幻影の螺旋


ずっと彼が見えている。
声は聞こえず、触れることも叶わないがそれでも彼はずっと私の傍にいた。自覚したのはいつだったのか、正確なことは覚えていない。遅くとも私が幼稚園児の頃から見えていた。いつも彼は私の世界の中にいて、笑ったり怒ったり自由に過ごしている。

名前は分からない。ねえ、と声を掛ければ振り返るので何も困ってはいないのだが、それでもずっと一緒にいる人の名前が分からないというのは不便に感じていた。名も知らぬ彼は特徴的な前髪をしていて、髪をお団子にまとめている。そして学ランにボンタン、地下足袋という姿である。最初その特徴的な姿の名称が分からず、小学校に上がってから学校の授業中にパソコンであれこれワードを入れて調べたものだった。

園児の頃は彼を家族のように感じており、一緒に遊んでもらった気分にもなったものだが、小学校に上がる頃にもなれば彼が自分にしか見えないモノ≠セと理解出来た。彼の話をすれば母親は顔を引き攣らせ、父親は目を合わせてくれない。同級生はそんな私を笑う。異様な反応だと思っていたが、異様なのは私の方だった。

あ、この話はしちゃいけないんだ。

そう思ってからは口を噤んだ。友達という友達もいない私はすっかり喋る機会を失い、教室の片隅で背中を丸めて過ごすようになった。そんな私の心は、より名も知らぬ彼へと向かう。彼は一体誰なのだろう。家族じゃない。親戚じゃない。ご近所さんでも近くの学校のお兄さんでもない。周りで彼を知っている人はいなかった。あんなに優しくて、でもちょっと意地悪な顔をする彼を誰も知らないのだ。遠くに住んでいるお婆ちゃんにそのことを告げると、お前さんの守護霊だよ! 大事にせにゃならんよ! と電話口でしきりに言っていた。幽霊かあ、と認識したりもしたが、彼以外の幽霊も見えることはない。不思議なものだ。


小学三年生の春頃である。すっかり桜は艶やかな葉が繁り、道路の端にちらほらと白い花弁が数枚見られる程度の時期だ。その日は学校の帰りに雨が降っていた。雨粒は大きくないものの、サーッという勢いのある音がしている。雨のせいで白む視界。

今朝、母親から傘を持っていけと言われて持ってきた傘は傘立てから消えていた。一年前に買ってもらったお気に入りの花柄の傘だ。他のクラスの傘立てを見ても自分の名札が下がった傘がない。どうしよう、とオロオロしているうちにも外から雷光が差す。たっぷり三十秒の後に小さくドン、という音がしている辺り、雷はまだ遠いと少し胸を撫で下ろした。しかし、いつ近付いてくるか分からない。他の生徒は自分の傘を持って帰路についている。嫌だなあ。しかし、彼は扉の外に立って肩をすくめて笑っている。行くしかないということだろうか。雨靴の意味をすっかり失うことを覚悟して、白む景色に足を踏み出した。

雨は冷たい。朝晩で温度差のある時期ではあるが、今日は朝からあまり温度が上がっていない。夏場でもないのでひやりと身体が冷えていく。風は冷たく、びゅうと音がする度に肩が震える。歯がカタカタと震え始めるので、仕方なく家まで走ることにした。家まで続く歩道を走り出す。大きな水溜まりに足を突っ込む度にバシャバシャと水が跳ねた。傘を差して歩いている生徒たちからの視線を振り払いながら走っていると、段々と雨足が強まっていく。服を伝って、すっかり水没した雨靴の中でグチャグチャと音がして気持ち悪い。嫌だ嫌だと速度を上げた。

その時である。目の前から男性が歩いてきた。自分と同じように傘を差さずに歩いている人物だ。同じだ、と思うよりも早く違和感が脳を貫いた。

濡れていない。

白い髪がふんわりと立ち上がっていることからその事がよく分かる。ふんわりとした濡れていない白髪と、その下の黒いアイマスクという異質さに思わず足を止めた。じっと目を凝らす。よく見れば白い線のような雨粒たちが男性の身体を避けていた。見たことのない景色に自分が濡れていることも忘れて目を奪われる。

男性は雨の中、何の音も立てずに歩いていた。静寂が近付いてくる。人間らしくない強い違和感が男性の更なる異質さを物語っていた。同じ世界の生き物とは到底思えない。雨音と自分の荒い呼吸音だけがしている。無音の男は段々と近付いてきて、そして私の目の前でその長い足を止めた。

「久しぶり」

その言葉にまじろいだ。びっくりして何の声も出ない。咄嗟に周りに目を見遣るが、仕組んだかのように周囲に人影は無い。気付けば男性の背後に名も知らぬ彼が立っていた。気まずそうに目を伏せ、自嘲するように左口端だけがゆるりと上を向いてる。黒い学ランが白に溶けている。

「お前が死んで11年か。傑は去年死んだよ。傑もお前みたいにまた生まれてくるのかな」

何も理解が出来ない。ただ雨粒が降り注いでいる。私は死んでいないし、すぐる≠チて人が誰か知らない。それにもかかわらず、荒かった呼吸が更に荒くなっていく。息が出来ない。苦しくて胸を押さえた。肺がぜえぜえと音を立てている。

男性はアイマスクをしているせいで表情が全く読み取れなかった。まるでその為に着けているようだ。たじろぐ私はじり、と左足を後ろへ下げた。男性から目が離せない。体温がぐんと下がっていくのに対して、顔だけが紅潮していた。特に目頭が熱い。白む景色が歪んでいる。

すぐる≠ニいう名前が妙に胸に引っ掛かって、抜けない魚の棘のように意識を引っ張っていた。脳裏で名前を反芻させる。私のどこか、深い部分が声を上げている。

すぐる

「……アイツってお前のこと泣かせてばかりだね」

やめてよ、さとる。ホントのことなんて言わないで。

思わず零れた私のその言葉に、さとるは地に落ちるような笑いを落とした。そんなさとるの肩を彼がぽんと叩く。瞬刻、キンッ───────貫くような耳鳴りがした。

「かなた、たとえ君が死んでも傍にいるよ」

ぶわりと鮮やかな青が脳裏を駆けずり回った。

悟、まるで小学生男子のような同級生。
硝子、綺麗で大人っぽい友だち。
傑、優しくて意地悪な……好きな人。

死んで尚、焼き付く彼の笑顔が青に溶けた。




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