リアル・アンリアリティ
からからから、と自転車の車輪が横たわったまま回っていた。
ひしゃげた車体は遠く、腕は動かない。
周りに人の気配はあるのになんの音もしない。
その日は雨が降っていた。
今にも雲ごと落ちてきそうな真っ黒な曇天は夏油傑の眼のようだった。その黒さは時間と日差しを丸ごと飲み込み、東京新宿辺りはまるで夜のようだ。
鋭く地面を刺す大雨の中、傘を差さない彼に傘を差し出したことを思い出す。
黒の平べったい折り畳み傘は彼には小さく、既にびしょ濡れの頭を守るので精一杯。降水確率50%だった今朝の天気予報に舌打ちをした。大都会東京で濡れる私たちを通りがかりの人々は見向きもしない。
透明な存在。いっそ笑われたら私たちは怒れるのだろうか。それとも、やはり透明なフリを続けるのだろうか。
「傑、濡れてる。早く中に入ろう」
「必要ないよ。私に傘は必要ない」
「濡れてるんだから傘は必要だよ」
「……じゃあ、かなたはずっとそばにいて、雨が降る度に私に傘を差し出すかい?」
傑の言っている意味は分からなかった。推測しか出来ず、それは自分の『そうであって欲しい』という理想が含まれている気がして思考の隅に追いやった。
すっかり濡れネズミのような色に変わった傑の着るスエットは重そうだ。
傑の背後にあった緑色のコンビニエンスストアは雨の勢いですっかり白けている。
一歩踏み出すと地面数cm溜まった水がびちゃりと私たちの足を汚す。よりによってサンダルの傑の足は既に黒い。
「いいよ。その代わり、ちゃんと傘に入って一緒に帰ってよね」
私のその言葉に顔を上げた傑の表情が思い出せない。交通事故でぶつかる瞬間がすっぽり記憶から抜けるように、私は、そんな傑の顔を思い出せない。
ざぱん、と音がした。波が何かにぶつかって押し戻されるような音だ。
私の手と頬に当たるさらさらとした物で、すぐに自分が海にいるのだと理解する。しかし、自分の記憶をどれだけ探っても海の近くにいたような覚えはない。
変な汗をかきながら、あちらこちらに手を伸ばす。だが、触れる物はさらさらとした砂のみ。
波の音は近い。
光に目が眩まないようにそっと目を開いた。
その心配なぞ全く必要のない曇天はあの日のように薄暗かった。
コールタールの海に墨汁を零した空。
時代遅れの白黒映画を映したような光景が確かに目の前に広がっていた。命を感じない。
自分以外の存在を全く感じない。
壊れたロボットのように波の音だけが繰り返される。
私は死んだのだろうか。
だとしたらここは地獄なのだろうか。
思い描いていた地獄とは違うが、いつだって彼を求めた私の行き着く先には何も無い。
そう考えれば、確かに妥当な地獄のように思えた。
「なに腰を落ち着かせているんだい」
背後から掛けられた声に勢いよく振り向いた。そんなはずない。そう思っても、私の骨身にまで染みたその声を間違えるはずがない。首がぐき、と鳴ったがそれどころではなかった。男の頭上を浮かぶ輪っかが白く光る。
「傑、だよね」
「私の顔を忘れたのかい?」
「まさか、忘れてない。絶対」
「この世に絶対なんてないよ」
五条袈裟に身を包んだ傑は頭の先からつま先まで全てが夏油傑だった。
黒い海風にハーフアップの長い髪が流れる。
さらさらと風に晒される砂が踊りながらどこかへ去っていくのももうどうでもいいくらい、私は目の前の男に釘付けだ。
最後に見たのはいつだったか。宣戦布告しにきた日に私は高専を離れていたから、あの日、新宿の雨の中が最後。
「いつまでも座っていないで行くよ」
「どこに?」
「どこにでも、だよ」
ひらり翻る袈裟の裾を追い掛けた。
砂に足がもつれて転びかけても傑はこちらを振り向かない。その代わりに、小さな子どもと歩くかのようにスピードが落ちた。流れていく大きな背中は私を待っている。
「ねえ、待って」
「待たないよ」
そう言って立ち止まる傑に私の呼吸が止まる。いつだって優しい男は矛盾を抱いて生きていた。
横に並んだ私を横目で確認して傑は歩き出す。コールタールの海はどこまでだって続いていたが、砂浜は広くない。途中から低くて意味があるのか分からないような堤防が姿を現し、その横に真っ直ぐな道が続いていた。その道は100mほど進めば坂道へと変わる。
その先は見えない。
整備もされていない土が剥き出しの茶色い道を2人で進む。
「ねえ、その天使の輪なに?」
「ああ、これかい?これならこの道の先にある小屋で買えるよ」
「買うの、これを……?」
「300円だったかな。課税はなし」
「税金ないんだ。ちょっといいね」
自分で言っておいて、はたして本当にいいのか分からなかった。
それでも傑の頭上には天使の輪が浮いており、どういう仕組みなのか些細な動きでふわりと揺れてぴかりと光った。
僅かに角度のついた道を進むと、傑が言っていたようにポツンと小屋が現れた。小屋と言っても交番ほどの大きさもない。物置くらいの大きさの小屋は木製の素っ気ない姿をしている。道に面した壁には顔が出せるくらいの窓が付けられており、そこにはA4のコピー用紙にデカデカと【300円】とマッキーか何かで書かれていた。想像より遥かにチープな作りに思わず足が止まる。
「買わないのかい」
「いやー……なんか、思ってたのと違うというか?」
「ほら、早く」
傑の大きな手で背中を叩かれると前に進まざるを得ない。数歩前に出て窓を叩こうと手をかざすと、叩く前におばあさんが顔を出した。真っ白な髪に笑いジワの濃いおばあさんはニッコリ笑っている。
「いらっしゃい。買うのかい」
「あ、はい。1つお願いします」
「はいよ。アンタは顔が少し小さいから小さめサイズにしておこうかね」
サイズとかあるのか。
おばあさんが何やらガザゴソと漁っている間に、上着のポケットから小銭入れを取り出す。普段あまり小銭は使わないが、学生にジュースを奢ったりする用に持ち歩いている小銭入れだ。しかし、その小銭入れは随分軽い。
あれ?と覗き込むと、中には300円しか入っていなかった。
「はいよ、お姉さん」
「ありがとうございます、おばあさん」
シワシワの小さな手に300円を乗せる。おばあさんは再び笑みを深くして、私たち2人に手を振った。
2人でおばあさんに手を振り返すと、おばあさんはすぐに窓を閉めて姿を消す。
買った天使の輪には内側にバーコードが付いていた。
「……なーんか、イメージが……」
「頭の上にかざすといいよ」
「それだけ?」
「それだけ」
「浮くの?」
「浮くよ」
平然と答える傑に急かされてバーコード付きの天使の輪を頭の上にかざす。
すると、ぷかりと浮かぶ。
傑よりほんの少し小さめの天使の輪が呼応するようにぴかりぴかりと光った。
2人して300円出して買った天使の輪を揺らしながら道を進む。道の先、遠くには灰色のビルが立っているのが見えた。
「あれ何?」
「役所みたいなものだよ」
「役所……地獄にもあるの?」
「ここは地獄じゃないからね」
ざぷん、とコールタールがまた飛沫を散らした。今にも降り出しそうな曇天も私たちをついてまわる。
「じゃあ、ここは?」
「黄泉の入口、みたいなものかな。私もそこまで詳しくはない。ここはね」
「詳しく見えるけど」
「君よりは長くここにいるだけさ」
歩幅は広がらない。小さな子どもに合わせるようにゆっくりと歩く傑は私がわざとゆっくり歩いているのに気が付いているのだろう。生き物なんていないだろう海から不思議と潮の香りが漂う。
ざりざりと鳴る乾いた土に私たちの足跡は残らない。
「役所には行かない」
「じゃあどこに向かってるの」
「この先に岬がある。そこには灯台があって、麓に船を待たせてるんだ」
「船って……木船?」
「いや、小型のモーターボートだよ」
世界観がちんぷんかんぷんだ。
傑が話すには、その小型モーターボートに私は乗らないといけないらしい。そのモーターボートが向かう先がどこなのか、そして何故乗らないといけないかについては何も教えてはくれない。
自分が言いたいことばかり言うのは高専の時から全く変わっていない。
そう思えば思うほど、切ない胸は壊れそうなほどに締め付けられた。ほんの数cmの距離を縮められない。あの日のように拒絶されたら、私はもう二度と立ち直れはしないことを理解していた。
歩く度に私の手が揺れて、傑の腕は私と違うリズムで揺れる。
そういえば、あの時、傑はどんな顔をしていたんだっけ。
傘に入ることを選ばず、一緒に帰ってくれなかった傑の顔はどんな顔だったのか。
絶対に忘れないと思っていたのに、傑が言うように本当に絶対なんて無いのだ。
「かなた」
「……なに?」
「家でも建てようか」
「ん?」
「家を建てて、そうだな。庭もあった方がいいかな。BBQとか好きだっただろ」
