理由を君へ


近頃、彼とはゆっくり口をきいていない。
私の首元には彼の痕跡が残っているし、太ももにも彼の力強さは残っているけれど、残っているのは行為の跡ばかりだ。心より尽くしてくれた言葉は近頃、ない。

朝方まで貪られた身体は怠いが、任務の1時間前を知らせるスマホのアラームで身体を起こした。明朗快活とはいかないまでも普通の朝。鳥の囀りが窓の向こうで響き、カーテンの隙間からは眩い陽射しが差し込んでいる。しかし、特注の大きなベッドには私しかいない。シーツに触れても、とっくにその温もりは消え失せていた。

まただ。

春を超え、関東は梅雨入りしたばかりのこの時期は呪術師にとって所謂繁忙期である。毎年この時期は同級生である悟や硝子、そして想い人である傑とも顔を合わせる機会がぐんと減るのが恒例だ。よりにもよってこの代は呪術界で力を持ち、活躍する代だから殊更である。

重すぎる重力に逆らってベッドから降り、カーテンを開くと眩いと思われた陽射しは薄暗く、時期らしい霧のような雨がしとしとと地面を濡らしていた。僅かに響く軽い音の中、スマホのスヌーズが響く。すぐに止めて、メッセージで「おはよう」と傑に送った。返事はいつか来るだろう。
寂しいなどと思う余裕もない。

今朝は一時的に封鎖されている病棟の任務が入っているし、昼からは少し離れた山間部のお祭りで人が消えた案件の調査があるし、夕方には学校を3箇所回らねばならない。
幸い夜には体が空くために睡眠はとれるが、逆に言えばそれしか自由は無い。不明瞭に白くなった窓ガラスに映った自分を少し眺めてから、私はスーツに着替えた。


「……は?もう1回言ってくれます?」
「だーかーら、今夜結婚するんで式来てくださいね」
車を滑らかに運転する補助監督の口から聞こえた言葉は聞こえなかったわけではない。
信じられないと私は言いたかったのだ。

この繁忙期に?
今夜結婚式?
────正気か?

ぐらりと回る視界に思わずこめかみを押さえる。こちらが深呼吸をして呼吸を整えている間にも若い補助監督の鈴木は何処吹く風で話を進めていく。どうやら学長も式に参加することを快諾したようで、参加者の中には悟や硝子、傑もいるらしい。
私たちの予定に大きな穴を開けるだなんてよくやるものだ。

「私たち付き合って5年も経ってて、いい加減結婚しようって先月プロポーズされたんです!だから幸せのお裾分けで皆さんには参加して欲しくて!」

まさに幸せの絶頂という様子の彼女が言う「5年も」という言葉に奇しくも反応してしまった。私と傑も付き合って5年だ。しかし結婚の話は出たことがない。運転席に座る補助監督と自分との差にげんなりする。
傑はこれを聞いてどう思うのだろうか。
あ、忘れてたな、とか思うのだろうか。
別に傑を軽薄な人間だと思っているわけでは決してない。どちらかと言えば情に厚いタイプですらある。

学生時代にちょっとした問題は起こしてしまったものの、それ以降は後輩たちの教育に力を注ぎ、悟と傑で教師業に就き、心血注いでここまでに至っている。
「非術師のために」とは言わなくなったが、仲間たちが傷つくことが減るようにと懸命に任務をこなすその姿を見続けてきた。私はそんな傑を好きになって、ずっと支えたいと思って同棲を申し出たのだ。多忙の中で、公私共々支えられたらと。そこに不満は無い。

だがしかし、こうも容易く同業者が結婚してしまえば思うことが無いわけでは、ない。
つい恨み言を言ってしまいそうな自分に鞭を打って「おめでとう」と呟いたが、窓ガラスに映る私のこの顔は誰にも見せられない。そぞろになる集中力。奥歯を噛み締め、頭を振ってから改めて資料に目を通したが、すっかり内容は頭に入らないうちに現場へと到着した。


祓って、祓って。そしてまた祓って。
時折すれ違う幸せそうな非術師を見つめて、また祓って。微笑む補助監督の甘やかな日々の片鱗に触れて、また祓って。

だんだん自分が嫌になる。胸を濁らせる澱みに目を瞑るが、その存在がどうしたって肥大化していく。

傑に会いたい。
しかし、今朝送ったメッセージに返事はなかった。まだ体が空いていないという証だ。だのに私は鼻がつんと痛んで、迫るようなメッセージを送る。

「まだ時間ない?」「声聞きたい」「会いたい」
「傑は私のこと」
どう思ってる?と打ちそうになって最後のメッセージは削除した。重い女。こんな女にはならないと過去に誓ったはずだった。支える女になるのだから、彼の迷惑にはならないと。そう、自分の中で決めたはずだったのに。どうしてこうも人は弱いのだろう。
人の幸せに触れて、その眩しさに目が眩んでどうして足を止めてしまうのだろう。


任務はもう少しで終わりだが、もう夜は更けていた。昼間よりも自分の昏い顔が窓に映る。補助監督の顔にも疲労が見えていて、この後式を挙げる花嫁には見えがたい。

無言の車内は滑らかに暗闇を進み、最後の任務地である小学校へ到着した。
今日はこれが最後だ。
重い身体を動かして車を降りる。予定では19時には終わる予定だったところを1時間と少し超えているのは純粋に申し訳ない気持ちにさせられる。霧散しそうな集中力をかき集めて帳の中を進んだ。静寂に城のような建物が聳え立つ。雨はあがっていた。


