ねえ、その足を止めてしまえたら


「ねえ、硝子。大好き」
 かなたはよくそう口にした。寂しがり屋のかなたは入学して間もない頃から同じ女子寮内に部屋があるというのに滅多に自分の部屋に帰らず、大体は私の部屋で過ごして、夜は決まって私と一緒のベッドに入って眠った。かなたはごめんね、とよく言っていたが私はそれが心底嫌ではなかったし、寧ろ宝石みたいにキラキラとしている思い出だ。一緒に腕を組んで買い物をして、一緒にカラオケで歌を歌って、そうやって任務以外の時間は二人でたくさん過ごした。しかし、高専一年時にあった余裕は次第に減っていった。任務量が増え、等級が増えれば怪我をすることも増えていく。怪我をするあの子が見たくなくて、どうにかしてあげたくて私は懸命に医療を学びながら反転術式の精度を上げていった。
 三年になる頃には私自身、様々な人と関わることが増えていたが、すっかり私はかなたの寂しがり屋がうつっていて、朝晩は必ずあの子と過ごさないと私自身が耐えられない気がしていた。あの子は私の傷のない手を取って、綺麗だねと囁きながら手を撫でる。何度も何度も撫でてくれる。その代わりに私はよく頑張った、と頭を撫でかえした。さらりとした柔らかい髪が指先を滑って、そして。
 
 初めてキスをした次の日のこと。五月にしては気温が高く、真夏日になると今朝言っていたお天気キャスター。その姿を思い出していると急患の知らせが鳴った。かなただ。頭が真っ白になる。かなたは大きな怪我を負い、担架に乗せられた状態で医務室に運ばれてきた。補助監督は必死に声を掛けていて、心臓がひやりとして、ショックですぐにでも死んでしまいそうなのは私の方だった。
 あの子はいつも通りに任務にあたったらしいけれど、途中、呪詛師による邪魔が入ったらしい。処置を終えた私の耳にその言葉が入り、人生で初めて全身が沸騰するような怒りに駆られた。駆られたからといって呪詛師を殺しに行くような無茶が出来る立場ではなく、精々五条と夏油に「見掛けたらボコボコに潰せよ」と懇願しに行く程度だ。
 情けない。
 ボロボロになったかなたは10日後、再び任務へと足を伸ばした。
 私は止めたかった。
 
 秋には夏油による大きな事件があり、五条は一人称が変わり、かなたは今まで以上に任務に精を出すようになっていった。すっかり私たち全員が揃うことはとうとう本当になくなっていた高専四年の夏。夜蛾先生に勧められて先輩の話を聞いた。その先輩というのは元々高専で医者をやっていた人である。その人は反転術式の使い手ではなく、人間の自然治癒力を僅かに向上させる術式の持ち主だった。
「反転術式、いいなあ。私もそこまで出来ればもっと人を救えたかもしれなかったのに。歩けないままになってしまった人とかいて、そういう人は引退を免れなかったし、救えなかった命も多いんだよ」
 その人は草臥れた顔で呟いた。自嘲に染まる目元は昏い。私は「万能でもないですよ」とフォローになっているのか、なっていないのかよく分からない言葉を添えたが、自分でもどうかと思う。その人がそんなところをつつきたい訳ではないことはよく分かるから。
 それでも分かってほしいこともある。
 治せてしまうからこそ、人はまた死地に赴いてしまうのだ。あの子の笑顔と柔らかい唇を思い出す。温かい柔軟剤とシャンプーの香りがしていた彼女は、今日も血の匂いを漂わせている。
 
