夢の天秤


人には手放しがたい幸せというものがある。
人によってはそれが金であったり、食事であったり、歌であったり、家族であったり、趣味であったり。人の数だけこれだけはどうしても≠ニつい口にしてしまう物があるだろう。愛していると言えるし、取り憑かれているとも言える。いや、呪われているのだろうか。

深夜、散々情事に耽って眠りに落ちる直前、彼女が私の名前を呼んで好きだよとふにゃふにゃの声と顔で寝惚けながら呟く。そして私に手を伸ばし、汗でべとべとの手で2人手を繋いで眠りに落ちる。
他人がそれにどんな名前をつけようと、
私にとってはこれが幸せの形であり、
その幸せを私は手放せない。


あの日。あの村でのこと。
最初は単純な任務だったはずだ。特級である私を送り込む必要があるようには思えない、所謂昔からよくある任務だった。一定周期で現れる呪霊で、その等級は2級から1級に属する。であればそれに値する呪術師が派遣されれば済む話なのだが、あの日は偶然人が出払っていた。各地で発生した呪霊は低級だが群れを成しているという情報まであり、相当数の人員が割かれた。つまりはその折り合いの問題で偶然私がその任務に派遣されることになったのである。

残暑の厳しい日だった。私は滅多に脱がない学ランを脱ぎ任務に当たったが、それでも汗はとめどなく流れた。昨晩の甘やかな行為の形跡が各所にあることを自覚していたために、ワイシャツの第1ボタンだけ外して村を歩き回り、呪霊を祓う。村の任務の依頼人は私を監視するかのようについてまわり、なんだか違和感のある時間だったと強く記憶している。そして、任務後に案内された部屋のすぐ側だった。彼女たちがいたのは。
くだらない猿どもの言い訳は殆ど覚えていない。怒りの瞬間風速が凄まじく、脳を丸ごと飲み込んでしまうような熱量だった。
その脳の中に幼い中学生の女の子の死を喜んで拍手する猿の姿が目まぐるしい思い出される。醜悪な笑顔。乾いた音。集団における異常行動のおぞましさ。守れなかった笑顔。
今、その末に震え、恐らくは虐待で傷付いた顔をした女の子たちが目の前にいた。衝動が身体を貫いた。が、そこで貫いた衝動に手をかけたのは彼女だった。かなた。そのまま私から衝動を引き抜き、怒りが漏れ出す私の身体に手を当てる。昨夜見たあどけない寝顔のような穏やかな顔で。途端、抜けた毒気で腕がだらりと下がる。なんとか振り絞った言葉は覚えていた。

「殺されたくなければ消えろ」

この一言。すぐに女の子たちが閉じ込められていた木製の檻を叩き割り、呪霊に乗って村を出た。村の猿どもは何やら叫んでいたが人間の言葉ではないのでよく分からない。言葉ではなく記号が空間を飛び回っているようだ。人間にそれを理解することは出来ない。

未だ震える彼女たちをどうするべきか悩み、一先ずかなたに会わせることにした。理由は二つ。とにかく私がかなたに会いたかった。会って、その柔らかくて温かい手でまた私の手を握って欲しい。
二つ、かなたが私を正しさへ導いてくれる気がしたからだ。そうすれば、この傷付いた子どもを本当にどうすればいいのか分かる気がした。

結果論で言えば、それは正しかった。彼女は私を見るなり温かいものを飲ませ、その間に女の子たちを硝子に診断させ、その報告を即座に夜蛾先生にするという迅速で適切な対応をしてくれた。私がコップ1杯のコーヒーを飲み終わる頃にはすっかり生傷の癒えた女の子たちは医務室で眠りに落ち、彼女たちの状態を確認するために医師免許を持った人物が駆け付けていた。どうやら生死に関わるような怪我はないが、栄養失調などの症状が見られるため医務室で暫く預かることになったらしい。その話を私にしたのは硝子で、信頼出来る人間だけで固められた対応にほっと胸を撫で下ろした。

「お疲れ、傑」
「そうでも……あ、いや、うん。そうだね」

否定しようとして、空間に彼女しかいないことを確認してから肯定した。せまっくるしい男子寮のワンルームには斜陽が差している。少し前までは日が伸びてこの時間帯はまだ明るかったというのに、未だ暑くても秋は秋だ。気付けばすっかり黄昏に落ちている。その斜陽を全身に受け、彼女は温かい光に包まれていた。これは私の色眼鏡もあるのかもしれないが、まるで幸せの象徴のような温度をもつ彼女にじわりと目頭が焼かれた。
様々な思考が頭を巡る。

留まってしまった。いや、帰って来られた。いや、逃げ出してしまった。殺すべきだった。いや、殺さなくて良かった。しかし奴らは猿だ。とはいえ殺したらここには帰って来られない。いや、自分に出来ることはあそこで全てを投げ打つことだったのではないか。いや、それではもう二度と彼女には触れられない。いや、もう既に触れる権利などないのではないか。

ぐるぐる巡る思考は焼かれた目頭を刺激し、残暑に見舞われた熱い頬より冷たい雫が頬の丸みに沿って落ちた。すぐに袖で拭うが、とめどないために何度拭っても意味は無い。ただ袖口が冷たく濡れていく最中、彼女に力強く腕を掴まれた。「目の周り荒れるよ。優しくしてあげて」と言われ、ティッシュを手渡される。彼女にそう言われたらそうするしかない私はティッシュで雫を拭っていると、ぼやけた視界で彼女がじっと私を見つめていた。気恥ずかしくて顔を逸らそうとすると、彼女の柔らかい手が伸びてきて私の両頬を掴む。柔らかい手は情事の後のようにはベタベタしていなくて、それでもしっとりとした手触りが温かく私の顔を掴んだ。

「傑」
「なん、だい」
「……おかえり」

私はこの「おかえり」と引き換えに非術師をこの世から全て消し去るという大いなる大義を、あの瞬間捨てた。果たしてこれが正解だったのかと聞かれると分からない。きっと私が死ぬまで分からないのだろう。それでも、どうか。かなたのいるこの世界に留まろうと思う。いや、留まりたいと願う。そしてまた手を繋いで眠ろう、この恐ろしい世界で2人寄り添いながら。嫌悪と死と君との未来を夢想しながら。




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -