喉にかかる色


四角い窓枠の外ではツバメが飛んでいる。暑さの厳しかった時期から白い冬を越し、すっかり春めいたかと思えばまた茹だる夏がやってくる。そのほんの少し手前。
ぼんやりとそんな季節を眺める私と彼女は高専を出て、早数ヶ月が経過していた。
今日はしとしとと雨が降っており、狭いワンルームは薄暗い。ぴちょんぴちょんと音を鳴らすのは雨とキッチンの緩んだ蛇口で、締めてもすぐに緩んで水滴が落ちていく。その音を聞きながら、私と彼女は部屋の隅に追いやった厚めの三つ折りマットレスの縁に身体を預けて座るのがすっかり定番となっていた。厚さ10センチのマットレスはそのせいで歪んでいる。
「雨酷くなる前に買い物行かなきゃ」
「冷蔵庫の中身空だったっけ?」
「油と醤油が切れそうなんだよ」
「それは大変だ」
「でしょ」
大変だと言いながら彼女も私も動く気配がない。雨の日は動きたくない、なんて高専にいる時には思わなかったというのにすっかり私たちは怠け癖がつくようになっていた。あの日、灰原が死んでまもない夏、彼女に手を引かれて高専を逃げ出してから。


「ねね、マニキュア塗っちゃおうかな」
「どうして?」
「もう戦う必要ないんだよ?だから爪も明るく出来ちゃう!やったね!」

手を引かれるまま流れ着いた小さなワンルームでの最初の会話はそれだった。彼女の言葉の意図も分からず、そして胸の中で蠢く自分の汚さを飲み込むことも出来ずにいる私を彼女は笑顔で押さえつけた。クリスマスの辺りまでは私にはまだ呪術師としての責務を感じて高専に戻る意思が微弱にも残っていたが、「戻るなら私を殺してからにして」と、彼女の命の首輪を掛けられてすっかり意気消沈してしまったのである。
どうして彼女がそこまで言うのか分からなかったが、彼女もまた、猿の醜悪さに嫌悪し、見切りをつけたのだった。私と彼女の違いと言えば、私はそれでも何かに期待していて、生まれてきた意味を呪術師としての自分に求めているところだ。
彼女は真っ青なマニキュアを左手の指先に乗せながら言う。
「生まれてきたことに意味なんかない。求める答えはない」
その言葉は背中に水滴が落とされるような気分にさせられる。狭いワンルームに逃げ場はないのに、一歩分身体を引く。
「でも生まれたからには幸せに生きることだって許されてるはず。私たちにだってその権利はある。人間なんだから」
己を納得させるような言葉だった。思えば、彼女は高専にいる頃から嫌なことがあると無理くり「人間なんだから」という言葉で納得させて飲み込んできていた。
なかなか等級が上がらず、悟と私、硝子に置いていかれると泣いていた時にも最終的には「人間なんだから上も下もあるよね」と笑っていた。それは無性に私が悔しくて、苦い思いをしたものだった。今回も彼女は飲み込んでいるのだ。飲み込む度、爪には鮮やかな青色が広がる。
「……綺麗だね」
「でしょ」
「でも悟の色だ」
彼女の手が止まる。私もどうしてそんなことを言ったのか分からず彼女の目を見つめてしまう。たっぷり5秒は見つめあった末に彼女は耐えきれないと笑いだした。安いアパートの二階角部屋であるこの部屋は声がよく響く。高い笑い声がよく響くので、彼女は笑い声を堪えるのが癖になったようだが、それでも堪えきれなくてよくこうして笑っている。そうして彼女が笑い出せば、あれほど笑えなくなっていた私もなぜか笑えてしまう。口元が緩んで、目が細くなって、気付けば笑い声が口から出て腹筋がぴくぴくと痙攣を起こした。久しぶりの感覚だ。
「分かった分かった、次はオレンジとか買うね」
「それって私のイメージカラー?」
「そうだよ。悟が青、硝子がピンク、傑がオレンジね」
「君は?」
「んー、黄色とかにしとく?」
「じゃあ黄色買ったら私の爪も塗っていいよ」
「本当に!?やった!絶対買う!」

彼女も私もこの胸の澱みを飲み込んで、それでも笑えるのならそれでいいと思えた。だから彼女の爪はすぐにオレンジ色になったし、私の爪は右手の小指だけ黄色に染められた。少しそれは恥ずかしかったが、こっそり手の内に彼女を飼っているようでそれはそれで楽しく思えた。


春。そんな生活が板についてきた頃である。ツバメは巣に戻り、雨は少し止んで真っ黒に染まった曇天も巣に帰り始めていた。曇天の隙間から光が差し込み、ワンルームも僅かに明るくなっていた。今だ、と思ったのは彼女も同じで同時に立ち上がった私たちは着の身着のまま近所のスーパーへ足を伸ばした。
近所のスーパーは徒歩5分である。たった二回角を曲がればすぐそこにあるのだが、彼女は一つ目の角で足を止め、瞬刻、逆方向へと走り出した。油断していたのである。
「かなた!」
走り出したその先には重い呪力の塊をすぐに感じた。ものの数秒、呪力感知が彼女より遅れてしまったのだ。すぐに彼女の後を追って走るが、出来事というものが起こる時はほんの一瞬なのである。
ごろりと足に当たったものが彼女の、かなたの頭であると気付いたのは走り出してすぐのことだった。甘い匂いがする。ごろごろごろ、と頭の重い部分を起点にして緩い円を描いて頭が転がっていく。思考が足を止めた。
何が起きた。
少し先には1級相当だろうという呪霊がキキキキ、と笑っている。その目の前には彼女の身体が座り込んでおり、彼女の腕の中には小さな子どもがおさめられていた。子どもはどうやら気を失っているようだ。子どもを、助けに行ってしまったのだろう。彼女の澱みを濾しても胸に残り続ける小さな正義感によって、こうも呆気なく。
頭部を失った身体はだらりと力が抜け、可愛らしかった衣服は赤く染まっている。あんなに可愛かったオレンジ色の爪も赤く。初めから赤かったかのように。赤く。
赤く。
────ああ、ただ私たちは笑って過ごす日々の中に生きたかっただけなのに。

なぜかこみあげる笑いが腹筋を刺激してぴくぴくと動く。

あははははは!

眼前に迫る呪霊も笑っている。
笑っている。

私は小指の爪を握り締めた。




×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -