虹龍の宝


気付けば世界は真っ暗闇だった。
暗闇の片隅で1人うずくまって、耳を塞いで過ごしている。
キッカケは些細なものだった。
両親の離婚。それ自体は別に私としてはどちらでも良くて、寧ろ「アンタの為に離婚しないでおいてあげてるんだから」と母親に恩着せがましいセリフを吐き捨てられる日常に辟易していた私としては「やっとか」と思うくらいであった。
父親は麻雀と酒と煙草に身を投じている男で、家を不在にしていることが殆どだ。度々家に足を運んでは母親と凄まじい喧嘩をし、母親を殴る。いつ私も殴られるのかと震えながらクローゼットに隠れ、母親の泣き叫ぶ声を何度となく聞いた。死ね死んでしまえという激しい恨み言が家中に響き渡り、そんな生活が高校2年まで続いた。父親の反社に対する借金が発覚してどうにも首が回らないことが判明した母親は、破産して父親と別れを告げた。今までのことを思うと、決して賢い母親だとは思えなかったが父親よりはマシだ。
そうして両親は離婚し、それをキッカケに引っ越しをしたことが私の大きな転機だった。
引っ越した先の高校はそれまでの学校と違って、イジメが蔓延っていた。見ないフリをする教師、話を揃えて無視をするクラスメイト、罵倒して蹴り上げるイジメっ子。教室に充満する白々しい笑い声。転校したてで当事者になったわけでもなかった私だが、教室の後ろ、ロッカーと壁の隙間に追い詰められて複数人に蹴られ踏まれしているクラスメイトを見て私は何かが切れた。
信用出来ない両親と信用出来ない教育機関。
私が部屋に閉じこもって不登校になるのは容易く、そして早かった。転校して2ヶ月後、梅雨が始まって間もない頃に私は部屋の扉に鍵をかけた。その日は本当に学校に行きたくなくて、人間を見たくなくて、耳を手で塞いで布団に潜り続けることにした。胸と思考にこびりつく世界への不信感が心を蹴飛ばして、とにかく全てが嫌で仕方ない。嫌だ。みんな死んでしまえ。みんな死んで、死んで、死んで死んで死んで、そしたらこの世界はもう少しだけ綺麗になるかもしれない。
それならその方がいいじゃないか。

最初の3日間は母親に扉をノックされたが、4日後からはそれも無くなった。そもそも、母親は私に興味がそこまでない人だ。ただ何かと理由を私にこじつけ、言い訳をする。何もかもを私のせいにする。そうして自分を正当化するのだ。そうやって生きる狡い人間の権化が母親で、そんな母親の胎から生まれた自分が心底嫌いだった。あの女とあの男の汚い赤い血を継いで、顔が似て、声が似ている。その事実に吐き気がして何度もトイレに駆け込んだ。昼間、あの女が働きに出ている時間帯に何度もトイレで嘔吐を繰り返し、便器横にある小さな出窓から空を眺めている。青い空が虚しさを煽って、次第に世界は暗くなっていく。暗く、黒く染まっていく世界。
何度か自分の左手首に爪を立てた。カッターを宛てる勇気は出なくて、でも何もしないことは出来なくてハッキリ手首に残った赤い一線。込み上げて溢れた涙が血のように手首に滴る。許せない世界。許せない自分。許せない人間の醜さ。


その日は、梅雨の中日だった。
朝から身体がだるくて、布団に包まりながら隙間から窓の外を眺める。昨日までしとしとと降り注いでいた雨は久しぶりにおさまっていて、離れて見える街路樹は光に煌めいていた。差し込む陽光の眩しさに目をしばたたかせる。視神経が痛む気がする。数分間目を開けたり閉じたりを繰り返し、やっとのことで目が慣れて布団から顔を出した。部屋に光が満ちていて何だか気持ちが悪い。
遠くで扉の閉まる音がして身体を起こした。あの女が出勤した音だろう。ベッドを降り、夜間に閉め忘れたカーテンをそのままに窓に寄ると、真向かいの家の屋根から虹が生えていた。グラデーションする7色は大きく、太くよく伸びている。ふと昔読んだ小説を思い出した。内容は取り留めのない恋愛小説だったが、「虹の麓には宝物があって、ある日虹を追い掛けたら君がいたんだよ」というフレーズが妙に頭に残っていた。今の私にとっての宝物って何なんだろうか。お金?それくらいしか思いつかない。それとも鍵だろうか。この世界から飛び出せてしまう魔法の鍵。そんなことを考える自分に自嘲する。
何考えてるんだか。
久しぶりに見た鮮やかな7色のせいでそんなことを考えてしまうんだ、と思いつつも、薄暗くない感情自体も久しぶりで自然と足は外へ向かっていた。サンダルを引っ掛けて、玄関に立つ。この扉1枚を隔てて汚い人間たちが息をしている。そんなことは当たり前のことなのに大冒険に出るかのような胸の高鳴りにそっと深呼吸を繰り返した。ややあってドアノブに手をかける。震える指先。
虹を少し見るだけ。麓なんて追い掛けられないけれど、ほんの少しだけ。
じわりとかく手汗でノブがやや滑りながらも、少し硬質な音がしてドアノブは回った。押し開くと差し込む陽光に視界が明滅する。じくりと痛む視神経。慣れない外気に肩が震えた。幸い人はおらず、落ち着きのない雀が4羽飛んだり地面に降りたりを繰り返している。空を見上げると、遠くまで果てしなく伸びる青に虹がのっそりと広がっている。それだけで胸が簡単に温まってしまうのは何の感情だろう。何の本能が刺激されて喜んでしまうのだろう。一歩踏み出る。数歩歩いて家の敷地を出ると、真向かいの家から生えていたように見えていた虹は当然のように空を股にかけていた。歩道に出て周囲を確認しながら虹の姿を追う。家の前にある一直線の道路に合わせて色は伸びていて、数十メートル歩いた先にある小さな竹林まで行くと流石に帰りたくなってきた。もういいかと踵を返した瞬間である。きらりと白い光が顔に当たって思わず顔を顰めた。反射光だ。誰か来るのかと身構えたが人の音はしない。ゆっくり目を開くと竹林の入口、草間に小さな鏡が落ちていた。手に取ってみると案外汚れていない。楕円形で鏡の裏側には龍のデザインが浮彫りで掘られている。きらきらと光るその鏡を覗く。

「えっ、わ!」

思わず声が出て鏡を落とした。心臓がバクバクと音を立てる。何だ、今の。
もう一度拾い、改めて自分を鏡に映すとそこには見知らぬ男性が映っていた。絶対自分が映るはずなのに、黒髪でお団子、特徴的な前髪の目元が涼やかな男性。真正面を向いて柔らかく微笑んでいる。太めの首は詰襟に包まれ、どうやら学ランのような制服を着ているらしい。試しに顔を顰めたり、口を尖らせてみたり、眉間に皺を寄せてみても鏡は変わらない。何かのモニターなのかと思って見てみても、どう見ても鏡だ。あまりに変な鏡に興味が湧き、周囲に見られていないことを確認してから小走りで家に持ち帰った。全身が心臓になったかのように鼓動が煩い。手のひらサイズの鏡は私を映しさえしなければ、当然のように周囲の風景を映している。
部屋に戻ってからハンドタオルで鏡を拭いてみるが、汚れはあまりつかない。長年、いや長時間放置されていたようには見えない。昨日は雨が降っていたので、精々今日落とされたものではないだろうか。今一度鏡を覗く。するとやはり先程の男性が映り、時折ゆっくりとまばたきをしていた。男性は男子と呼ばれるような年齢なのだろうが、不思議と男性らしい顔つきに男子≠ニいうより男≠感じる。怜悧そうな顔つきで、つい見つめてしまう。

それから私は何日にも渡ってその鏡を観察した。鏡の中の男性はたまに欠伸をしたり、首を捻ったりしてみたりとまるで生きているようだ。数日経って気付いたことだが、鏡の中の男性は夜になると眠る。時折昼寝もするようで、開けっ放しになる口から唾液が垂れていくのを何度か見た。その様子が無性に可愛らしくて見ていて飽きない。
そして後ろ面の浮彫りだが、よくよく見ると小さく「虹龍」と彫られていることが分かった。その文字の周りにはとぐろを巻くように東洋龍がおり、長い髭や鬣を生き生きと広げている。鱗の1枚1枚まで彫られており、手で撫でると生々しい感触までした。余程細工は細かいらしい。
しかし、虹龍というものを私は知らない。辞書をひっくり返してみても載っておらず、そもそも読み方が分からない。
にじりゅう≠ネのかこうりゅう≠ネのか。もしくは別の読み方もあるのかもしれない。そう思い、携帯を開いて検索してみることにした。虹龍と検索ワードをかけると、真っ先に出てくるのはスピリチュアルな怪しいホームページだった。恐る恐る開いてみると「幸運と希望の象徴!虹色の鱗をもつ龍神、虹龍のスピリチュアルな効果!」と言葉が踊っている。文字はその後も続いており、長々と画面が真っ黒になるほどだったが最初の文言だけで大体のことは分かった。つまりこの鏡には幸運と希望の象徴である龍が彫られているのだ。なんとも縁起がいい。
だとするのなら、この黒髪の男性は私にとっての幸運だとでも言うのだろうか。それは悪い気がしない。人と話したいとは思わないが、鏡越しに人を見つめるだけなら私が傷つくこともない。信用の必要もない。か細い私の人間との関わりは唯一、その鏡に映る希望だけだ。不思議とそれは息がしやすい感覚がして、その日はよく眠れた。鏡を枕元に置いて名も知らぬ彼と眠る。明日になったら名前をつけてあげよう。


名前は翔くんとつけた。似合うかどうかは分からないが、後ろ面で龍が飛んでいるのでその名前を仮につけることに決めた。毎日翔くんと朝起きて、食事をして、夜共に眠る。翔くんが夜更かしする日には同じように夜更かしをした。一切口を開かずに生活していたが、翔くんに向かって少しずつ話をするようにもなった。今日天気いいね、昨日のドラマ面白かったよね、推理小説のトリックって再現出来るのかな。取り留めのない会話を毎日しているうちに翔くんへの愛着が深まっていく。別に返事があるわけじゃない。それでも生活の中に彼がいて私の救われている部分があるのは感じていた。細い関わりの糸も次第に太くなっているような気がして、チョロい私は人間全てが悪い奴じゃないよねなんて口にするにまで至る。翔くん(仮)がどんな人物かも知らないくせに。でもきっといい人だ。私の幸運の人が優しい人であってほしいという願望なのだろうか。きっとそうなのだろう。

そうして数ヶ月が過ぎた。季節は夏の盛りを迎え、轟いていた蝉時雨は鈴虫へと変わり、静かに雪が降るようになり、雪が溶けて桜が咲いた。また雨が降り始めて、1年が経過する。私は学校に行くことなく2年生の留年を迎えてしまっていた。
その頃には私は堪らなく落ち着かなくなっていた。部屋の前に置かれた進路希望調査票のこともあったが、理由は簡単で翔くんのことだ。昨年の夏頃から鏡の中の翔くんは微笑まなくなっている。段々表情は暗くなり、そしてぱんと張った輪郭はやや細くなった。いつも悩んでいるような、そして怒っているような顔をしている。初めは少しすれば収まるだろうと思っていたが、1年近くそんな状況が続けばそれは異常だ。ふと、繰り返し爪で跡をつけた左手首を見る。今でも半分無意識でつけてしまう爪の跡は赤く存在感を放っている。もしも翔くんがカッターや包丁を持つのに抵抗がなかったらどうしよう。私みたいに彼岸で立ち止まらず、その先に転がり落ちてしまったらどうしよう。毎日毎日そんなことを考える。彼が死んでしまうのは嫌だった。名も知らぬ、声も知らぬ赤の他人なのに私を人間社会と繋いでくれている彼を失ってしまうのは恐怖だ。周りが信じられなくて怖いくせに1人になりたくない私には彼がいなくては夜もきっと眠れない。それはとても恐ろしいことで、それならばと私は立ち上がった。
探すしかない。彼を。


鏡を拾ってから1年間、虹を見ていない。
しかし今私は外にいる。母親が働きに出ている数時間の間、私は彼の制服だけを頼りに街に出ていた。ブレザーはスルーして学ランの男子学生を探して彷徨う。思えば彼の制服は変わっていて、学ランの前の合わせが鎖骨の位置についている。どの学ランを見てもそんな制服は見当たらない。それでも毎日外に出た。人に見られることが恐ろしくても、彼が死んでしまう前に見つけなくてはという気持ちがあまりに強くてどんな天気だろうと私は家を飛び出しては徘徊した。その間にも鏡の中で彼の表情は沈んでいく。泣きそうだ。神様なんて信じたこともないくせに、どうか神様なんて願う。どうか彼に会わせてください。そして、どうか彼を助けてください。
何があったのかも何も知らないけれど、どんな人間なのかも知らないけれど、ただ傍にいてくれるだけで私を救ってくれる彼を助けてください。藁にも縋る思いで僅かなお小遣いを掴んで様々な街にも足を運んだ。毎日毎日、雷雨の日もカンカン照りの日も毎日早歩きで街を歩き回る。でも成果はなかった。
気だけが焦ってじわりと視界が滲む。


その日は身体が動かなかった。だるさを超えて本当に身体が動かない。それでも行かなくては。彼を探さなければ。そう思うのに指先が動くだけで腕を上げることも叶わない。気付けば熱い頬を冷たい雫が滑っていた。ぽたりぽたりと小さな音が部屋に流れていく。今日の彼はどうなのだろう。生きているのだろうか。視界がぼやけてどうにもならない中、懸命に力を入れて寝返りをうち、枕元に置かれた鏡に手を伸ばした。どれだけ泣いていようも鏡の中の彼はいつものように沈黙している。目は昏く、今にも死んでしまうんじゃないかと思えてならない。
彼の微笑みがもう一度見たい。それだけなのに叶わないのは私が弱いからだろうか。探しに行かなくては。つるりと滑る鏡面を撫でると、彼は丁度目を閉じた。泣きそうな顔。そういえばほぼ1年この顔を見ていたけれど、泣き顔は1度も見たことがない。戦っているのだ。きっと。何と戦っているのか知らないけれどきっと彼は戦っている真っ只中なのだ。私は簡単に逃げてしまったけれど、彼は違う。強く奥歯を噛み締めて身体を起こす。しかし身体は吸い付くように何度も私の身体を布団に横たえた。動かなくては。彼に伝えなくては。何を?何をなんて決まってる。
生きて彼に会えたなら言うのだ。
たった一言でいい。
何度も胸を叩いた。腹を叩いた。手足を叩いて、動け動けと何度も口にする。
動け、私の手足。動け。フラフラでもいいから。地面はこんなにも無感情だっただろうかと震えてしまうほど立つのは難しい。それでも立ち上がって家を出た。今日も学ランを探す。どうか間に合ってください。ガタンガタンと揺れる電車に乗り込んで知らない街へ足を伸ばし、今日も彷徨う。意識が途切れ途切れになりながら街の片隅を歩き回っていると、ふと、空が真っ黒に染まっていくことに気付いた。ものの数秒の間にだ。気付けば周囲に人はおらず、暗い街中にたった1人で立っている。強い意志だけでなんとか立っていた私は言いようのない不安感で力が抜けた。へたりと座り込む。早く帰りたい気持ちでカバンの中にしまいこんだ鏡をカバンごと抱き締めた。とりあえず夜になってしまったなら帰らなくてはと立ち上がろうとしたその瞬間、顔に影がかかって顔を上げた。

「すみません、ここ危ないですよ」

鏡と違って立体的な動きに暫し息が止まった。翔くんだ。特徴的な前髪は風に揺れていて、身長が高い。というかデカい。私が呆けているうちに翔くんは何かを見せつけるように手のひらを開くと、何も無い空間を見つめている。じわじわと目頭が熱い。胸がここを開けろと強く叩いている。何度も何度も大きすぎる鼓動が私を蹴り上げ、早く言えと急かした。しかし口を開いた瞬間、すぐ脇にあったビルの窓ガラスが激しい音を立てて砕け散った。見えない空間で何かが戦っているようだ。バリバリとビルから本来しない音が立ち、翔くんはそれを冷静な眼差しを見つめている。そして、右腕を伸ばした。すぐに何かを掴むような手つきで空気を掴み、口へ運ぶ。何かを飲み込む仕草で喉仏が大きく上下する。ごくんという音がして、すぐにビルから出ていた不自然な音は落ち着いた。翔くんが何かを飲み込んだようだ。それは私の理解の範疇を超えていて何も理解出来ない。しかし気にならない。元々私は鏡の中の男の子を探して連日歩き回るような女なので今更感が拭えないからだ。ぼんやりと彼を見つめていると、ふと彼が私を振り向いた。
じゃあ、と彼は立ち去ろうとする。すると真っ暗闇だった空には光が差し込み、少しずつ青みを取り戻していく。黒が終息すると周囲には人が歩き回っており、先程までの異様さが消えている。途端、静寂が消え去りざわめきが戻る。ただビルはそのままだったようで、なんだなんだと人集りが騒ぎ始めた。その喧騒に彼が消えていく。

「っ、待って!!」

彼は立ち止まらない。

「私!あなたのこと知ってるの!」

ぴたりと彼の動きが止まり、そして振り向いた。面倒そうな顔だ。光のない眼差しが私を拒絶している。けれど怯まない。その眼差しは鏡越しに何度だって見た。

「話、させてください。見せたいものがあるんです」

彼は暫く思案してから小さく頷き、顎先で私を誘導した。さっきまで身体が重くて仕方なかった私の身体は容易く動く。身体もチョロいようだ。人並みより頭1つ分抜けた大きな背中を追うと、人気のない小さな公園にたどり着く。公園には小さな砂場と2人分のブランコしかない。そのうちのブランコの1つに彼が腰掛け、きい、と金属が小さく鳴った。軋む音のまま彼が足先だけで揺れる。私もその後を追ってブランコに腰掛ける。金属の擦れる音がして、久しぶりに聞く音だなと思う。そんな私の想起を考えることなく、翔くんは口火を切った。

「で、君は一体誰なんだい?」
「私、あの、あなたに言いたいことがあって」
「なに?」
「生まれてきてくれてありがとうございます!!」
「は?」

きょとんと彼は驚いた顔のまま呆けている。私は初めて見る顔だな、と思いながら言葉を続けた。

「あなたがいるだけで救われる人間はいるんです。私はそうで。だから笑っててほしくて、生きていてほしくて、でもどんどん暗くなっていくから」

堰を切ったように語り始める私を彼が見つめている。自分でも何を言っているのか分からない。その時、カバンの中で何かが動いた。ごそごそと音を立てるカバンに驚いて触れるが、動くようなものは持っていない。彼にごめんなさいと断りを入れてからカバンを開けると、からりと鏡が飛び出した。

「鏡?」

彼が足元に落ちた鏡を拾う。すると「呪具か」と呟いた。じゅぐ≠ニいうものが何か分からず首を傾げる私に彼はなんでもないと冷たく告げる。

「私!この鏡に前からあなたが映っていて、それだけが支えで、人間なんて大嫌いなのに本当にあなたがいてくれたから私は」

私は何を言おうとしているのだろう。
彼に会えたら「ありがとう」とだけ伝えようと思っていたのに。私は人間嫌いが治ったわけでも、信用できるようになったわけでもないのに。

「生きてて良いって思えました。本当に、ありがとうございます……」

その言葉は私自身驚いていたが、なにより自分にその言葉は沁みた。言いながら、私生きてて良いんだと思う。そうして思えば色んなものが許せる気がする。両親、教師、クラスメイト。もっと私は声を出して良かったのかもしれない。この人に伝えたかったように。
後半は泣き声に溶けてしまっていた。それでも彼は黙ってその話を聞いてくれていて、泣きじゃくる私にポケットティッシュを差し出してくれる。その優しさがじわりと沁みる。やっぱり優しい人だった、と心が穏やかになっていく。歪む視界の中で彼の顔が優しく映る。どんな顔をしているのか見たくて何度も涙を拭っても止めどない。でも彼を探し出してここまで伝えられたことに達成感もある。大嫌いな自分に達成感という水が満ちて、ほんの少しだけ自分を認めてやれるような気さえした。涙が人を強くするなんてものは嘘だと思うけれど、それは涙の理由に依存する理論だと思う。少なくとも、今の私の涙が私を強くはしないけど世界を優しく映した。

「……君がどうして私にそんなことを言うのかよく分からないけど、でも鏡を見ると自分じゃなくて君が映るのはそういうことなのかな。ありがとう。私にそう言ってくれて」

私は夏油傑と続ける。一瞬なんの事か分からずにきょとんとしていると、名前だよと付け加えられた。翔くんじゃなくて、すぐるくん。私は何度も彼の名前を呼んで、何度もありがとうと言った。何度も何度も感謝が尽きなくて、ただありがとうと伝える私のすぐ横ですぐるくんが微笑んでくれている気がして何度でも言おうと思える。何に苦しんでいるのか分からないけれど、どうか生きて。どうか1人で苦しまないで。ただただありがとう。涙に濡れながら、何度もしゃくりあげながらそう伝えると「うん」と返ってきた。しつこい私にしつこく「うん」と返してくれる。そのまま陽は傾いてきた頃に漸く私は落ち着いて、すぐるくんはずっと「うん」と言い続けてくれていたが、ふと顔上げてと言われて顔を上げた。すぐるくんは空を指差している。

「見て、虹」

斜陽で茜色に染まりつつある空を、青と茜を繋ぐように虹が跨っている。1年ぶりの虹が鮮やかに脳裏に焼き付く。太くて大きな虹。

「いい事起きたね」

あなたが笑ってくれるのがなによりいい事です、と呟いたらすぐるくんは声をあげて大きな声で笑ってくれた。
その後すぐるくんとメアドを交換して、私が学校に通い始めるのはまた別の話。




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