ハッと意識が戻った時には私の左腕は身体と離れ掛けていた。ぶちりと肉の裂ける感覚に飛び跳ね、前方にいる呪霊から距離をとる。油断してしまった。鋭い痛みと熱が腕を走り、思わずもう片腕で腕を押さえたが、隙間からは血が溢れ出る。ぼたぼたと多量を思わせる流血音に思わず舌打ちをして構えた。
まだ右腕じゃなくて良かった。利き腕が落ちると呪力が増す分精度が落ちる。術式が呪霊に向かって弾けた。

呪霊を祓い終えると素早く帳が上がり、車の横で待機していた補助監督が私の様子を覗いた。途端に顔面蒼白。じわりと涙が滲んで私に駆け寄ってきた。濡れた瞳に街灯の光が反射している。私はと言えばスーツのジャケットで取れてしまいそうな腕をぐるぐる巻きにしていたところだったのだが、余程大きな怪我をしたと思われたのか補助監督は大慌てで高専に電話を掛け始めた。大袈裟だな、と思うのと同時に有難くも思う。怪我と死体には慣れてしまう仕事ではあるものの、人の心は失ってはいけない。

一瞬パンツスーツの中でスマホが震えた。新しい任務かと思い、スマホを取り出して画面を見る。
1件メッセージが来ており、夏油傑と名前が表示されている。
「すぐ行く」とたった一言。
そのメッセージを確認したと同時に補助監督は電話を終えて駆け寄り、私の肩を抱いて車まで誘導した。後部座席のドアを開け、私を座らせると補助監督は地面に座り込み、私を見上げている。

「あの、平気ですから」
「平気じゃないんです……平気じゃないんですよお!私が夏油さんに殺されちゃいます!」
「いや、あの」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい!だから」

だから?と思ったところで、車に影が掛かり、補助監督の肩がびくりと震えた。後部座席に乗り込んだ私の手を地面に座りながら握っていた補助監督は、油の差していないブリキの人形のようにぎしぎしと頭を捻る。

「やあ」

傑だ。余程急いできたのかハーフアップの髪は乱れ、額には汗が滲んでいる。少し息も切らしているように見える。それはそうだ、傑からメッセージが入ってから3分ほどしか経っていないのだから。異様な早さに目をしばたたかせていると、補助監督は更に顔を青くして私から距離を取り、それはもう素早く立ち上がってみせた。

「かなた、硝子に怪我を見せよう」
「え、あ、うん。お疲れ」
「お疲れ様です!夏油呪術師!」
「君は車で帰って。彼女は私が連れて行くから」
「かしこまりました!」

待って、と私は声を掛けた。
「彼女、今夜挙式するんだって。時間もあるだろうし、彼女も連れて行ってあげようよ。車は後で回収すればいいし」と私は100パーセントの善意で言ったのだが、補助監督は口端を引き攣らせるし、傑は顔を逸らして深く溜息をついた。なんで。

「それは大丈夫だから、ほら、行くよ」

後部座席に座っていた私の膝裏と背中に手を回した傑に容易く持ち上げられる。温かい身体。弾力のある筋肉に包まれると、ややあってふわりと上空へと身体が浮いた。呪霊の中では比較的見れる姿をしている呪霊の上にどかりと座った傑ごと上空を流れていく。雨上がりのしっとりとした爽やかな空気が肌に触れるが、傑の顔は明るくない。
迷惑を掛けてしまった。
それほど難しい任務ではなかったはずなのに。恥ずかしい。情けない。
ごめんと謝ろうとしたが、先に口火を切ったのは傑の方だった。

「良かった」

なんの「良かった」なのか分からずに首を傾げる。

「腕が取れなくて。ギリギリくっついてるんだろ、その腕」

スーツのジャケットを不格好に巻き付けた腕を傑が指差すので、肯定の意味で頷いた。肉は切れたが骨は繋がっている。不幸中の幸いというやつだ。

「左腕がないと、私も困るからね」
「困るのは私じゃない?」
「私も困るんだよ。指輪の行先に悩むだろ」

は?と間抜けな私の声を爽やかな風が攫って行く。気付けば傑は暗闇の中、大きな半月にその顔を照らされていた。白く煌々と輝く月を背景に、傑は切なそうに微笑んでいる。指輪という言葉に僅かに脈が跳ねて、そして期待に胸が膨らむ。かと思えば、その微笑みに胸が張り裂けてしまいそうだ。

「……傑、指輪、って……」
「……補助監督に挙式の予定はないよ。今日、それを理由にして早く帰ってきてもらえるように私の方から頼んでいたんだ。指輪が完成した今日、どうしても君に伝えたいことがあって」

つまり、あの補助監督が嬉しそうにしていたのは自分の結婚ではなく、私たち2人の。申し訳ないやら嬉しいやらで思考がまとまらない。

水分がじわりと滲んで視界が歪む。じわりじわりと優しい顔が潤んでいき、頬を伝い、顎から滴っていく感覚が次第に増えていった。ひっきりなしに伝っていく雫を、傑の指が掬う。

「愛してるよ、かなた。近頃は時間をなかなか作れなかったけど、でも本当にこの気持ちが薄れたことはない。指輪は硝子に治してもらってから渡すよ」
「いま、が、いい」
「……じゃあ、とりあえず右手にしようか」

傑はポケットからドラマで散々見た黒い四角を取り出し、ぱかりと開いた。月光が跳ねる白い光はきらきらと光を散らす。その光を摘むと、大きな手が私の右手を攫って薬指にそれは沈んでいった。きらり、きらり。

「結婚してください、かなた。これからは君のために生きたいんだ」

しゃくりあげる私は言葉を紡げず、その代わりに彼に抱き着いたけれど、それでも彼は嬉しそうに笑い声を上げた。
美しい夜だった。




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