 
 夏だ。蝉時雨がけたたましく空間を支配している。茹だる気温に項垂れると、道の先では向日葵が陽炎に揺らめいていた。いつから向日葵なんて植える趣味が高専に出来たのか私は知らない。短い間にも周囲は変わっていくものだな、と頭の片隅で思いながら見慣れた門をくぐった。
 高専を卒業して間もなく、都内の医大に入学した私が高専に顔を出すのは随分久しぶりのことだった。四ヶ月も高専を空けるのは入学して以来一度もなく、忙しない日々の中でも不思議な感覚だけが身体に残っている。かなたからの連絡は週に一度だ。毎日は私の負担になると考えてのことだろうが、その気遣いが私には寂しくて堪らない。そんなことを言えば毎日連絡が来るようにはなるんだろうが、あくまでそれは言われたからで、かなたの方から自主的に送ってきてほしいだなんて私は考える。この寂しがり屋をうつした張本人であるくせに、そんな気遣いをするような大人になってしまったのだ。自分とあの子の差に辟易する。自分の子どもじみた幼い考えがこうもより高専から足を遠ざけているのだろう。
 しかし、それにも限界はある。
 今朝方、夜蛾先生から高専に来て欲しいと連絡を受けた。昨日の深夜帯から今朝まで掛かった任務で重傷者が出たとの知らせである。臨時の医者が控えてはいたらしいが、それでも反転術式に比べると見劣りするのは違いない。
 私は暑さに眩暈を覚えながら医務室へ真っ直ぐ進んだ。一瞬でもかなたとすれ違ったりしないか考えてしまう私自身を心の奥にしまいこみながら。
 医務室に近付くと、補助監督が医務室からはみ出るように転がっていた。パイプ椅子を四つ並べて簡易ベッドにしているようだ。よく見れば頭や腕に包帯が巻かれている。軽い応急処置で置かれているのだろうか。
 半開きの扉をすべらせると、医務室内は人でごった返していた。ベッドは全て埋まり、処置台にも人が寝かせられている。
「あ、家入さん! こっちこっち!」
 そう言って私を手招きしたのは見た事のある顔。昨年私の反転術式を羨んでいた先輩である。この人が臨時で入っていたのか。
 足早に近付くと、ベッドに並んでいたのはかなただった。どくん。自分の体内で脈が騒ぐ。顔色が悪いかなた。すぐに触診を始める私に先輩は言う。
「その子お願い。私はこっちの人の処置をするから」
 反転術式ならどうにか出来ると思う、という言葉はほとんど聞こえていなかった。気が焦る。打撲痕が多く、その体は痛ましい。そして下半身を中心に切創を主とした深い外傷も目立っていた。適切にその傷にあった処置を施していくが、ふと目に入ったのは足首だ。細い足首のやや上に深い切創がある。それは筋肉にまで達し、アキレス腱が切れているのではないかと思われる傷だ。
 先輩の言葉が蘇る。
 
 歩けないまま引退
 
 この怪我は治せるだろう。かなたの身体は一通り見たが、治せない傷ではない。きっと治せば二週間後には今まで通り任務に就くことが出来る。
 
 ───────でも、それでいいのだろうか。
 
 ねえ、かなた。呪術師なんてやめて一緒に暮らそうよ。学生時代部屋に全然戻らなくて、私の部屋でほとんど一緒に暮らした時みたいにさ。一緒におばあちゃんになろうよ。
 
 ぽつぽつと雨の音がした。雨漏りかと思って顔を上げても頬を滑る雫が顎を伝っていく。私の周囲だけが本当に静かで、あの子の小さな吐息と私の頬を伝う雨だけが音を立てている。たっぷり数分間立ち尽くした気分だったが、実際は五秒程度私は思案していた。それからかなたの足首に手を伸ばす。
 任務は受けて欲しくない。でも、このまま歩けなくなってしまったら一緒に買い物も行けなくなっちゃうもんね。
 分かっている。己の倫理観なんてものは実際どうでもよくて、私がわざと治療しなかったことがこの子にバレて嫌われてしまうことだけが怖いんだ。だから、仕方なく、治療する。
 治して、そしてまたこの子を死地へと送る。
 私はこの小さな白い四角の中でその帰りを待って、泣こうが喚こうがそんなことを続けるのだ。
 
 愛するかなた。
 君の正義感が歩みを止めるまで。




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