曇天に雨を呑む



しとしとと濡れそぼる鼠色のコンクリート上に愛した男が立っていた。かの有名な蜘蛛の糸のような細雨が彼と私を濡らし、静かな空間に広がっていく。その広がりの中には薄い赤色が魚のように揺蕩う。彼は顔を上げない。曇天は今朝方からずっと、ずっと世界ごと闇に飲み込んでいた。


まだ午前中のことだった。壁掛け時計は八時を指している。早朝四時半に叩き起された私は眠気と戦いながら任務を終え、外部の協力者から入手した情報をまとめた書類作成に手をつけたその瞬間だった。ヴーーッという大きな音にびくりと身体が跳ねる。欠伸を窘めるようなタイミングについ、居住まいを正す。見れば机上に置かれた携帯が震えていた。書類作成が苦手な私からすると出鼻をくじかれたようなもので思わず眉間に皺が寄る。サブディスプレイには着信の二文字。緊急でないことを祈りながら折り畳まれた携帯を開くと表示された『夏油傑』の名前で即座に応答ボタンを押した。

「もしもし?」
『やあ、仕事中?』
「書類作成中。何かあった?」
『人を殺したんだ』

ハッと息を飲んだ瞬刻、人生ごと揺れるような雷鳴が轟いた。ゴロゴロととぐろを巻いて、それが喉を締め上げている。思わず、ぴかりぴかりと閃光が巡る外に目を遣る。あー、やっぱり今日って一日雨なんだろうなあ。ぼんやりしてしまう頭がそんなことを考える。しかし、好転することはない状況が彼の口から告げられる。

『殺した、呪術師の男を十二人』

穏やかな声だった。凪いだ声の縁は雨に濡れていてしっとりと響く。なぜだか私は「そうなんだ」なんて当たり障りのない返事をしてしまった。じわりじわりと手指の温度が失われていくのを思考の外で感じている。私の返答が期待出来ないと分かったのか彼はそのまま言葉を続ける。

『御三家の人間だよ。五条家の奴もいた。悟はなんて言うか分からないけど私は後悔していない』
「意味がわからない」

心底分からなくて文句を言った。状況も言葉も理解出来ず、ただただ癇癪を起こす子どものような言葉に自らの顔面が三十度ほど温度を上げるが、涙腺はそれより早かった。呪詛師なら分かる。しかし、なぜ呪術師を十二人も。頭には学生時代の彼の穏やかな横顔が浮かんでいた。

『私はもう高専には戻れない』
「何言ってるか分からない! 戻ってきて!」
『それなら君が来てくれ』

雷鳴が轟いている。

来てくれってなに? 私に会いたいの? お腹すいたな。焼肉食べたい。頭痛いな。今日って何日だっけ。雷うるさいな。痛いな。

支離滅裂な思考が巡り、雷鳴のような光がチカチカと視界を白く染める。

『私の為に殺したんだ』

どん、と間近で雷が落ちた。

「今どこなの」


彼が任務を超えた殺人を行ったのはこれで二回目だった。学生時代、高専三年生の秋に任務先で三人を殺している。それはなかなか鮮烈な事件で、傑が血で真っ赤に染まった身体で子どもを二人連れてきた日のことはよく覚えている。その時の子どもは高専関係の施設に預けられ、彼はそのまま処分を受ける身となった。高専は彼のことを理解出来る派と理解出来ても容認すべきでない派と大きく分かれることになった。もちろん、上の連中は後者に属したが同時に「特級呪術師を我がモノにする機会だ」という邪な思いがあけすけであった。見苦しいものだ。

当時私は二級呪術師に上がったばかりで、それを傑に報告しようとした時に夜蛾先生を通じて凶行を知ったのだった。同時に理解した所もあった。彼がずっと悩んでいたのを知っていたからである。悟の前では軽口を叩いていたものの、目元は昏かった。唇は決まって固く閉ざすようになり、何より痩せた。何も言うまいとしていた彼に何度も声を掛ける私は滑稽だっただろうか。それでも何度となく声を掛けた。

今にして思えば、非術師を前にした時の胸のむかつきというものは彼と共通していたように思う。私は非術師が嫌いだ。非術師という括りではないかもしれない。呪霊が見える私を嫌う親が嫌いだ。同級生が嫌いだ。教師が嫌いだ。噂で喜ぶ近所のハイエナ達が嫌いだ。私を異常者扱いする病院、それに全く気付かずに薄っぺらいハリボテを掲げる政治家。みんなみんな嫌いだ。私は嫌いの二文字をずっと脳内に貼り付けて生きてきた。高専に入るまでは、ずっとずっと変わりなく。高専に入って状況は一変したが、高尚な理想を掲げる傑の目が自分と同じようながらんどうになった時には驚いたものだった。だから声を掛けた。

連日掛けられる声に彼も嫌気が差したような顔をしていたが、凶行の直前、灰原の死の直後ぽつりと声を漏らす。

「思い上がりだ」

やつれた七海を部屋に送った後に彼はそう言った。ぱたんと閉じた扉を睨めつけるような眼差しを横目で見る。当然、私は耳を傾けつつも頭を傾げた。きっと私たち二人は同じような顔をしていて、でもそれをわざわざ振り向きはしない。彼の感情のほんのひと掬いを聞くのは久しぶりだ。その日は夏の盛りで首筋と頬に伝わる汗がいやに煩わしい。

