのである。それどころか呪霊は壁に触れた瞬間姿を消した。消滅だ。なぜ。冷たい汗が背中を伝う。
もしかしたら今は想像以上にまずい状況なのかもしれない。
次の呪霊を出しても何も変わらなかった。繰り返される無駄に躍起になっていた私の手をかなたが触れる。そしてそっと手を下ろされた。
「やめよう。術式じゃ壊れないんだ」
「それならどうするんだい」
「私が残るよ」
「それはダメだ」
「でも特級の傑を残していけない。私の方が害が少ない」
死ぬみたいなことを言うなよ。頼むよ。そんな言葉が脳裏を走った私は咄嗟にどんな顔をしていたのか、すぐにかなたは「そんな顔しないでよ」と笑った。
「傑は誰か呼んできてよ。ここが領域なら外からの攻撃には弱いわけだし、2人とも助かるかも」
「私が出た途端領域内がどうなるか分からないだろ。それは出来ない」
「じゃあ、悟と硝子が見つけてくれるのを待つとか」
「いつ戻ってくるかも分からない」
「そうだった……」かなたは小さく呟いて、へらりと私に笑顔を向けた。
私はかなたが好きだ。特に笑った顔が可愛くて好きだが、こんな時に見たいのは笑顔ではない。いっそ死にたくないと泣いてくれたら良かったのに、どこまでも呪術師のかなたは笑っている。特級の私ですらどうにも出来ない状況だ。怖くないはずがない。それにどうしたって私たちはまだ東京呪術高等専門学校に入学して1年しか経っていない学生である。夏には花火をしよう。祭りに遊びに行こう。4人でちょっとした旅行に行こうだなんて様々な予定を立てて間もない。
考えろ。この状況を打破する方法。
考え込む私と違ってかなたは壁に近付き、軽い音を立てながらノックしたり、呪力を扉にぶつけたりしている。
「壁、壊す目的じゃなければ触れるみたい」
「……扉はどうだい」
「呪力ぶつけるだけではどうにも。何も分からないね」
「そうか……少し考えるからかなたは休んでくれ」
「分かった!あー、休むならソファーとか欲しかったな」

