白日


彼女の死を目前にして唐突に理解した。
理屈は分からないが、それでも脳に眠るブラックボックスは顔を覗かせた。
呪いの解釈というものは土壇場で発揮され、だからこそ人の生死を分ける。

私は、死んだ彼女を蘇らせた。

生死というものは不変であり、だから尊ぶものだというものが世間一般的な意見だろう。しかし呪術界において、それは少し違う。
────禁忌。
超えてはならぬ一線であり、触れてはならぬ領域であり、しかし同時に誰もが喉から手が出るほど欲しがった。それは上を名乗る枯れた連中であればあるほど顕著だ。
生は生であり、死は死であってそれ以外の何物でもない。そう胸に刻めとどこかで聞いた気がする。夜蛾先生からかもしれないし、リアリストの悟の口からかもしれない。
それはそうだろうと以前の私は思っていた。いや、たった10分前の私もそうである。
しかし幸いなことにそれはひっくり返った。なんなら、それは1年前に会得するべき理解≠セったのだろう。それならば、きっとあの幼い理子ちゃんを失わずに済んだかもしれない。所詮数時間共に過ごしただけの理子ちゃんの存在は心の底では軽かったと言うのだろうか。それは酷だ。あまりにも。

非術師10人にその死≠移す技術。
死者蘇生。

たった10分前のことである。
目の前で呪霊に八つ裂きにされ、身体が駒状にバラバラに分かれた無惨なただの肉塊を見た。血は飛沫となって四方に散る。柔らかな臓物は水音を立てて地面に転がった。それはたった数秒前には二足歩行をして呼吸をしているかなただった。非術師を守るための行動だった。

偶然、共同の任務が入り、補助監督が下ろした帳に包まれて間もなく。中央に聳え立つ廃ビルの入口に非術師が固まっていた。半狂乱になっている様子から見て、既に怪我人か死人が出ていることは予想される。そこに呪霊が迫り、咄嗟に飛び出して術式を展開させたのは紛うことなきかなただった。
一方、私は何をしていた?
静観していた。
非術師なんて猿のような生き物をどうして救わねばならないのか。真綿のように私の思考をゆっくりと締め上げる疑問。その疑問は私の足を絡め取り、その一歩を飲み込んだ。それゆえに眼前で弾け飛ぶ鮮やかな血に、一瞬反応が遅れた。

「かなた……?」

彼女の名前を呼んだ。しかしとっくに肉塊へと変化した彼女に意思もなければ思考もない。もちろん返事もない。びちゃびちゃと濡れた音が空間を包んだ。視界が赤い。もう一度彼女の名前を呼ぶ。もう一度。二度、三度彼女の名前を呼ぶ私の声に非術師の悲鳴が重なった。

たかだか1級になって間もない呪霊が彼女を殺した。私の唯一の良心である彼女を。
途端、全身を巡る血が沸騰した。
ぐらぐらと世界が揺れる。

「夏油はさ、飲み込みすぎだよ。もっと口にした方がいいって、思ったこと。私はどんな夏油でも好きだと思う。だから」

言って、と彼女の声が脳内で木霊した。
彼女は普通の女の子だった。特別善人でもなければ悪人でもない。それでも人の心の機微に敏感であることを最近知った。へばりつく罪悪感と劣等感、ふつふつと湧き続ける怒りに項垂れる私の傍にはいつも彼女がいた。寄り添い、しつこく私を諭した。そんな彼女の存在が私にとっても唯一の良心であり、救いであり、東京呪術高等専門学校で私が呪術師を続けられる理由だ。それが物言わぬ肉へと変わり果てた。

言う?
何を言えばいいんだ。
この期に及んで、己の醜さで君を守れなかった私が。思ったこと。許せないこと。譲れないこと。

ぐらぐらと世界が揺れる中で思考が巡る。
呪霊がこちらを振り向いていた。ぎょろりと巨大な瞳と人間を模した形。不愉快なほどに人間らしい姿に吐き気がする。
言え。

言え。

「……かなたを、返せ」

呪霊は口端を釣り上げている。

「返せ!!!!」

真っ赤な世界に言葉が浮かんだ。それは禁忌の技術。しかし私の欲しいものが手に入る魅惑的な知識。脊髄から脳天までを貫くような痛みが一瞬光のように全身を震わせる。その刺激にたじろいだが、両足に力を入れて踏みしめる。私は即座に呪霊を繰り出し、眼前で笑う呪霊を噛み砕いた。地響きのような悲鳴が黒い帳の中を響き渡っていく。その声は死の淵に立たされていた非術師共にも届いたようで小さな悲鳴を上げた。それらは彼女の真っ赤な血を浴びており、彼女の温かい体温を感じたのかもしれなくてまた更に拳を握り締める。ギリギリと奥歯を噛み締め、言葉を飲み込む。いや、飲み込むのをやめた。

「かなた、君はこんなものの為に死んではいけない。私が決して許さない」

駆け寄り、私に首根っこを引っ掴まれた非術師共は震えながら泣いていた。私の顔を見て泣いている。今の私はどのような顔をしているのだろう。
鬼にも蛇にもなる覚悟はある。しかし、これらを殺すのは罪か。そうだろうか?私たちが来なければどちらにせよ死んでいたのだから構わないのではないか?そうだろう。そうだ。大した罪じゃない。正しさを執行するのは私じゃなくていい。

結論から言えば、得た知識は本物だった。
彼女の身体がくっついていけば転がした非術師の身体が引き裂かれ、それをひたすらに繰り返したかなたの身体は傷一つない美しい肢体へと変化していった。血飛沫のあがる阿鼻叫喚の嵐の渦中で彼女は思考を取り戻していく。彼女の長い睫毛が僅かに震え、呼吸に合わせてその胸が膨らめば周囲の死体など雀の涙ほども気にならない。高揚する。土を踏みしめ、彼女に触れた。温かい。血潮が巡っている。
彼女が生きているなら私が仮に呪詛師になって追われる身となっても、それもどうでもいい。「かなたさえいれば」私はそれでいいと小さく呟いた声が地の底に落ちる。ややあって耳鳴りがするほどの静寂が落ち、その中でゆっくり彼女が目を開いた。ぱちりとまじろぐ美しい虹彩は彼女が生きている証だ。

「……あれ?私生きてる?」
「やあ、おはよう。生きてるよ」
「呪霊は?」
「私が祓った。かなた」
「なに?」
「愛してるよ」

そして、さよなら。
私の言葉の意味を一片も理解出来ない顔のままの彼女の頬に優しく唇を寄せた。柔らかい頬からは鉄錆のような匂いがする。
立ち去る私の背後で死体に気付いた彼女の小さな悲鳴が聞こえた。
それは幸いと言える。ここで名前を呼ばれて引き留められたら私は死んでいたかもしれない。心に聡い君が今だけは私の心に気付きませんように。


五条悟による検分の結果、
夏油傑呪詛師と認定。死刑に処す。
行方を調査されたし。




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