「思い上がりだった。私や君はここにいても非術師という名の猿に消費されていくだけだ。悟と違って」
「灰原を消費されただけだと言いたいの」
「事実、扱いはそんなものだろ。猿なんかに私たちのことは分からないんだから」

地を這うような声に私はどうしたのだったか。ただ手を繋いだような気がする。そして私は確かこう言った。「わかるよ」と。

「……君には分からない」
「分かってないかもしれない。でも、地球上には七十億人もいるのに傑に寄り添える存在がほんの一人でも存在しないなんて思いたくはない。私はその一人だよ」

本音だった。私が非術師を嫌いでも、同じように非術師を嫌っているのだろう傑と全く同じだとは思っていない。理解出来ていないかもしれないし、二人して同じ顔はやっぱりしていなかったかもしれない。それでも寄り添って理解しようとしている≠アとを突き放されたくはなかった。強く握ればきっと彼の手に爪は食い込むし、痣になるだろうがそれでも力任せに手を握る。彼はそれ以上何も言わなかった。彼の右手には数日消えない爪の跡が残った。

非術師を殺した彼に対する悟の対応は、実を言うと上の連中と同じだった。「傑は許すべきじゃない」。しかし、その言葉の後には「でも」の二文字が着いて回っていた。当時、傑は何も言い訳をするでもなく、ただ三人殺したとだけ語るものだから救うにしても、どうしたものかと頭を抱えていたことを覚えている。だとしても揺らいでいるのは火を見るより明らかで、そこに私は付け込むことにした。術式と縛りで傑に不自由を与え、その上で高専に置けばいい。そうしたら、いつかは傑も何か私たちに話してくれるだろうと。なんなら悟に土下座までした。あの長い脚に縋った。私の行動が果たして愛のようなものから来ているのか自分で全く理解は出来なかったが、悟は私の言葉に頷いた。

なんとか通ったその提案は誰の口からなのか、私の案であることが彼の耳に入ってしまったらしい。最初に顔合わせた際、彼は私に「何で」とぼやいたのである。私は答えなかった。答えを持ち合わせていなかったとも言える。一年ほどは傑も萎びた雑草のような様相だったが、私は傍に居続けた。威嚇され、酷い言葉を浴びることもあったが、それでも傍に居続けて食事を作り、部屋を掃除し、テレビを見せて、映画を共に見た。寝る時には彼の背中を摩って眠り、起きたら頭を撫でて過ごす。そんな生活が続き、1年を過ぎた頃には背筋を伸ばして高専を歩き回るほどに回復した。「君のお陰だ」と言葉を添えて。がらんどうだった瞳には温度が宿り、何かしらの感情が揺れ動いている様が見られた。嬉しかったと思う。嬉しくて嬉しくて、傑から隠れてこっそりと泣いた。それ以降は二人で寄り添って過ごした。美々子ちゃん菜々子ちゃんとも定期的に顔を合わせ、お父さんとお母さんみたいと言われた、あのむず痒さ。帰りに手を繋いで帰った冬。そんなことを繰り返した五年間、幸せだった。
しかし、今。それは再び崩された。

激しかった雷雨はなりを潜め、細かい雨粒が降り注いでいる。しとしとと濡れそぼる鼠色のコンクリート上に愛した男が立っていた。かの有名な蜘蛛の糸のような細雨が彼と私を濡らし、静かな空間に広がっていく。その広がりの中には薄い赤色が煙のように揺蕩う。彼は顔を上げない。静かな荒川の河川敷に人影はない。彼に倣って傘を差していない私の身体も冷たく濡れている。

「やあ、来たんだね」
「呼んだのはそっちでしょ」
「ははは、そうだった。でも賭けだったよ、かなたが本当に来るかは」
「来るよ。七十億分の一だから」
「ああ……うん。忘れたことは無いよ。だから私はあの時高専に戻って来られたからね」
「それならどうして呪術師を殺したの。しかも御三家の人間」
「……呪術師すらクソだった。それだけだよ」
「今更じゃん」
「そうだね。今更だ」

結われていない髪が萎れて風に揺れている。嵐の後の草木のような萎れ具合に、一歩踏み出して触れた。普段より重みのあるひと房を耳に掛ける。やっと見えたその顔に一息つくと、やっと彼は顔を上げた。分かりきってるのに「濡れてるよ」と言った私に彼は口元だけで緩く笑う。つられて私も笑う。雨が水面を揺らすのに凪いだ気持ちだけが広がっていた。荒川の河川は勢いよく流れていく。

「言ってよ、傑」
「許されるとは思ってない」
「私が許す。言って。自由になろう」

感覚が死んでいるのかもしれない。彼がもたらした死が決して無いわけではなくても、それでも許されるような気になる。いや、きっと高専には非術師も呪術師も殺した彼の名が罪として残るのだろう。私が許したところで世界が許すかは別の話だ。しかし私はそれを厭わずにそれでも尚思う。細雨に絡め取られて濡れそぼる彼を抱き締めたいと思う。

「……逃げてくれ、私と」

私はそう言う傑の手を取る。すっかり冷えた彼の冷たい手に触れて踊り出すように一歩踏み出した。こんな自由があったって良いだろう。七十億人の中で私だけが彼を許したって良いだろう。彼の怒りを飲み込んだって。

曇天の中、立ち上り続ける胸の煙が二つ川底へ溶ける。濁流の中、繋いだ手だけが温かかった。




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