その時である。床からソファーが生えてきた。え、と私とかなたの声が重なる。ずるりと姿を現したアイボリーのソファーは寝心地の良さそうな布張りのソファーであり、かなたなら充分足を伸ばして横になれる大きさだ。触って確かめてみても特に危険性はなさそうである。それならローテーブルなんかも出るのだろうか。未だ目を白黒させているかなたの横で「ローテーブルが欲しい」と呟いた私の目の前にこれまたずるりとローテーブルが床から生えてきた。マジか。欲しいものが出てくるのか。それならと私は「もう1つの出口が欲しい」と呟いたが、それには何の反応もなかった。どうやら応えてくれるものと応えてくれないものがあるらしい。どうにもやりきれない気持ちでいると、その気持ちを払うようにかなたは明るい声を上げながらソファーに勢いよく寝そべった。ぼふりと柔らかい音がする。
「結構寝心地いいよ!」
「君ねえ……」
「いいじゃん。私はこうやって寝てるからさ、傑はあの扉を使って外に出なよ」
「それは出来ないって言ってるじゃないか!」
強くなった語尾に自ら驚き、すぐにかなたに謝ったがかなたは静かになってしまった。
分かっているつもりだ。
3級のかなたと特級の私なら、より戻るべきは私だろう。しかし、好きな女の子を置いて自分だけ戻るのはどうしても出来る気がしない。その上、残されたかなたがどうなるのか全く分からないのである。
死んでしまったら?
二度と見つけられなかったら?
私は私を許せないだろう。きっと永遠にかなたに罪悪感を抱きながらどこかで野垂れ死にするのだ。耐えられる気がしない。
私はかなたが横たわっているソファーのへりに浅く腰掛けた。無音で僅かに身体が沈む。暫くは耳鳴りがするような静寂が空間を包み、気まずさで周囲を見渡すと改めてこのワンルームの異常さが目にとまった。天井も壁も床も溶け合って境が分からない白。どこまで空間が続いているのかすら分からない。ただその白い空間にアイボリーのソファーと同じ色のローテーブル。そして木製のサイドテーブルと木製に見える扉だけ。何でもかんでも出せる訳ではないことを思うと、長時間ここにいるだけでも精神に関わることは容易く想像がついた。気付けば強く握っていた拳に爪が食い込んでいる。赤い爪痕を見つめていると、背後でかなたが動いた。
「ねえ、傑」
「なんだい」
「お腹すいた」
間の抜けた声に振り向くと、先程の笑顔と同じ顔をしていた。この状況で?と思う自分と確かに腹減ったなという自分がいて思わず言葉に詰まる。黙り込む私を放ってかなたは「美味しいカレーライスが欲しい!」とやや大きな声で言うと、ローテーブルからカレーライスが生えてきた。平らな面からカレーライスが盛られた皿が生えてきたのである。ほかほかと湯気がのぼり、カレー特有のスパイスの香りが空間を包んだ。途端、ぐうと腹の虫が2人分。
「食べ物出たよ傑!食べよ!」
「いや、これ食べれるのかい?」
「美味しそうだよ?」
「まあ、見た目と香りはね」
一体全体どういう仕組みの領域なんだ。
呆気に取られていた私の横でかなたが勢いよく「スプーン欲しい!」と言って生えてきたスプーンで何事も無かったかのようにカレーライスを食べ始めた。どうやら食べられるらしい。かなたの身に何かあってはいけないと私も同じく「美味しいカレーライスとスプーンが欲しい」と呟いてカレーライスを食べた。
これがまた本当に美味しいカレーで、スパイスの効いた辛口のカレーは具がゴロゴロと入っており食べ応えのあるカレーだった。2人とも満腹になってしまい、脱力しながらソファーに身を沈める。美味しかったと感想が被ると無性に面白くて、笑える状況ではないのにかなたにつられて不思議と笑みが溢れた。出られない領域の中でカレーを満腹になるまで食べる日が来るだなんて誰も思わないじゃないか。その後私たちは「寝心地のいいベッド」とか「綺麗なトイレ」とか「美味しいお茶」などと注文を出し続け、危機感など放り投げて眠りについた。うとうとと落ちる意識の中でかなたが何やら言っていたが、声が小さくて聞き取れない。起きたら聞こうと思いながら意識は暗闇に落ちた。


どれくらい経ったのだろうか。キングサイズのベッドの両端で眠っていた私たちは時間の分からないなか目を覚ました。正しくは目を覚ましたのは私だけで、かなたは私に背を向けて眠っていた。ぼんやりとした意識の中、領域内で眠ってしまったことに再び笑いが込み上げる。その時、扉が開いていることに気付いた。扉は大きく開き、森の中の景色が見えている。なぜだ。眠る前までは閉まっていたのに。誰か来たのかと周囲を見渡すが誰もいない。ベッドから身体を起こして扉に近付くと、森特有の青臭い匂いが風に乗って香っていた。振り返る。ワンルームの中に物は少なく、人が隠れられるような場所はない。念の為にトイレを覗くが誰もいない。じゃあなぜ。急いでかなたに駆け寄り、肩を揺らした。が、かなたは起きない。身体はすっかり冷たく、ほんのりと硬かった。意味が分からない。がくがくと大きく揺らしてもかなたは目を覚まさない。
「かなた!かなた!起きてくれ!!かなた!」
手首を掴んで脈をはかる。脈がない。どうして、と混乱する私の足元で透明な容器が転がっていた。嫌な予感がしてそれを拾う。無機質な瓶には『毒』と無感情に書かれていた。かなたの言葉を思い出す。

「最後の晩餐はカレーがいいな」

吐きそうだ。込み上げた涙が何度もとめどなくかなたの冷たい頬に降り注ぐ。幾度となく嘔吐く。全身が震え、混乱したままかなたの頭を撫でた。何度も何度も。冷たい頭を撫でる。真っ白になった頭では何も考えられない。
少しでもかなたの熱がないかと抱き上げてもすっかり熱はない。転がっている毒の入った瓶と同じだ。そのまま持ち上げ、立ち上がった。かなたの関節はすっかり固くなっていて弾力性がない。それに嘔吐きながらたった一つの扉をくぐった。問題なく出られたのは、かなたがもう人間ではなくただの冷たい肉と化してしまったからなのだろうか。

広い森の中で悲痛な泣き声はろくに反響することもなく、ただ溶けて消えた。




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