せわあし


「傑って嫌な奴だよね」

突然、同級生のかなたがそう言った。
思わず目を白黒させる俺にかなたは不思議そうな顔をする。「何その顔」とでも言いそうな顔に、それは俺の方だと言ってやろうとして口を噤んだ。
かなたは傑の彼女だ。確か一年の冬頃に気付けば付き合い出していて、気付けばふたりの空気はすっかり変わっていた。かと言って、それが俺にとって何かの障害になり得ると思わなかったこともあり、硝子を含めた四人でよく遊んだ。時折、「先約があるから」とかなたに断られることもある。決まってその日は傑もいないので、あーはいはい、と納得していた。たまに喧嘩をしてもかなたがすぐに涙ぐむので、三十分以上喧嘩をしている様子は見たことがない。さっきまで喧嘩をしていたかと思えば、イチャイチャしながら部屋に消えていく。秒速で仲直りをするふたりの様子はまさに仲睦まじい=B互いの愚痴は当人がいない場所でも一切聞いたことがなかった。
しかし今、目の前で平然とかなたの口から傑の愚痴が出たのである。青天の霹靂にも近い。

「傑って嫌な奴じゃん?」
「そんなこと、ねえけど」
「えー? 見た目ヤンキーだし、優等生ぶってるくせに手が早いし、短気だし」
「なに、お前殴られでもしたの」
「私は殴られてないけど」
「まあ、傑が彼女殴るわけねえか」
「彼女?」

止まった。動かしていた手が。
携帯で掲示板を規則的にスライドさせていた手を止めて、かなたに振り向く。先程のように不思議そうな顔をしている。猛烈な違和感。かなたは傑と付き合っていることを誇っていた。そこの彼女、とナンパされれば「傑のですけどね」とドヤ顔で返すような女なのだ。

「お前、傑と付き合ってんじゃん」
「は? 付き合ってないよ?」
「別れたわけ?」
「付き合ってないんだから別れるもクソもなくない!?」

俺の困惑した顔にかなたもつい声を荒らげる。肩で呼吸し始めるこいつの眼差しは真剣そのものだ。意味が理解出来ず、こめかみを伝う汗がぽたりと教室の机に垂れた。
教室には今俺とこいつしかいない。三年になって俺たちは大きな災害の影響を受けて目まぐるしい生活を送っていた。ゆっくり食事をとったり、ゆっくり休憩を取るなんてことはかなわない。そこから流れ込むように本来の繁忙期である初夏を迎え、二ヶ月ほど他のやつの顔を見ていない、なんてザラにある。そんな生活も少し落ち着いてきたのは精々七月に入った、灰原が死んですぐのことだ。昨日が灰原の葬式で、今日がその翌日。珍しく授業に出られた俺とかなたがふたりで机を並べるに至っている。
そんな状況で久しぶりに会ってみれば妙なことを言うものだ。サングラスを外して目を懲らす。六眼で見通せる事情を覗き込むが、何かに呪われているという訳でもない。何だこれ。後頭部をガシガシとかいていると、きらりと窓の外から瞬間的に光が差し込んだ。反射的にかなたが「うわっ」と漏らす。がたりと椅子が鳴ったその時、何かが落ちる音がした。小さなその音にかなたは気付くことなく、「今のなんだろう」と言いながら立ち上がって窓の外を見に席を立つ。俺はそれを追い掛けず、音の正体を見た。身体を畳んで覗き込むと、かなたの机と椅子の狭間に落ちていたのは錠剤だ。真っ白な錠剤がPTP包装シートの中に二つおさまっている。既に四つほど飲まれている形跡があった。拾い上げるが、薬名がない。シートの表面にも、どうやら錠剤の表面にもなかった。

「おい」
「なに?」
「これ、何の薬だよ?」

俺の声に反応して、窓の外を見上げていたかなたが振り向く。またもや何のことか分からないとでも言い出しそうな顔をしていて、俺の血がのぼる。緊張感が背中を走っていくのを感じ、ごくりと唾を飲み込んだ。

「……飲んだ跡あんじゃん、これお前だろ」
「えー……あ、そうそう。飲んだよ。何の薬か分からないけど」
「分からないのに飲んだ?」
「うん。なんか飲まないといけない気がして」

何だそれ。普通そんな理由で薬飲まねえだろ。そう言いたいのに声が出ない。即座に立ち上がり、かなたの机の横に掛けてあるスクールバッグに手を伸ばした。青い布張りのスクールバッグにはポスカで少し落書きがされており、中には傑や俺、硝子が書いた落書きも混ざっている。傑が描いた形の歪んだ東洋龍に見つめられながら中を漁っていった。まどろっこしくて、逆さまにして中身を全て出す。かなたは「ちょっと!なに!?」と反射的に文句を言いながらも、俺の真剣な様子に無理に俺を止めるようなことはしない。ただ窓際から戻ってきたかなたはすぐ俺の横で突っ立っている。
中身はシンプルだった。教科書、ルーズリーフ、化粧品の入ったポーチと筆箱、白い紙の袋。これだ。白い袋には何も書かれておらず、中身は先程見た謎の薬だった。何か書かれていないのかと袋をひっくり返す。ガサガサと中身が飛び出すと、ひらりと紙が一枚。拾うと一言『辛いことを忘れる薬』とあった。
忘れる薬。
その言葉がぬるりと体内に入り込む。気持ちの悪い言葉だ。「これ、誰から受け取ったんだ」と言おうとしたところでガラリと教室の扉が開いた。

「二人ともここにいたのか。久しぶりだね」
「傑……」

傑が挨拶をしながら教室に入ってくると、なぜかかなたは眉間に皺を寄せる。途端に溢れ出す空気感の悪さに、入ってきた傑が驚いて目を白黒させていた。二年近くの交際の中でかなたが傑にこんな表情を見せるのは俺が知ってる中では一度もない。傑の反応を見ても、それはやっぱり無かったのだろう。

「どう、したんだい、かなた」
「別に。私もう行くから」

広げっぱなしのスクールバッグを置いてかなたは飛び出していく。傑の横をすり抜けるように飛び出すと、傑はすぐに声を掛けて腕を掴んだ。しかし、それは虚しく振り払われて足音は遠ざかって行った。口を半分開けて驚いている傑は、数秒して眉間に皺を寄せた状態で俺を振り返る。すぐに重い足音で近付いてきた。強く拳を握り肩を上げている様子を見ると、何かを勘違いして俺に詰み寄っているようだ。

「かなたに何かしたのかい。手を出しでもした?」
「してねえよ!する訳ねえだろ」
「じゃあ、あの反応は何なんだよ」

近頃痩せた傑の肌にはあまり張りがなく、目元には前より影が掛かるようになっていた。その昏い影の中で三白眼がギラギラと揺れている。「待てよ!」と宥めようとする俺の襟を傑の手が掴み、グンと持ち上げられた。締まる首元に、咄嗟に無下限が働く。それを見た傑がまた影を濃くした。

「ああ、そうかい」
「待て、聞けよ!」
「聞きたくない」
「馬鹿!かなたが変な薬飲んでるんだって!」

ピタリ。傑の動きが止まる。無下限を解き、傑の手を制しながら言葉を続けた。傑はなお、訝しげな顔をしている。

「かなたの様子が変だから調べたら、カバンの中から変な薬が出てきたんだよ。『辛いことを忘れる薬』なんだと」
「かなたが言ってるのか」
「そこに薬も紙もある!見てみろよ!」