「んんん???」
突然、この先の生活について語り始めた傑に違和感を覚える。
それは勿論、この先私と傑が一緒にいると言っているようなものだ。私からすればこれ以上ない未来だが、ここが黄泉の入口だとするなら言葉の周りを漂う不穏さがどうしても拭えない。
「ここ黄泉の入口なんだよね?」
「そうだよ。……あ、灯台が見えてきた」
「もう少し分かりやすく説明して欲しいんだけど……」
天使の輪が浮かぶ頭を私が抱えるのを見て、傑が眉を下げてくすりと笑った。
笑った。
いつもキリッとした顔をしているくせに、少し眉を八の字に下げて笑う顔が私は大好きだった。少し目頭にシワが入っていても、笑った顔はあの頃と変わらない。
発火するように一瞬で目頭が熱をもって涙がじわりじわりと溢れ出した。
白黒映画のような景色の中で涙に反射する光できらりきらりと傑が輝いている。震える喉。息の吸い方も分からない私が立ち止まり、それを振り向く傑。
「ここで泣くんだね、かなた」
優しい声音で名前を呼ばないでほしい。
傑のゴツゴツとしたいかつい人差し指が涙を掬う。その指は大きくて、そして冷たい。
死体と同じ温度だ。
何度も何度も繰り返し触れた死の温度。
「ここで泣かないでくれ。船に乗るんだ」
「っ、な、で」
「どうしても乗らないといけないんだよ」
尚も泣きじゃくる私の目線が上がる。
私の膝裏に手を回した傑が私を持ち上げていた。たった300円の天使の輪がチープなくせに明確な死を私に訴えていることが憎い。
涙が袈裟に吸われていく。私もやっぱり死んでいるのか、涙は出るくせに鼻水が垂れないのは都合が良かった。
傑はやっぱり私に歩きを合わせていたらしい。どこまでも先にあるかと思われた船にすぐ辿り着いてしまった。
真っ白なモーターボートには誰も乗っていない。
傑は私を抱えたまま船に乗り込む。
コールタールに船が沈む。
ぐわんと揺れる船は誰が操縦するでもなく、すぐに出航した。
大きな波を打つ黒をかき分けるように白が進む。時折跳ねる船に身体が上下する。危ないかと思えば、必ず傑が私の身体を包み込んだ。大きくて冷たい身体が寄り添って黒の中を進んでいく。
響くエンジン音に耳が慣れてきた辺りでぽつり、と肌に冷たいものを感じた。
雨だ。
降りそうだとは思っていたが、本当に降り出した雨に私たちは濡れていく。
私は立ち上がって屋根の方へ向かおうとするが、傑は動かない。
「……屋根に入ろ」
「必要ないよ。私に屋根は必要ない」
「濡れてるんだから屋根は必要だよ」
前にこんな話をした。
ハッとして傑の顔を見ると、あの日と同じ顔をしていた。
「傘も屋根も私は必要ない。必要なのは、きっとずっと、君だった」
そうだった。
傑はこんな顔をしていた。
目ばかりが覚悟を語っていて、寂しそうな顔をしていた。
「傑!」
私が傑に向かって伸ばした手は宙を舞う。
傑の大きな手が再び私の背中を押したことは、冷たい海に沈んでいく中で気が付いた。
ぶくりぶくりと大きな泡が私の口から溢れて海上へのぼる。
ちらりと泡の向こう側で見えた傑が懸命になにか言っていた。
真っ黒だ。
いや、真っ暗だ。
身体が冷たくて仕方ない。
「かなた!」
そう叫んでいるのは傑ではなく、硝子だった。マスクをして、青い手袋をしている。
対する私は裸だ。
「良かった、良かったよ」
なにが?と聞きたくても口にはチューブが差し込まれていて声が出せない。
刹那、瞬間風速の勢いで記憶が蘇った。
「お前、交通事故にあったんだ。本当に、死んだかと思ったぞ」
硝子の懸命な処置によって私はどうやらこの世に命を留めたらしい。
しかし、私は納得がいっていなかった。
それなら、硝子が処置しても消えない背中の大きな手形のような痣はどうやって説明するのだろう。
小銭入れから消えた300円はどうやって説明するのだろう。
「かなた、なにそれ?天使の輪?」
五条悟から頭上に何か浮かんでる、と言われた輪っかはどう説明するのだろう。
傑が言う「いつか」とはいつなのだろう。
思うことは色々あったが、それはきっと今思っても仕方の無いことなのだろう。
「傑」
《なんだい》
「私も愛してるよ」
私にはもう、頭に浮かぶ天使の輪は見えないけれど。海上を揺蕩う白い船で叫ぶ君の言葉は今度こそ絶対、絶対に忘れないよ。
きらりきらりと輝いて、鮮やかに。
絶対に。
← ∵ →