アンチ・ノスタルジア・アンチ


「私と付き合ってほしい」

付き合いの長い補助監督の井伊橋さんからそう言われたのは三時間ほど前の出来事だ。午前中から雨粒の大きい雨が降っていて、自力で移動することも多い私だったがその日は補助監督の車に乗車することに決めた日だった。フロントガラスのワイパーが雨粒を流していく。帰り道ぼんやりと呪具の手入れをしながら補助監督の声に耳を傾けていると、左手をひと周りほど大きな手に掴まれた。驚きで咄嗟に手を引いたが、それは力強い意思によって阻まれる。困ります、と言おうとした私に井伊橋さんの真剣な眼差しが刺さった。

「噂で聞きました。あの、夏油さんと付き合ってらしたんですよね。でももう過去のことじゃないですか。これからのこと、考えてはもらえませんか」

ガツンと殴られた気分だった。彼を過去というたった二文字で片付けられてしまうことが、それが当然のような眼差しに思わず呼吸が止まる。いつもなら簡単に出る「ごめんなさい」が口から出ない。カラカラに渇いた喉が張り付いて仕方ない。ただ俯くことしか出来ず、そして彼の手と違う補助監督の手を柔らかく制することで私は何とかその場をおさめた。


部屋に戻ってクローゼットを開くと、その半分は学生時代の物で溢れていた。まるで昨日まで着ていたように制服がハンガーに掛けられている。

捨てよう。

そうだ、捨てよう。三十になって、やっと私は高専の制服を捨てる覚悟を決めた。高専を卒業して十年ほど経過した春のことである。立ち続けた執着の彼岸からやっと一歩足を遠ざけたのだ。逆に一歩踏み出してしまえば彼との思い出に溺れていく恐怖に日々、今でも怯えている。高専には彼の亡霊が住んでいて、いつでも私の腕を引いた。眠りに落ちても網膜に焼き付いた彼の姿が外側膝状体を通って、脳波を犯す。一度嫌な男だと思ってしまえば、私の口からは恨み言とまだ熱を失わない想いを白状するに至った。

私は指定の四十五リットルのゴミ袋を引っ張り出して、クローゼットの中で眠り続けた私の少女性をぐちゃぐちゃに押し込んだ。ボロボロの物もあれば、大切に綺麗にされた物もある。彼に撫でられた肩口に思わず手が止まった。亡霊の手が伸びる。

「かなたは黒が似合うよね」

視界の端で白く微笑んでいる。私はその声を聴きながら、想いごと袋に詰め込んだ。一年生の頃から何となく捨てられずにいた制服は二桁に及ぶ。大怪我をした時に治療の際、捨てられた制服以外全て手元にあるからだ。これは彼と初めて会った時の物、これは初めて二人で出掛けた時の物、これは初めて二人で向かった任務で怪我した私を抱えてくれた時の物。何度も何度も止まる手を叱責して、透明な袋は黒く染まっていく。懐かしいという思いと、どうしてこうなったんだろうという想いでぐわりと目が眩んだ。ノスタルジーなんて言葉では片付けられない、コールタールのようなドロドロの思い出に手も足も囚われる。頭を振っても振っても声がした。

「かなたはしょうがないね」
「スカート短すぎない?」
「二人で行こうよ、悟と硝子には内緒で」
「え? 嫌だ、まだ言ってやらないよ」

「君は私を追い掛けてきてはいけないよ」

ぱたりと音がする。ぱたりぱたりとその音はとめどない。ぼんやりと床を見ると、そこには水滴が連なっていた。ぽたり、ぽたりと数を増やしていく。頭が痺れる。

初めて会ったのが十五歳の時。春生まれで誕生日を祝ってもらうには微妙な季節生まれである私に「早生まれも遅生まれも面倒だよね」とフランクフルトを奢ってくれた。そこから十五年。人生は倍生きてしまったのに、貴方を置いて私は人生を歩んでしまう。全て置いて、その先へ進む私の足が憎い。そう思わせてしまう貴方が憎い。

悔しくて爪先でクローゼットの扉を蹴る。罪もない木材が軋む音と、勢いでゴミ袋にも足が当たってガサガサと音がした。

「女の子がドアを蹴るなよ」

女の子扱いしないでよ。もう私オバサンなんだから。貴方とデートした私の倍生きてるんだから。

一枚制服を手に取って壁に投げつける。布の音と制服のボタンがぶつかる硬い音。またゴミ袋から制服を一枚出して壁にぶつける。取り出してぶつける。取り出してぶつける。取り出してぶつける。顔面で涙と鼻水と唾液が混ざった。ぐちゃぐちゃの顔を拭いてくれる人はいない。途端に全身の力が抜けてぶらりと腕が垂れた。へなへなとゴミ袋の上に座り込む。ふと、手に何かが当たる。

折り畳まれたルーズリーフだ。見たくない。だのに手が勝手にそれを開く。

「今夜部屋行っていい?」

たった一言。狭いワンルームにむわりと立ち込めるあの日の夜の酸素は少ない。息苦しくて、嗚咽すら飲み込んだ。慟哭。

───────慟哭。





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