渋々といった表情で俺の首は自由になる。一瞬ホッとした俺の表情を見ることなく、傑は広げられたスクールバッグの中身に目を通した。何も書かれていない奇妙な白い紙の袋はすぐに傑の目にも留まったようで、手に取っている。隅々まで見ても何も書かれていない。先程ひっくり返したPTP包装シートも見遣り、そこにひらりと乗っている紙を手に取った。『辛いことを忘れる薬』の文言に傑は目を見開いている。

「こんなもの……本物なわけ……」
「でもかなたの反応には違和感がある。何かはあるんだろ」
「それは六眼の情報か?」
「……俺の目で見てもそれは分からない」

冷たい視線が俺を刺す。傑も、こんな奴だっただろうか。暫く会わないうちにこんな目をするようになってしまったのだろうか。傑は大きな舌打ちをして教室を飛び出して行った。かなたを追い掛けることにしたのだろう。俺はただ立ち尽くしていた。
数秒経って漸く、傑の冷たい視線が溶けて身体が動くようになる。とりあえずは片付けようとかなたのスクールバッグにひっくり返した物をしまっていると、手から滑ってルーズリーフが落ちた。すっかり糊が剥がれたルーズリーフの袋から数枚紙が飛び出す。薄い紙はするりと広がっていき、机の下にも入り込んだ。何だかやるせない。俺はそれを一枚一枚拾うと、ふと書かれた文字が気になった。見慣れたかなたの文字だ。

『辛い。傑が優しい分、苦しまないといけないことが辛い。何で傑がこんなに苦しまないといけないの。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。彼女なのに、私何も出来ない』

ペンで殴り書きされたような文字の羅列がルーズリーフの端に走っていた。そうか、と納得する。これがかなたの辛いこと≠ナ、だから傑の優しさの出涸らししか覚えていないのだ。ドクンドクンと大きく脈を打つ俺の手が震える。耳元で何かが囁いている気がした。
俺はそのルーズリーフを丁寧に折り畳んでポケットに入れる。それ以外をしまったスクールバッグを持ち、かなたの部屋に向かった。
案の定、かなたの部屋からはかなたの大きな声が漏れていた。傑の反論するような声が聞こえる。今まで聞いたことの無い激しい喧嘩だ。俺はただすぐ横の壁に凭れ、待つことにした。怒号の響く喧嘩などそう何時間も続くことじゃない。目を閉じてそっと待つ。急く気持ちを抑えるが、それでも何度も携帯で時間を確認してしまった。時折大きな物音もしており、物をひっくり返しているのだろうことは読み取れる。
久しぶりな気がする。以前、かなたと傑が情事に耽っていて、俺は終わるのを廊下で待っていたことがあった。早く終わらないかと思いながら、僅かに聞こえる甘い声にどろりとした昏い思いに胸を焦がした。しかし、今その甘さは無い。
三十五分と少しだけして、傑は部屋から出てきた。少し髪の乱れた傑はかなたと少し揉み合いにでもなったのかもしれない。すぐ横にいた俺には目もくれず、力強い足取りで傑は早足に遠ざかっていった。今に人でも殺しそうな人相の親友を見送ってから、かなたの部屋に入る。
部屋は揉みくちゃにされており、位置がずれた机のすぐ横にかなたは座り込んでいる。そして───────恐らく、また、薬を飲んでいた。俺から見た後ろ姿でも、何かを流し込む様子が見て取れる。

「かなた」
「……悟。なんか、傑が怖いんだけど。何言ってるのか全然……分かんなくて」

意味の分からないこと繰り返し言うし、嫌だって言っても近付いてくるの。そう言ってかなたは俯いた。ぽつりぽつりと小さな水音は泣いているのだろう。俺はここぞとばかりに近付き、かなたを抱き締めた。ぎゅう、と力を入れても抵抗はない。きっと、これから抵抗されることはないのだろう。

「一つ聞きてえんだけど」
「な、に」
「お前好きな奴いる?」

ひっくひっくとかなたの嗚咽を宥めるように背中を撫でると、床に落ちるように「忘れちゃった」と濡れた声がした。




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