四時半のシンデレラ


アパートの四角い窓枠の外には、今日も紫煙が漂っている。午後四時、学校から帰ってくると大抵その紫煙は漂っていた。決まって私は全身鏡で自分の姿を見直す。着慣れたセーラー服に野暮ったい黒髪。でも、あの人も黒髪だから私は少しだけ呼吸が出来る。ほんの少しだけスカートを短く内側に折った。どうせ見えやしないのに、少しでも大人っぽく見られたくてさらけ出す太腿に触れる。細い産毛がさわりと指に触れた。

透き通る青い空が色を変えて、白いレースのカーテンの色までが茜色に染まる。茜色の斜陽に急かされて、慌てて窓を開けた。すぐに日に焼けた薄緑色のサンダルを引っ掛けてベランダに出ると、風に乗って紫煙が線のように空を上っていく。ベランダの室外機の上にはバジルの植木鉢が置いてあり、そのすぐ横にはクリーム色の隔板が設置されている。『非常の際には』という文言のすぐ向こう側から上る線に思わず拳を強く握り締める。私はゆっくり深呼吸をして、ドキドキと煩い心臓に手を当てた。そっと撫でて顔を上げる。三歩近付いて顔を覗かせると、ベランダの手摺りに腕を乗せて気だるげに煙草を吸う夏油さんがいた。私が顔を出すと、彼は物憂げに振り返る。いつも通り左手で煙草を持ち、右手には『Peace』と書かれた黒い箱と蛍光緑色の安いライターが握られていた。

「夏油さんこんにちは」
「やあ、かなたちゃん。おかえり」
「ただいま、です」
「最近早いね」

夕日に夏油さんのピアスがキラキラと光り、見蕩れそうになりながら「偶然ですよ」と返す。一ヶ月前に夏油さんとベランダで会話してからめっきり顔を出さなくなった部活に未練は無い。なんなら辞めてしまおうか、なんて思う。夏油さんが仕事に行ってしまうまでのたった三十分間の逢瀬の為に、それは賢い判断なのかは分からない。

ゆったりとした動作なのに、それでもチリチリと煙草は焼けていって、その毒を夏油さんの肺に運んでいく。彼の口数は特別多くはなく、大抵は私の学校生活の話を聞きながら相槌を打ってくれた。

隣の部屋に住む夏油傑さん。なんの仕事をしているのか分からないが、大抵夕方のこの時間に煙草を吸っている。四時半を過ぎると、出勤しないといけないからまたね、と顔を引っ込めてしまうのが常だ。彼のことはそれくらいしか知らない。

「かなたちゃんって、彼氏とかいないの」
「いません」
「へぇー? 可愛いのに。勿体ないよ」

可愛いという言葉に大きく心臓が跳ねる。近くで鳴くカラスの声なんて全部飲み込んでしまうような鼓動に自然と顔が熱をもった。発火するんじゃないかと心配で手を当てると、手がひんやりとして気持ちいい。俯くと夏油さんは、はははっと小さく笑った。

「……可愛くないです」
「そういう所、可愛いよ」

遊ばれているんだとは分かっている。だってこんなかっこいい大人の人が本気で私なんかを可愛いなんて言うはずがない。それでも嬉しくて、最近手入れを頑張っている髪に触れた。毛先を親指と人差し指で遊ぶ。減った枝毛のことを考えようとしても、ずっと頭の中にかわいい≠フたった4文字がぐるぐると巡った。

「げ、夏油さんは!」
「うん」
「煙草、やめないんですか」

話を逸らす為に懸命に話題を考えて出した。決して煙草を辞めて欲しいわけではない。もし、じゃあ辞めようかな≠ネんて言い出したりしたらどうしよう、と肝が冷えた。しかし、彼は「んー」と遠くを見つめたまま呟く。私よりずっと高い身長から線は伸び続けている。

「彼女が出来たらやめるよ」

笑った声がガランドウに響いた。カラスが鳴いている。背筋がひんやりとした。寒さすら感じる。自分なんかが彼に何か影響を与えられるんじゃないかと、一瞬でも思った自分に辟易した。手先が冷えて自分を守るように身体を抱き締める。それでもやっぱり、彼の横顔が綺麗だ。夕日が小さな黒目に映って、燃えるような瞳が好きだ。好きだ。

それなら、と隔板の向こう側に手を伸ばす。

「一本私にもくださいよ」
「ダメ。子どもには早いよ」
「子どもじゃないもん」
「まだ中学生じゃないか」
「でも、セックス出来るもん」

その言葉で遠くを見ていた彼が振り向く。まじろいでいる。黒々としたまつ毛が忙しなく上下に動いているのを見て、ほんの少しだけ私の気持ちが救われたような気がしてしまった。セックスですよ、と追い討ちをかける。

彼は「最近の子どもは成長が早いなあ」といいながら煙草を携帯灰皿に押し付けてから、筋肉のついた太くて大きな手で黒髪をぐしゃぐしゃとかいた。外で見る時には決まってハーフアップの髪は、今は下で緩く結んでいる。さわりとした風に髪が靡く。

「私、本気です」
「私が捕まっちゃうよ、オジサンだからね」
「夏油さんまだ28でしょ」
「それでも君の倍だよ」

む、として唇を尖らせると大きな手が伸びてくる。太くてシルバーの指輪がついた親指が伸びてきて、私の唇に触れた。感触を確かめるような手つきにまた顔の温度が上がる。むにむにと動く度に私の肩がびくりと跳ねて、彼はまた笑った。もっとして、とも、やめて、とも言えずにただ私は固まる。親指の腹がそっと私の唇を割り、薄く開いている口の中に侵入してきた。歯の縁に触れているのが分かる。何? 何しているの? 緊張から困惑の色が濃くなっていった。歯列をなぞる動きに、時折口内のささやかな水音が混ざる。

「……ねえ、かなたちゃん」
「はひ」
「私が君をお持ち帰りしようかなって言ったらどうする?」
「え?」

テイクアウトひとつお願いしようかな、という言葉に頭が真っ白になる。かと思えば、すぐに大人の情事が頭に浮かんだ。しかし経験のない私ではなんとなく男女が縺れあっている様子しか思い付かない。あれ? これって妊娠するんだっけ。避妊具ってやつがあるんだっけ。ぐるぐるとよく知りもしない知識が頭を駆けずり回る。まともな返事が出来ない私から大きな親指が遠ざかっていった。名残惜しくその動きを目で追う。親指は主の元へ帰り、そして彼の唇に。

「冗談だよ」

お持ち帰りなんてされちゃダメだよ、と彼はベランダから姿を消した。四時半だった。




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