赤い地球


地球は赤かった。たちこめる饐えた臭いが空間全体をむわりと包み込んでいて、たじろぐ暇さえない。地球の中心には赤く染まった大好きな同級生が立っていて、全てを焼き尽くすような黒い瞳に周囲の時は簡単に奪われてしまう。世界は残酷だ。そんなことは知っていたはずなのに、少し痩けた頬に飛び散る赤を親指で拭うその仕草全てに世界の終わりを感じる。どうしようもないのだろうか。いや、そんな。

奪われる時を取り返す為に私はなんとか足を振った。柔らかい肉塊を踏んで進んだ。悲痛に目玉を飛び出すその肉塊を踏んだまま、赤い同級生の腕を掴む。

「っ、帰ろう」
「帰れない。帰らない」
「ダメ、帰るんだよ」
「帰らない。かなた、───────」


目が覚める。ぱちりと体内で音が鳴る。
世界はぼんやりとした白とベージュで出来ていた。後頭部を締め付けるような痛みで身体は動かせず、そのまま目線だけで周囲を見渡す。そこはなんてことはないただの自分の部屋だ。机の上には一昨年のクリスマスに皆で買ったスノードームが季節外れの中で沈黙している。
ぼんやりと霞がかる意識の奥に何があったか考えていると、硬質な音がした。こん、こん。探るような音に返事をせずにいたが、それでも扉はややあって開いた。

「……起きてんなら返事しろよ」
「……頭、痛くて」

私の蚊が鳴くような声音に悟はふうん、と興味無さげに返事をして私のベッドサイドに、どかりと腰をおろした。

五条悟という男は恐ろしく真っ直ぐな男だ。遠慮というものを母の胎の中に置いてきたのと同時に、人を偽ったり意図して傷付けようなどとする精神性も持ち合わせていない。道徳的とは少し外れた善性の持ち主のクソガキである。口はシンプルに悪い。尚且つ、口から生まれたのではないかと思われるほど口数が多い。それは大抵同級生である私たちに向けられるものが殆どで、私や硝子は聞き側に回ることが多かった。傑が1番返事をきちんと返す律儀さを持ち合わせている。そんな悟が、たった「返事しろ」の一言以来黙りこくった。
いつもより遥かに存在感の薄い悟をぼんやりと視界の外で感じながら、窓から差し込む揺らめく光を見ていた。カーテンがふわりと揺れればそれに合わせて光が室内を走っていく。ズキンズキンと脳を叩く痛みと光が二人三脚をしている。視神経の奥で明滅する白の中でお団子頭のシルエットがほんのりと映し出される気がした。
傑は今どうしているのだろう。律儀で優しい男だから、どうせ今も誰かの為に神経をすり減らしているのだろう。私はそれが無性に悔しかったのだけど、彼の言う弱者生存≠ニいう言葉の圧倒的な光を知っていた。こんなに力強くて、こんなにも光り輝く正義を傑に出会うまで、私は知らなかったのだ。強烈に惹かれた。彼の真っ直ぐな背筋も、優しい言葉も、ゴツゴツとした硬い手も。日々努力している姿も見てきた。鍛錬、訓練、任務を繰り返しながら、私にもよく体術を教えてくれる。こっそり2人で訓練から抜け出して最寄りのコンビニまで競走することもあったが、そういう茶目っ気も好きでたまらない。
傑を想うと身体が温かい。

「……傑、は」
「アイツなら俺がなんとかした」
「なんとかって」
「あんなに頭下げたの初めてだわ。御三家とか上に頭下げたり、縛り結んで、なんとか傑の処刑は無しになった。まだ封印の間に繋がれてるけどな」

封印の間という言葉に背筋がひやりとした。水滴が背中を伝う。夢の中の赤い傑が振り向く。

「あー……アレ、夢じゃなかったのか」
「お前が血塗れの傑担いで帰ってきたんだろ」
「覚えてない」

……いや、覚えている。左肩に乗る温度のある重さ。揺れる黒。地球が赤いのは夢ではなかったのだ。こみあげる激情に拳を布団に叩きつける。ぼふん。ぼふん、ぼふん、繰り返せば布団の下の木枠がめり、と音を立てたからか悟が私の拳を掴んだ。

「あとお前が連れ帰ってきた2人の子どもは硝子が診てる。扱いはまだ決まってない」
「……私が戻ってきて、どれくらい、経ったの」
「4日。お前は熱出してずっと寝てた」
「そんなに」

明滅する光がスクリーンのように傑の黒い瞳を映し、そして震える子ども2人も映す。事情は分からないが、怪我をした子どもをそのままにはしておけない。名前なんだったっけ、何か聞いた気がする。そう思うと脳を叩く痛みが増していく。たまらずに溜息をもらすと、悟から錠剤を取り出され、何の薬か聞くこともなくぬるい水で流し込んだ。
頭を少し動かすだけでも吐き気がするような痛みに再び布団に身を沈めた。悟の表情は白い肌も相まって、金田一耕助シリーズの『犬神家の一族』に出てくるスケキヨを彷彿とさせる。表情がない。美しい彫刻のような顔から表情というものが抜け落ちるとこんなにも不気味に見えるものなのだろうか。対照的に、心に顔を出すのは笑顔の傑の顔だ。顔をくしゃくしゃにして笑う、不格好な笑い方をする同級生。そういえば最後にその顔を見たのはいつだろう。

「……傑に会いたい」

心から出た言葉だった。彼がその場にいなければいつだって感じていた気持ちだったが、私の淡い恋心ゆえに口にしたのは初めてだった。あまつさえ、あの悟の前で。しかし、悟は頷いた。俺も、と小さくぼやいた。泣いているんじゃないかと思われるような声に傑の声が重なる。あの時、私に帰れないと言った傑は何て言ったのか。痛みが煩くて思考がまとまらない。何か言っていた、はずなのだ。この目の前の泣きそうな顔をしている男と同じように、鋭くて真っ黒な瞳を一瞬だけ潤ませたしっとりと濡れた声をしていたはずなのだ。そして言う。彼の太い手首を掴んだ私に言う。
こん、という扉を叩く音に意識は現実に引き戻された。悟はすっかりスケキヨに戻っていて、扉を見つめている。

「かなた、起きているか」

夜蛾先生の声だった。私の代わりに悟が返事を返す。すると開いた扉からは眼窩を窪めた窶れ顔の先生が現れた。痩せた気がする。重なる傑の顔に鼻がツンと痛んだ。

「すまない。起きたばかりみたいだが、封印の間に来て欲しい」
「……傑に、会えるんですか」
「ああ。硝子も来てる」
「硝子も」
「……傑は治療中だ」
「アイツ怪我してたっけ」

悟が驚いたように口を挟んだ。私も同じように驚く。あの時の怪我は全て返り血ではなかったというのか。夜蛾先生はバツが悪そうに逡巡している様子を見せ、ややあって小声で呟いた。

「自殺未遂を、はかったんだ」

世界の色が変わる。
途端に室内を走る白い光が赤く染まって、部屋の隅にあの日の傑が立っていた。そして私に言う。言わないで。言う。言わないで。

帰ってきて。

「帰らない。かなた、私を殺してくれ」

赤い地球に言葉が響く。
愛する人の幕を引けと。




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